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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸の町の裏長屋について。)

江戸の町の裏長屋について

このQ&Aのポイント
  • 江戸の町の裏長屋は、大都市の町人居住地で、路地裏に建てられた下層庶民の借家住居でした。
  • 裏長屋は、多くは長屋建てであり、江戸町人地の町割りは、京間で60間四方の街区の中央に会所地という20間四方の空地があります。
  • 裏長屋の個々の屋敷地内には、地主が店舗を出すか、富裕な商人が地主から土地を借りて自己資金で店舗を建てました。

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 1、について。 はい、結構整然と建てられていました。 と、言うのも、徳川家康が江戸へ入府したころは、江戸城(注1)のすぐそばまで海水が押し寄せる入り江となっており、さらには、一面が葦(よし)野原で、北は武蔵野の台地が広がっていました。 その後、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしますが、家康はこの出兵に際しては肥前国(佐賀県)に名護屋城を築き後方支援はしましたが、朝鮮に渡ることはなかった。 戦が無くなれば家臣たちは暇になる。 そこで、家康は主に下級武士に命じて北の台地を削り取って江戸城近辺や葦野原の埋め立てをし、構想としては京の街並みのように「碁盤の目」をめざしました。 しかし、その後に秀吉が死に関ヶ原の戦いで勝利を収めると、参戦してくれた有力大名たちに江戸の街に広大な屋敷(土地)を与えなければならない。 それには、碁盤の目を目指したとは言え、でこぼこした土地では失礼に当たる。そうなると必然的に色々な変形した土地の割り振りとなってしまいました。 さらに、大名屋敷を造るにしても、旗本や御家人の屋敷を造るにしても、多くの大工を必要としました。 そして、大工たちを住まわせる家々も必要となる。だが、あまり遠くでも仕事がはかどらない、そこで武家地を配置しながらも、大工たちが生計するには、店なども必要となる。つまりは、経済活動も盛んでなくてはならない。従って、ある意味では江戸の街の一等地の一部を町人たちに与えることとしました。 どなたかのURLで町人地は1/5とありますが、確かに、割合的には合致していますが、神田、日本橋~京橋にかけての一帯、銀座、四谷、etc、今で言う東京のど真ん中に町人地があり、さらには、武家地が密集すれば武士たちの購買にも町地(商人地)が必要であり、武家地の隙間、隙間にも町人地(長屋)をもうけました。 (注1)家康が江戸へ入府した当初は、確かに「江戸城」と呼ばれていましたが、やがては、正式名称を「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、武士も町民も普段は、ただ単に「お城」と呼んでいました。また、町民の中には、親しみを込めて「千代田のお城」などとも呼んでいました。再び「江戸城」と一般的に呼ばれるようになったのは、明治に入ってからです。 >>「20間四方の空地」を囲むように建てられたのですか。 そうではなく、長屋がずらりと縦でも横でも良いのですが、並んで建った後方に長屋の家主たちが集まり情報交換をしたり、長屋の住民たちが集められるような、現代で言えば集会所的な場所、または、青空天井の場合もあり、火事の際の一時避難所的な場所を「会所」と呼びました。また、場合によっては長屋と長屋の切れ目に会所を設ける場合もありました。 2、について。 はい、ありました。 日本橋や京橋付近は商業が盛んで大店がいくつも立ち並びましたが、その大店に勤める人たちは、全てが「住み込み」と言うわけにもいかず長屋もあり、さらには、地区割で、簡単に言えば一丁目、二丁目などとありますが、この丁目ごとに1軒の風呂屋もありました。 3、について 基本的には、明暦の大火(明暦3年1月18日、1657年)以後、と考えて良いでしょう。 また、この大火以後には、建物の柱や襖(ふすま)、敷居、玄関などの扉、などが2~3種類の寸法に統一されました。 そして、大店を建て替える、などと言うと、柱や扉など、使える物は何でも回収してきて再利用しました。 従って、火事で焼け出されてもすぐに組み立て方式で家が再建されたのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 御城に近い一等地の日本橋界隈の町のイメージが一転しました。 裏長屋のイメージも一転しました。 表店の裏には、裏店(裏長屋)がびっしりと詰まっていたのですね。 文化2年(1805年)頃の日本橋界隈を描いた「熙代勝覧」を見ても、裏長屋(だと推測)らしき建物が表店にくっつくように描いてあります。 下水や便所の悪臭が漂っていたのでは、と思います。 通りには何か所も裏長屋に通じる路地があったはずですが、地図でははっきりしません。 裏長屋と言えば、お粗末な作りで、板葺屋根を想像していたのですが、日本橋あたりの商家の裏にある長屋は、絵で見ると瓦屋根だったようです。 商家の使用人は住み込みがほとんででしょうが、大店の裏には、使用人用の長屋があったのかも知れません。 想像は膨らみます。

その他の回答 (2)

回答No.2

質問1.江戸の街というのは京都のように町全体が計画的に区割りされてはいませんでした。 人口が増えるに従って江戸湾を埋め立てながら広がっていきました。 江戸時代には江戸の街に限らず物流は舟に依存していました。 埋め立てる際には物流用に水路が残されるように埋め立てられていきました。 この水路に面した街区がいわゆる表通りとなりこれに面して敷地の広い家屋(大店)が建てられていました。 この大店の間に路地が設けられていてこの路地に面して長屋が建てられていました。 大店の裏側の長屋という意味で裏長屋と呼ばれました。 従って60間四方の街区が設けられていたのは水路から離れた極一部の地域だけでした。 この60間四方の街区の中央部分が会所地と呼ばれる共有の空き地でしたが人口が増える従って60間四方の街区の外側の道から入る路地が設けられこの路地に面して長屋がたてられました。 享保期(1716年~1736年)にはこの会所地は完全に消滅しました。 詳しくは下記のサイトをご覧ください。 参考 町人地 の 街区と町割 りの 変容に関する研究 ASTUDY ON ... - J-Stage www.jstage.jst.go.jp/article/aija/69/577/69_KJ00004227072/_p... 60間四方にかぎらずいろいろな町割りがあったことが記述されています。 質問2.ありました。 質問3.裏長屋が画一的な面積になった明確な時期は分かりませんが江戸の街の基本的な姿ができたのが明暦の大火(1657年)以降ですのでおそらくこの時期かとおもいます。 計画的な市街地整備と呼ばれるほど大規模なものは明暦の大火後と享保の大火後の二回でした。 ただし、人口が増えるに従って寺社を移転させて市街地にすることは度々行われてはいました。 この時には街区をそっくり移動させるということもやっていました。 町の名前に新とか元という地名があるのはこの名残です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 おおよその見当は付きました。 ご紹介の論文「町人地の街区と町割りの変容に関する研究」は参考になりました。 この論文で「裏長屋」に言及しているのは、4/7ページの一か所だけですが、私が知りたかった「裏長屋はどこにあったのか」が、よく分かりました。 「すなわち、間口4 問程度の敷地規摸でも充分に、表店、路地.裏長屋によって構成される町屋敷の空問構造を成立させることができたのである。」とあります。 #1の方のご回答でTV画面の裏長屋の平面図があったのですが、その図では表店の裏に軒を接するように裏長屋がびっしりと建っていました。 この理由も、この論文で納得できました。 >享保期(1716年~1736年)にはこの会所地は完全に消滅しました。 分かりました。

  • skp026
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回答No.1

2018年4月1日放送の「所さんね目がテン」という番組で 江戸の長屋について情報がありました。 公式サイトでは更新されてなかったので、 以下の記事をご覧になるか、 https://nenemame-trend.info/2018/04/08/megaten-edo/ huluで過去の放送の視聴ができます https://www.happyon.jp/mega-ten-eyepopping-science?cmp=3282&utm_source=ntv&utm_medium=non&utm_term=ntv&utm_content=official&utm_campaign=JP_DM_NihonTV_title&wapr=5af6d269 ご質問そのものの回答にはならないようですが、 深くしらべる際に役に立つ可能性があると思います。 (今回の情報は1についての回答にはなると思います) 役にたたなかったらごめんなさい。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「所さんの目がテン」の番組は知りませんでした。 Huluは、カードナンバー等を必要とするようなので観ておりませんが、ご紹介の記事は参考になりました。 「棟割り長屋と呼ばれ9尺2間の長屋が大半で、おおよそ6畳の部屋に家族4人が暮らしていました。」ということも確認できました。

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