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江戸時代の長屋の防犯について
時代劇の長屋の家をみる障子に木の扉の場合、どのように防犯をしたのでしょうか。テレビをみて鍵がある現代に比べて当時と今を比較することはできないと思いますがよろしくお願いします。また当時は強盗などは現代にくらべてどうだったのですか。有名な強盗団はいたのでしょうか。
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江戸時代の防犯にはある意味、「自己責任」がつきまといます。 木戸と入口は心張り棒と現代の防犯からすればお粗末なものですが、 江戸っ子の長屋暮らしは「宵越しの金は持たない」に表されるように、日雇いで日給が基本でした。ですので高価な物を盗まれる可能性は低いでしょう。もっとも、江戸は徹底的なリサイクル社会でしたから衣類(古着)や食器(中古食器)などの日用品は当然として、壊れた鍋(修繕して利用)、紙くず(すき直して再生紙)、かまどの灰(肥料)、ろうそくの燃えかす(集めて溶かし再利用)まで売買対象とされていました。現代人から見てゴミに見えるような物でも、盗まれる可能性はあるかもしれません。 「10両盗めば首が飛ぶ」と言われますが、日中の空き巣であれば、例え10両以上盗んだとしても、叩きや江戸払いなどの比較的軽い処罰でした。これは盗まれる側も注意が足らないなどの落ち度があるという考えからでした。同様の理由でスリも10両以上盗んでも軽い処罰です(もっとも10両すられて気が付かないなんて、マヌケな話はないでしょうが)。ただし、3回目には金額にかかわらず死罪でした。 しかし、これが夜、家に盗みに入る。あるいは日中でも家人をおどして金品を強奪すれば押し込み強盗ということで、遠島や死罪などの重罰に処されました。また奉公人が主人の家で盗みを働けば、程度にかかわらず重罪に処されます。 江戸期の治安は“良かった”といわれますが、捜査能力の低さから検挙率が悪かった。また、被害者も世間体を気にして、あるいは社会的地位により公の場に訴えることなく(訴えることもできずに)、内々で事をかたづけていた(闇に葬られていた)など、記録に残らない部分が多いのではないでしょうか。 鬼平こと長谷川平蔵が火付盗賊改に就任した時の記録では 「長谷川平蔵と云ふ者に命じて、盗賊を捕えて死刑に処し、僅の間に六百人の首を刎ねたりと云ふ。故に下々の者も、此の政略に驚き恐れ(中略)市人恐れ戦きたり」(佐久間長敬:『清陰筆記』) とあり、単に以前は露見しない犯罪が多かったと見ることもできます。
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- Pinhole-09
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長屋は狙われませんが、強盗団事件は数知れずと云った所でしょうか。 江戸市中に限っても、松平定信が部下に調べさせた記録の「よしの冊子」には 番頭(ばんがしら)大久保備前守の屋敷に大勢の強盗が入り、多く盗まれたらしいが、門を閉ざしたままで、被害はわからない。 市岡丹後守の屋敷に押し込みが入り大騒ぎだった。 その他多数の記録があります。 武家は被害を隠す。 小身で暮らし向きのよさそうな旗本に4,5人で抜刀して押し込む。 商家、寺も狙われました。 地方では百人も手下を持つ強盗団もあったようです。 長谷川平蔵がとらえた「真刀徳次郎」(別名もあり)はその一人で寛政元年大宮あたりの隠れ家で一味を、一網打尽にしたようです。 関八州、奥州で強盗など悪事を働きとあります。 日本左衛門の異称のある「浜島庄兵衛」も百人の手下を抱え、東海4州の他美濃、伊勢にかけ強盗を働いた大盗で剣の達人とも言われています。 大盗と呼ばれる中に「鼠小僧」など小僧のついたのも居ますが、一人で働く泥棒で強盗団ではありません。 丹野 顕 「江戸の盗賊」 青春出版社 などより。
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- busido2006
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すでに多くの回答が出ていますので、補足的に説明させていただきます。 戸締りについては、皆さんのご指摘通りだと思います。 また、現代とは防犯理念が違います。 現代の私達は、「自身の安全は自身で守る」という意識がありますよね。江戸時代の長屋という共同体では、防犯は個人ではなく地域での問題でした。木戸番や自身番などの組織も公儀による手配ではなく、町人たちによる、ボランティアでした。 なぜ、こうした防犯機関が町人たちの手で行われたのかと言うと、時代劇などに出てくる江戸は、盗賊たちが暗躍し犯罪の絶えない都市として書かれていますが、実際の江戸(特に江戸中期以降は)は犯罪が少なく安全だったこと、警察組織である同心の絶対数が江戸市民の人口より比率的に少なかったことが原因かと思われます。 江戸ッ子たちの心配ごとは、防犯よりも防火だったようです。 「鬼平犯科帳」などを読むと、多くの盗賊団が登場しますよね。実際に、火盗改めというお役目があったので、ねずみ小僧や葵小僧など有名な盗賊も存在したようです。 ただ、盗賊たちが襲撃する大店の商家は木戸に覆われた街中にあるので、盗賊たちが徒党を組んで襲撃するのは時代劇ほど簡単ではないでしょうね。
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- komes
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江戸の長屋には必ず木戸があり日没と共に締め切られていました。 長屋の木戸以外に町毎に木戸がありこれには木戸番がつき日没後は出入りが禁止状態でした。 長屋の住民はその日暮らしで財産らしきものは持っていません。 従って泥棒が入るなら金目のものを置いていってくれという位です。 従って守るべき財産はないので平気でした。 防犯としては無防備に近いといえましょう。 泥棒や強盗が狙うのは、10両盗めば死罪の時代ですから命がけです。 従って資産家はそれなりの防御手段を講じていました。 家の廻りの塀には忍び返しをつけ、雨戸を閉め切り、財産は蔵にしまい鍵をかけていました。 召使いなどは住み込みでかなりの人数の人手がおり、また屋外は町内の夜回り、町火消しなどが廻って警戒にあたっていました。 江戸の治安は概ね良いほうでしたが、後世になると火付け盗賊改めという機動警察のような組織を設け抵抗すれば切り捨てる権限も与えられました。 有名な強盗団はよくしりません。
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- oska
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道路から、長屋のある敷地(路地)に入るには「木戸」(門)をくぐる必要がありました。 江戸の路地は木戸だらけで、大きな路地には「番人」が警備してました。 当時は「街灯」など電気が無い時代でしたから、早く寝る人は日が暮れて2時間後には睡眠をとっていたようですよ。 >どのように防犯をしたのでしょうか。 長屋全体の防犯としては、「木戸を閉める」事です。 木戸が閉まると、その長屋の住人でも「勝手に入る事が出来ない」決まりです。 長屋の各部屋(家)については、戸の内側に「突っ張り棒」をかませて戸が開かないようにしました。 この棒を「心張り棒」と言う場合があります。 「戸の内側に突っ張り棒を?」じゃ、外出時はどうするのか? 原則、外出時は「カギをしない」のです。 「大家は親も同然、店子は子供も同然」の世界。 長屋には、必ず誰か居ますから、居る人の「井戸端会議」が防犯の役目をしたようです。
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- BakaBombbb
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『心張り棒』で戸が開かないようにしていました。 水戸黄門でも良く出てきますよ!
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- tanuki4u
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長屋の住人 → 盗まれるモノがありませんので、防犯不要。逆に犯罪者予備軍ですので、外出禁止という意味で「木戸」が閉められました。木戸が閉められた段階で外出している人間は、その場で逮捕どころか切られても文句は言えません。 強盗団 武士崩れ、地侍崩れが・・・ 有名どころでは、風魔小太郎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%AD%94%E5%B0%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E
お礼
ありがとうございます。はじめて聞きました。
お礼
ありがとうございます。