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「親魏倭王」の印について
- 「親魏倭王」という称号は、倭国全体の王であることを意味している。
- 「邪馬台国王」とは明示していないため、他のクニが連合体の盟主になった場合にも受け継がれる可能性がある。
- 「邪馬台国は北部九州にあった」という考え方は、纏向遺跡や箸墓古墳から見つかった「親魏倭王」の印と矛盾しない。
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箸墓古墳を発掘して、そこで「ここは卑弥呼の墓です」と書いた何かが出てこない限りは白黒の決着はつかないと思います。そもそも金印が二つ出てくることはあり得ない。社長印があっちこっちから二つも三つも出てきたらおかしいじゃないですか。 私個人は、心情としては邪馬台国は九州にあって欲しいと思っていますが、後漢時代の古代中国語で「邪馬台」を読むと「ヤマタォ」になると聞いてから「勝負あった」と思っています。 魏志倭人伝の「南に百日」は、あえて東と南を変えて報告したのではないかなと思います。なぜなら、南方に邪馬台国があるなら、それは呉(当時は三国志の時代です)に対する「後方からの牽制」が期待できるし、それを思わせることによって皇帝の歓心を得ようと思ったと考えられるからです。それが魏の誰かから「それ、東っていうより南っていっておいたほうがいいよ」と入れ知恵されたか日本側の考えによるものだったかは分かりません。 また纏向遺跡の発掘品の傾向から推測すると、邪馬台国は一つの国家ではなく「各国が集まって連合政権を行う」という、いってみれば持ち株会社か国連のような存在だったのではないかな、という気がします。 そして卑弥呼はひょっとしたら個人名ではなく役職名で、各国が集まって邪馬台国で合議して決めたことに「卑弥呼の占いで承認された」というお墨付きを与える存在だったのかな、という気がしています。もしそうなら「天皇機関説」ならぬ「卑弥呼機関説」になるわけで、日本の政治・統治システムは邪馬台国にして完成していたのかなとも思います。 というのも、そういう制度が日本人には一番争いごとが起きないシステムだからです。 邪馬台国論争は、決着がつかないから面白いという言い方もできると思いますよ。実際、決着がついちゃったらつまらなくなるじゃないですか。
お礼
ありがとうございました。 後漢時代の古代中国語で「邪馬台」を読むと「ヤマタォ」になると聞いてから「勝負あった」と思っています。……私のような「歴史大嫌い」には分かりませんが、何時か機会があったら教えてください。 それを思わせることによって皇帝の歓心を得ようと思ったと考えられるからです。……これは、「にわか歴老」には分からない世界です。「歴史学」というよりも「人間学」みたいな。 邪馬台国は一つの国家ではなく「各国が集まって連合政権を行う」という、いってみれば持ち株会社か国連のような存在だったのではないかな、という気がします。……なんか、現代に置き換えると分かるような気もするし、……。 そして卑弥呼はひょっとしたら個人名ではなく役職名で、各国が集まって邪馬台国で合議して決めたことに「卑弥呼の占いで承認された」というお墨付きを与える存在だったのかな、という気がしています。……なるほど。それ以上追及する気持ちにはなれませんが、「なるほど」と感じるところはあります。 もしそうなら「天皇機関説」ならぬ「卑弥呼機関説」になるわけで、日本の政治・統治システムは邪馬台国にして完成していたのかなとも思います。……すみません。知識がないので、また、「なるほど」になってしまいました。でも「機関説」が少し理解できたような気がします。 「一番争いごとが起きないシステム」……今一番必要なシステムなのかなぁという気がします。 邪馬台国論争は、決着がつかないから面白いという言い方もできると思いますよ。実際、決着がついちゃったらつまらなくなるじゃないですか。……笑笑笑……全く同感です。失業者は出ないと思いますが、失望者を出しちゃいけないですよね。そのような趣旨もあっての質問でした。 本質問とは、全く関係ありませんが、先日の「幕末の海防」へのご回答、良かったです。私のコレクションにしました。