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江戸っ子と町火消し
お江戸の時代: 十手持ちは何かと鼻つまみ。 格好いい江戸っ子って: ”芝で産まれて(まぁ里のおばぁ様の所での里帰り出産)神田で育ち 今じゃ火消しの纏持ち” って言葉がありました。 芝のどの辺だと想像されますか? 神田のどの辺だと想像されますか? 町火消しですから、何組でしょうか? 町火消しの組:http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_03.htm
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>芝のどの辺だと想像されますか? 現在の東京都港区芝4丁目の第一京浜の南側にあたる地域です。 分かり易く言えば増上寺の前の海岸地帯からレインボーブリッジの入り口付近までの一帯です。 >神田のどの辺だと想像されますか? 現在の美土代町、司町1~2丁目、旭町、鎌倉町、多町1~2丁目、鍛冶町3丁目などの地域です。 >町火消しですから、何組でしょうか? か、よと推定されています。 但し火災の広がり次第では周辺の火消しが加勢していました。 何処にどの組の纏を上げるかで良く喧嘩になっていました。 参考 いろは四十七組(町火消(3) 江戸の大変) : 気ままに江戸 散歩・味・読書 ... http://wheatbaku.exblog.jp/25880648/ 蛇足 御質問で 「芝で産まれて(まぁ里のおばぁ様の所での里帰り出産)神田で育ち今じゃ火消しの纏持ち”」 の中にわざわざ(まぁ里のおばぁ様の所での里帰り出産)とされていますが、この台詞が使われた時代にはこのようなことはありませんでした。 里帰りなどで生れたのではなく親が実際に芝で暮らしていました。 江戸っ子という言葉が生れたのは明和年間(1764年~1764年)です。 江戸時代の神田は駿河台の大地に続く小山を切り崩して江戸湾を埋めた際にその跡地に生れたまちです。 元々の場所は現在の大手町付近です。 現在将門の首塚がありますが、江戸城の拡幅に当たりこの近くにあった神社を湯島へ移したのが現在の神田明神です。 神田明神の祭神は平将門です。 現在の東京駅付近に江戸前島という半島が突き出ていて伊勢神宮の荘園でした。お伊勢さんへ作物を収める田という意味が神田という地名の発祥です。 江戸の町を作るのに当たって全国から人足が集められその人足相手の商人が全国から集まりました。 当初の江戸の庶民というのはこの人達で構成されたいわば寄せ集めの集団でした。 これ等の人達が定住して江戸生れ江戸育ちが増えてきていたのが明和の時期です。 この江戸生まれ江戸育ちの連中が三代住まなければ江戸っ子ではないとしていました。 これは親もさることながら火事が多く長期間一か所に住み続けることが難しかったことも影響していました。 つまり江戸っ子という言葉が生まれた頃には芝で生まれて神田へ移ってきた人間は江戸っ子としては認められなかったということです。
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素晴らしいご回答をありがとうございます。