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“来る者拒まず”
“来る者拒まず 去る者追わず” というフレーズは時折使われます。 その使われ方は使う側の何か心理決定状況を表明するみたいです。 でも本来、このフレーズはどういう意味(ニュアンス)で、どういう場合に主として使うのが適しているのでしょうか? 孔子の河のほとりに立って、ゆくものはかくのごときかな、昼夜をおかず とか 鴨長明の方丈記のようなニュアンスではないですよね。 どうかよろしくお願い申しあげます。
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質問者が選んだベストアンサー
“諦観”て意味じゃない。 なにが起ころうとも受け入れ、なにが去ろうと追わず。 必ずしも“人”とは限らないと思うけど。 質問文の中なら孔子の河のイメージかな。
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- graceful8p
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回答No.1
例えばですが、私が男とします。 まあまあな女性が私に告白してきました。 私は、来るもの拒まずの精神で、とりあえず付き合いました。 というようなニュアンスでは?? 分かりにくかったら申し訳ないです。
質問者
お礼
ありがとう御座いました。
質問者
補足
ありがとう御座います。 分り難いという言葉が分り難いものです。 graceful8pさんのこの場合、男女の立場状況と交際の内容が心配ですね。 実は私も人を見分けることが出来ませんで、本人が行ってきたとおりにして、今も共に同じ屋根で同じ苗字を名乗っています。 よかったかどうかも分りません。
お礼
ありがとう御座います。 ご回答から思うに、“諦観”とは超越的な眺めの態度なんですね。 広く、自然な悟りともいえましょうね。 退職して12年も経つと46年いた職場との付き合いも少なくなり、自らもたくさんの交流を断っていくのですが、何か少し寂しくなったものでして。 ありがとう御座いました。
補足
“諦観”て意味。 “"必ずしも“人”とは限らない””というご回答は正統てきで、本来の意味なのでしょうね。 孔子のは、もう一面、あぁ日月星辰、森羅万象は止まることなくゆくものだ、という感懐もありますね。 長明は寧ろ仏教哲理のな色合いが濃厚ですが、とり様では近いともいえそうでしょうか。 よく人は、“自分を捨てていってしまった人をもう追いかけてもしょうがないや、来てくれた人を歓迎して、まぁこれからやっていこう”くらいの心理的決定を格好つけたり、自分に納得させるためにいいますが、そういう心境ではないようですね。 ありがとう御座いました。