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枕詞「ひさかたの」の解釈について
枕詞「ひさかたの」の解釈について ネット検索すると、枕詞「ひさかたの」の解釈は種々あるようです。 多くの説を検索しきれてはいませんが、 以下の歌を(1)(2)(3)のように解釈した場合、何処に無理があるかご指摘をお願いします。 (1)(2)(3)の解釈から(4)の意味になったという流れです。 ひさかたの光 のどけき春の日に しず心なく 花の散るらむ (なお、空白は意味の区切りです) (1) この歌の登場人物について 詠んだ本人と詠まれた相手。この相手に心情を吐露する、といういかにも他の歌にも当てはまる情景。 そして光は、春の陽光でありかつ、心情を吐露する相手でもある。 (2) 古語「久し」と古語「方(かた)」について 歌の詠み手にとって、(相手との距離ができて以来)長き時間が経過し(=久し)、かつ時間のかかる遠い場所(=方)にいる。 (3) 「ひさかたの」が掛かる「光」について 歌を詠む者にとって時間(や距離)の長さを感じさせるのであれば、天空の月、雲、天...、どこからか遠い先から降ってくる雨・あられ...、地上のことで言えば、地方から思いをよせる遠き都、などなどがあり得る。 この歌では、「光のどけき」にも掛けての「光」を選択。 歌の詠み手にとって、ひさかたの光はそんな遠い存在の相手のことを指す。 両者を隔てるもの(物理的・心理的遠さ)に込めた「久しさ」は計り知れないが、それが理由となり「のどけき春と桜、しず心」からは考えられない裏腹な「散る、心離れ」が起きてしまったことを吐露する。 (4) 以上をまとめて訳すなら、 はるか遠いところにいるあなた(=ひさかたの光)(←呼び掛けです) 時が経ちあなたのことを思うと、私の心境は穏やかではありません。 あなたも私も肌で感じているであろう、のどかな春ではあるのに(=のどけき春の日に)、 私のほうはといえば、落ち着きのない気持ちで(=しず心なく)、 花(桜)の散るごとくどうして心があなたから離れるのだろう(=花の散るらむ)』 回答は急いではおりませんが、 よろしくお願いします
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- hue2011
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ものすごいこじつけで感心いたしました。 意見はもとめないで発表したらいかがですか。 ただ、無理を指摘、というのであれば、ひさかたの光、を呼びかけと考えたとこでしょうね。もし呼びかけるのならひさかたの光よ、です。 あなたは、光、のところでワンスペースあけてのどけき春の日にとやって意味の区切れだと言ってますが、そこに間違いがあります。 光のどけき春の日、です。それの形容にひさかたの、があるのです。 ゆっくり暖かに包み込んでくる春の日なんです。 ひさかたの光のどけき春の日、というのは、とおいところからずっとつながってくる自然の中でゆっくり暖かく自分たちをくるんでくれる春の日です。ほのぼのとしてしかも、安心感があります。理由は昨日まで冬の日であって凍えていたからです。 それはうれしいうれしいことです。そこに桜が咲いています。当然山桜です。 これがちらほらちらほらと花びらを散らすんです。ああほのぼのとした空間にひたりたいのに花が散るんだな、と、責めるわけじゃないけど、ほんのちょっとがっかりだよ、と言いたいために自然よ心がないんじゃないかと愚痴ったのです。それを主張するために「しず」という卑しいじゃないかということばを使ったわけです。 ですから、暖かくゆったりして気持ちが晴れているところに咲いている桜がちらほら散るのが気持ちを落ち着かせない、イケズ、というような意味が正しいと思いますよ。 どんな本でもそう書いているからそれに逆らいたかったのかもしれませんけど。 (1)の無理は心情を吐露する相手が光だというこじつけです。光はのどかだといってるんだから、その光は山田花子みたいな人だということにあるのでしょうか。 (2)の無理は空間の隔たりを長き時間が経過、という時間の流れにしたところです。もし時間軸にしたら、季節という考えは捨てることになりますから花を歌うことに無理があります。 (3)は(1)と同じですけど、人間を相手にしたよびかけだというこじつけが無理です。
お礼
ありがとうございます 参考にします