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方丈記と論語
方丈記:鴨長明 【行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。】 論語: 子罕第九;09:16 子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜、 子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎めず。 質問:鴨長明はこの方丈記の出だしの著述にあたり、論語の上記のくだり(件り)を意識していたでしょうか?
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日本古典文学全集(小学館)の『方丈記』の注釈では、万葉集1269の訛伝で拾遺和歌集・哀傷部所収の柿本人麻呂の歌「巻向(まきむく)の山辺響きて行く水の水泡(みなわ)のごとに世をばわが見る」が出典かもしれない、としています。 鴨長明は歌人ですから、論語よりそっちのほうがあり得そうな気がします。 ただ、わりと誰でも直観的に思いつきそうな言葉にも思えます。
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- ichikawa2017
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回答No.1
>論語の上記のくだり(件り)を意識していたでしょうか? 意識していたかどうかということになりますと本人に聞かないと分かりませんが、おそらく意識はしていなかったでしょう。 詳しい経歴は分かっていませんが歌人として朝廷の人達との付き合いはあったようですが余り恵まれた人生ではなかったようです。 論語というのは為政者のあるべき姿を説いた書籍ですので経歴からすると恐らく関心はなかったかと思います。 当時の知識人の間では論語などよりも仏教の方か広く行き渡っていました。 方丈記と前後して生まれた平家物語の出だしも無常観に基づいて記述されています。 方丈庵に引き篭もる前に出家していますので恐らく仏教の無常観の方が論語よりも影響していたと考えられます。
質問者
お礼
ありがとうございました。 それにしても内容がとても酷似していますね。
お礼
ありがとうございます。 論語よりも、柿本人麻呂の歌「巻向の山辺響きて行く水の水泡のごとに世をばわが見る」の鑑賞から来ているのかもしれませんね。 それにしても論語の言葉と言い回しの方のが酷似していますね。 鴨長明の分野としては論語を踏むとか、言い換えるということは蓋然性は低いのだろうとは思いますね。