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『晋書』『佩文韻府』に「景初四年」?
邪馬台国論争の主要な論点の一つに、三角縁神獣鏡=中国製説vs日本製説がありますよね。以前、京都の古墳から「景初四年」の年号が入った三角縁神獣鏡が発掘されたとき、その年号は魏では使われてないから日本製の証拠だ、といわれていたように思います。 ところが、週刊新潮の6/16号に、『邪馬台国』論争にケリをつける!?「卑弥呼の鏡」の新証拠!という記事があり、その中で聖徳大学の山口博名誉教授が、『晋書』や『佩文韻府』という文書に「景初四年」の年号が出てくるので、この年号は実際に使われていた、と言っています。『晋書』は唐、『佩文韻府』は清の時代の文書だそうですが、本当に「景初四年」が出てくるのでしょうか? 出ているとしても、そんな後の時代の文書が証拠になるのでしょうか?
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- Ryota2000
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邪馬台国論争の新見地は反響が大きいようですね。 中国史料を地道に掘下げた論文はなかなか注目されないけれど邪馬台国関係は特別扱いです。それで、論文発表や講演発表の前に、標題をエントリーするだけで取材をうけ、記事になってしまうことが多くあります。2009年の炭素年代の成果も新聞報道が学会発表に先行しました。 さて、今回の新知見は(1)「銅鏡の鉗文を止め・・」が特注説に関連付けられたこと、(2)「景初四年」が『晋書』天文志に見られ、「景初四年」銘鏡に関連付けられたという点です。いずれも卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡を優位にするものです。 (1)国産鏡説の反論について 卑弥呼の「銅鏡百枚」三角縁神獣鏡説では三角縁神獣鏡が中国で発見されないこと、すでに400面以上発見されていること、「景初四年」の実在性から、国産説の反論材料となっていました。ただし、今回の知見でも鏡の下賜は補強され、どの鏡に該当するかですね。 近年の三角縁神獣鏡の研究者は三角縁神獣鏡が遣使のときに一括生産されたのではなく、五段階にわけて生産されたと考えます。黒塚や西求女塚の三角縁神獣鏡は1・2段階のみ、 そうすると古墳時代の開始も卑弥呼二回目の遣使か、台与の遣使、あるいは帯方郡までの遣使による下賜で、伝世期間もほとんどなかったということです。 卑弥呼の下賜鏡は一部が都の官営工房でつくられたとしても、大半は出所やいわれを銘する「鉗文を止め」、倭人好みに出先の郡で段階的につくられた特注品だった可能性です。 また、女王への特別な下賜鏡と、女王を介して臣下に配布される量産の三角縁神獣鏡があり、製作地も分かれるという意見があります。この意見では、半島製作による「景初四年」銘鏡の説明もつきやすくなります。 白石太一郎ほか『邪馬台(ヤマト)国』2010 雄山閣 西川寿勝『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』2000 学生社 (2)「景初四年」について 『晋書』天文志は「景初四年」と記載せず、単に「四年」です。近刊の季刊『邪馬台国』108号で、入倉徳裕さんがこの問題に触れ、『晋書』天文志に出現する二例の「四年」はいずれも「青龍二年」・「青龍三年」の占い記事に対応する文章で、景初ではなく、「青龍四年」と理解するべきと指摘します。 ところで、邪馬台国問題では『隋書』以降の文章は余り議論されません。『隋書』倭国伝の冒頭で「やまとに都す。すなわち『魏志』の邪馬台なる者なり」という記事があるからです。したがって、『隋書』を参照する後の歴史書の検討では邪馬台国=大和が前提となる可能性があるからです。例えば、『旧唐書』にある「日本国は倭国の別種なり。・・倭国の地を併せたり・・」などの解釈も九州邪馬台国との両立や併呑とは議論が展開しません。最近の某研究会で感じました。 入倉徳裕「『晋書』に景初四年は存在しない」『季刊邪馬台国』108 2011.1
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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邪馬台国って素人も何か空想できますね。 あぁ素人です。『晋書』と『佩文韻府』に、「景初四年」というフレーズがあったことを発見したのは山口博名誉教授がはじめてでしょうか? そして山口博名誉教授は『晋書』と『佩文韻府』に「景初四年」というフレーズがどのように出され、或いは引用されているかのご説明もあるんでしょうね。 そしてそれが魏で使われていたというご説明もあるんでしょうね。そして更に魏の一般の記録では残っていない理由も触れられているんでしょうね。 京都の古墳から出た三角縁神獣鏡に、「景初四年」の年号が入っているかも学界はもう研究されているんでしょうね。 私は違う違うっていくことよりも、肯定から入りたいですね。 回答ではなく、もっとみなさんのご説明が聞きたくて投稿します。 ご免なさい。
- TANUHACHI
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早速の御回答をいただきありがとうございます。自己紹介が遅くなったことをお詫び申し上げます。 僕の専門分野は学部・大学院で「日本史学」それも古代・中世史でした。その関係もあって今現在も企業勤めの傍らで母校の特任教授として学生に接しております。そのために史料のことから始まって方法論としての政治学や社会学更には画像解析などあらゆる学問分野に首を突っ込まざるを得ない状況に直面する日々です(職場ではパソコンの画面やらシステム仕様書やらプログラムリストとにらめっこ)。 さて学部時代の特殊演習として史書の購読に参加していた時の資料を辿りましたところ、中国の歴史家である劉知畿の『史通』での「晋書」に関する記述を検出しました。(『晋書』には)「語林」「世説新語」「幽明録」「捜神記」といった書物に記載された逸話などが採用されていることから「分量さえ多ければいい、資料収集が広ければいいという態度だ」として史書としての編纂姿勢に疑念がある、との一節です。 確かに趙翼の「二十二史箚記」辺りのダイジェスト版的な史書を覧ましても「晋書」には疑問符を着けざるを得ない部分が多々あります。 また御指摘のとうり「景初四年」の年号は中国側で公式には存在しない年号であることも確定していることから三角縁神獣鏡が中国製ではなく日本国内の何処かにあった工房で作られたとの見解も金属成分の分析データなどから僕は「取り敢えず現時点では正当なモノ」と理解しております。 試みに「晋書」と景初四年の記載の問題をこれから少し調べてみようかと考えていた所です。もし晋の政権下にあって「景初四年」の年号を用いる組織や部署があったのであれば、それは晋が三国時代にあった政治・行政組織を自らの支配下に飲み込む形で再編して新たな国家統治の機関として位置付けていた、と考えることも成り立つことにつながります。 中国史にはあまり詳しくはないのですが、日本でも室町時代初頭の「二頭政治」と呼ばれる時期には足利直義の下知状と呼ばれる一群の古文書があり、この背景には建武新政を打倒し武家政権の再生を実現するために前政権である鎌倉幕府の組織とそれに関わって実務処理を行っていた人間を受け入れざるを得ない現実があったとの見解があります。 現代に類例を求めるならば、差し詰め「年金問題」を解決するために社保庁を廃止したはいいけど実務遂行に関しては当事者を多少は受け入れざるを得ないとのジレンマ、に喩えることができるでしょう。
お礼
再度のご教示ありがとうございます。 企業勤めと特任教授ですか。両立するの大変そうですね。 さて、魏の時代に公式には存在しなかった「景初四年」を使うグループがあったとしても、皇帝が卑弥呼に与えた鏡にその年号が使われるのはありそうもないですよね。それ以前に「景初四年」を使うグループがあったかどうかもはっきりしないわけですから。なので、文書中に「景初四年」が本当に出てくるのか、それが事実かどうかを確認したいのですが、『晋書』や『佩文韻府』なんて簡単には見られません。なので、専門の人に教えていただきたいのです。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
「あぁ、またか」という感じで件の記事をパラパラと立ち読みしました。予想どおり「何もない空疎な思い付き」でした。抑も「晋書」は「後漢書」の後を受ける形での正史として編纂された書物です。その「晋書」にどうして前の時代の出来事を記す必要があるのでしょうか?。それも大国としての漢にとって当時の日本は取るに足らない存在でしかありません。それを態々と公的記録に記載する理由がどこにあるのでしょうか?。 この点一つとってみても、山口なる人物の仮説が思い付きに基づく虚構であることは疑いの余地もないところです。考古学や歴史学の世界にとって「邪馬台国」なる存在が歴史上にあったことに意味があるのであって、それが何処であるのかは二次的な問題です。 史書の中には記述として「前例としてこのような事項があったので、今般の皇帝の判断は正しかった」などとの意味合いで「過去」を引用して現在を正当化する根拠とする傾向はありますが、それはただ単に裏付け的な意味でしかありません。「桀紂の如き帝王」との言葉がありますが、これは「苛斂誅求を極める暴君」との表現です。別に今の時代に夏時代の桀王や殷時代の紂王がいるとのことではありません。 恐らくは山口某の名誉心から出た宣伝でしょうね。また週刊誌も記事とするモノが不足していて紙面を埋める程度の認識でしょう。軽く受け流す程度に留め置かれた方が良いですよ。
お礼
ご教示ありがとうございます。 これまで名前も聞いたことがない人なので(専門は平安文学のようですが)、私も???と感じます。記事を見ても、論文などで発表している様子もないですし。 ただ、『晋書』や『佩文韻府』という文書に「景初四年」という年号が出てくるという部分はやっぱり気になります。文章の解釈なら何とでもいえるでしょうが、特定の文書に特定の言葉が出てくるという事実までがデタラメということはないように思うのですが。
- misawajp
- ベストアンサー率24% (918/3743)
牽強付会であろうが、完璧に否定されないならば、何でもあり 的な傾向があります 特にマスコミとマスコミ受けを狙った学者に多く見られます 後は日本国内では声の大きさと力関係、マスコミへの売り込み熱意です 可能性のひとつ程度に受け取るのがよろしいと思います
お礼
ご教示ありがとうございます。 確かに、邪馬台国関係の本は、何でもあり、な感じがしますね。 なので、山口氏の言っていることが、邪馬台国論争の決め手になるとは思いませんが、事実として「景初四年」という年号が出ている文書があるのか、それが気になります。
お礼
具体的なご教示ありがとうございます。 三角縁神獣鏡の製作場所や工程は、色々な説があるようですが、はっきりした根拠はなくて、そうとも考えられるというもののような印象があります(はっきりした根拠があれば色々な説がでることはないでしょうし)。山口氏がいう「銅鏡の鉗文を止め・・」も、それが特注の証拠といわれると、そんなんでいいのかなという気がします。 季刊『邪馬台国』のHPをみると、104号に「景初4年」は存在した!というのがあるので、108号のはその反論でしょうか。まだ読んでないので、どちらが正しいのかわかりませんが、『晋書』の「景初四年」がそうでないとすると、『佩文韻府』も怪しくなりますね。ただ、専門家がそんな間違いをするかという気もしますが・・・