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以下の文章(『悲劇とは何か』)についての質問

以下の文章(【本文】以下)についての質問にお答えいただけますでしょうか。 【質問】 1."悲劇的感覚的"とは何か。 2."このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく"とあるが、このように強調しているのはなぜか。 【本文】 ミラーの論旨は、「悲劇的感覚は、個人の尊厳("personal dignity")を確保するためには死をも厭わない人間を前にしたとき、観客の内部に喚起される」というもので、かつては英雄、現代では「普通の人」もその主役になり得る、つまり悲劇は時代を超える、と言う。これはローマン(Loman = low man) と名づけられた平凡なセールスマンの悲劇の意義を説くために書かれたものだが、しかしながら、残念かつ不可解なことに、作者自身の主張とは裏腹に、このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく、混濁した意識のまま幻覚を抱いて死ぬにすぎず、いささかの「尊厳」も感じさせない。この劇が時代を超えたとは言い難く、何より作品の与える素朴な印象として、ミラーの創作した「現代の悲劇」が過去の古典悲劇と同質なものであると認めることはとうていできない。

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  • Nakay702
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回答No.3

再度のコメントを拝見しました。 >“「社会の巨大な力を把握することや他者と和解すること」は、「死をも厭わぬほどに個人の尊厳を尊重すること」とは、《似ても似つかぬ所業である》”とのことですが、このことは本文に書かれていることから推測できるのでしょうか。 ⇒はい、まさに上記の部分から推測しました。 一方の「死をも厭わぬほどに個人の尊厳を尊重すること」は、「自尊」の極地であり、他方の「社会の巨大な力を把握することや他者と和解すること」は、「没我」の世界だからです。「欲求階層説」(A.マズロー)でいう自我実現と欲求実現の違い、と言えるかも知れません。あるいは、少々乱暴ですが、聖と俗、理念と野心、精神と物質、名誉と金銭…などに対比してもよいような違い、と言ってよいかも知れません。 >注目した本文:“このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく、混濁した意識のまま幻覚を抱いて死ぬにすぎず、いささかの「尊厳」も感じさせない”。この文を社会の巨大な力の把握や他者との和解がない人物(“このセールスマン”)からは尊厳が感じられないという意味と取ったので、回答者様の解釈とは異なると思われるのですが、その点についてはどのようにお考えでしょうか。 ⇒この点の解釈については、hiroyukidiさんと私の間に違いはないと思います。 「この文を社会の巨大な力の把握や他者との和解がない人物(“このセールスマン”)からは尊厳が感じられないという意味と取った」という点では、私も同じです。もしも彼が、「社会の巨大な力を把握しようと画策し、他者と和解しようともがき、葛藤する」なら、ある種の「尊厳」を感じさせるかも知れません。そして、そこにこそ現代の悲劇を読み取ることができるかも知れません。ところが、実際は逆ですね。「社会の巨大な力」に流されるだけの人物(“このセールスマン”)からは尊厳も感じられませんし、悲劇的感覚も湧きません。 もっとも、人間がそういう巨大な力に翻弄されるしかない現実、個人としてはあまりに微力で、いかにしてもそれに対抗する術がないことを悲劇的状況として感受し、それを現代的悲劇として訴えたいのが著者の意図である、という解釈があり得るかも知れません。それなら、シェイクスピア的感覚とはまったく異なる現代的な悲劇の感覚・パターンとして捉えられる、という解釈があり得るかも知れません。そのように見ると、ミラーは面白い見解を提示したとも言えるのではないでしょうか。 ☆以上のような意味では、シェイクスピア悲劇の現代性という視点から、新しい刺激・知見をいただいたように思います。ありがとうございました。

hiroyukidi
質問者

お礼

重要なご指摘をいただきありがとうございます。

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  • Nakay702
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回答No.2

コメントを拝見しました。 >1."悲劇的感覚"の必要条件は何か。 ⇒「個人の尊厳を確保するためには死をも厭わない」という悲愴感でしょう。常識的に考えると、「生あっての尊厳」ですから、「一部のために全体を失うことも厭わない」という不条理があるわけで、そこに現代では考えにくい「古典的悲劇」の特徴があるのだと思います。 >2.社会の巨大な力を把握することや他者と和解することが「死をも厭わないほどに個人の尊厳を尊重する」ことならば、それは何から分かるのか。 ⇒いや、それはまったく逆です。 前便の質問2では、「社会の巨大な力を把握することや他者と和解すること」は、「死をも厭わぬほどに個人の尊厳を尊重すること」とは、《似ても似つかぬ所業である》、と申しあげたのです。

hiroyukidi
質問者

補足

Nakay702様 再度のご回答ありがとうございます。 ご回答の内容につきまして質問させていただいてもよろしいでしょうか。 大変恐縮ですが、ご回答頂けますと幸いです。 【質問】 “「社会の巨大な力を把握することや他者と和解すること」は、「死をも厭わぬほどに個人の尊厳を尊重すること」とは、《似ても似つかぬ所業である》”とのことですが、このことは本文に書かれていることから推測できるのでしょうか。 注目した本文:“このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく、混濁した意識のまま幻覚を抱いて死ぬにすぎず、いささかの「尊厳」も感じさせない”。この文を社会の巨大な力の把握や他者との和解がない人物(“このセールスマン”)からは尊厳が感じられないという意味と取ったので、回答者様の解釈とは異なると思われるのですが、その点についてはどのようにお考えでしょうか。

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10082/12630)
回答No.1

以下のとおりお答えします。 1."悲劇的感覚的"とは何か。 ⇒個人の尊厳を確保するためには死をも厭わない人間を前にしたとき、観客の内部に喚起される感覚を「悲劇的感覚」という。 2."このセールスマンは社会の巨大な力を把握するでもなく、他者と和解するでもなく"とあるが、このように強調しているのはなぜか。 ⇒「死をも厭わないほどに個人の尊厳を尊重する」ことと似ても似つかない所業であることを浮き彫りにするためである。 ☆前回のご質問No.9501573に対する回答(の一部)とほとんど同じです。

hiroyukidi
質問者

補足

Nakay702様へ ご回答いただきありがとうございます。 ご回答の内容につきまして質問させていただきたいと思います。 お時間のあるときにご回答頂けますと幸いです。 【質問】 1."悲劇的感覚"の必要条件は何か。 2.社会の巨大な力を把握することや他者と和解することが「死をも厭わないほどに個人の尊厳を尊重する」ことならば、それは何から分かるのか。

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