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自己認識?

これは、とあるデジタル系の書物にあった一文ですが、 「中世の生活はきわめて非自己陶酔的だった。広い意味での自己像というものを、普通の人間はぼんやりとしか抱いていなかった。個としてのアイデンティティや社会的アイデンティティは、自省を通してではなく、儀式や伝統に参加する事によって与えられたのである。」 西欧近代的自我、と言うのでしょうか、いくつかの文献の中で似たような記述を見かけるのですが、この手の論説の根拠となっているのは一体何なのでしょうか?

みんなの回答

noname#15238
noname#15238
回答No.6

お一人様ですが、まだ宜しいですか、とりあえずビールお願いします。 暑い日が続くと、頭がおかしくなりそうで、グビグビ・・ふぅー。 むかし、人の心は進化しないのでしょか、といった質問をしたことがありますが、個人の内部の問題は難しいですね、何も残っていないし、そもそも、観ることも触れることも出来ないのですから。 事実の証明も難しいですね、社会現象や文化・言語の同一性や異質性から、推理するなり、演繹するなり、弁証法とか難しい論理を根拠にしても、心の中の事は、蓋然性を越えることは出来なさそうで。 たしかに、自我とか自由という言葉は、最近出来た言葉ですが、自我という言葉が出来る以前に、「自我」で意味される心的内容が、存在していなかったと考えるのは無理がありそうですね。 それでも、人間の進化を考えれば、人の心が変わっていないと考えるのは、お猿さんにも「自我」と呼べる心的内容があると認めねばならなくなり、矛盾しそうです。 もっとも、中世からの短いスパンも、全体の流と矛盾しないだろうといった、想像の域を越えませんが。 無駄話が長くて済みませんでした。 ジンメルの社会進化論が参考にならないでしょうか。 Georg Simmel 社会学者ですが、異端の哲学者でもあります。 「貨幣の哲学」においても、後半で貨幣経済による心的内容の変化について詳しく考察しています、残念ながら此処で内容を整理できるほど、私も理解していませんが。 ビール代いくら、タダ、ご馳走様。

noname#25358
noname#25358
回答No.5

 再々登場。  たしかに、スポーツ観戦と儀式の中に多くの類似点があるのは本当にそうですね。  「リーダー(もしくは救世主)を求める心理」はいつの世の人間にとっても変わらないものですし、スポーツ観戦と儀式の両方がその心理を内包しているのも事実です。  絶対主義社会を作る目的で、人々の団結意識を高めるために開かれるスポーツ大会というのも事実存在します。  しかし、「似て非なるもの」と「同じ物」との間にはたしかに差があります。その「差」の部分はどんなに小さいものであっても、無視していいわけではないのです。  具体的には、スポーツ観戦は儀式と違い、「楽しむ」ために見るという点です。  絶対主義社会における儀式は、「規則だから」行います。  「規則だから仕方なく見る野球」なんて、俺はついぞ見たことがありません。俺が生まれてこの方一度たりとも野球場に足を運んだことがないのはそのためです。  つまり、野球は終わったあと「あー、楽しかった」と思いますが、儀式は終わったあと「これから頑張ろう」と思います。  その点は、多くの類似点を内包しながらも、たしかに違うものなんです。  ほとんどの人は、その点を(論拠などなく、ただ経験論的に)分かっているわけです。  もちろん、スポーツ観戦を儀式に使うことだって、策略を練れば可能になってしまうわけですし、本当の意味で「紙一重」であるのはたしかですから、証明しろと言われたらそりゃあ難しいんですけどね(笑)

noname#25358
noname#25358
回答No.4

 再登場。 >現代人の多くがスポーツ観戦で誰かの応援をするというのも、儀式参加によるアイデンティティの確認作業であると言って差し支えないでしょう  差し支えあります(^_^;  たしかに似たようなものですが、スポーツ観戦と儀式とでは、「終了後の心の変化」に絶対的な違いがあるからです。  タイガースの応援とか見てて、似てるなと感じてしまう気持ちは分かりますが、タイガースファンの人達は、そもそも「団結するために集まっている」わけではありません。  彼らは1人1人が、それぞれ個別のファンであり、1人1人が楽しむために野球場に来ているのです。  意気投合して団結してしまうことはあるとしても、基本的にはスポーツが終われば、彼らはそれぞれバラバラに帰路につくわけで、そこにあるのは「団結」といったものとはまた別のものです。  一般に、社会には「絶対主義(全体主義)社会」と「相対主義(個人主義)社会」があり、貧しい時代ほど前者に傾きやすいといわれています。  絶対主義社会では、儀式は団結感を強めるために行いますが、相対主義社会では、儀式とは純粋に楽しむものです。なぜなら、絶対主義的な団結感は必要ないからです。  ゆえに、絶対主義社会の人間と相対主義社会の人間とは、根本的に違ってしまうんです。  また、実際にそのとおりであることが、「絶対主義社会と相対主義社会の両方を生きた人達」によって口伝えで我々に伝えられており、また、それらを出版した本も多数世の中に出回っています。  この口伝えの伝承こそが質問文中にある「この手の論説の根拠」なわけです。  もちろん、その根拠を読み取るためには、各人が好き勝手に書きなぐった文献を何百冊も読まなければならないため、ほとんどの人は「根拠を論じえない」のはたしかですけどね。

noname#9009
質問者

補足

たしかに生活基盤の不安定な時代・状況において、人々は価値観の拠り所を持てず先導者を求めようとする。それが社会形態に反映される事は当然で、実際の歴史もそうなっている。しかし生活基盤の安定が即ちアイデンティティの確立、自省能力の獲得となってくるわけではないでしょう。  相対・個人主義とは言えど、一個人の内に物語が完結している人間など居ないわけで、人はみな関係性の中に自分の立ち位置を見出しています。人が団結によって得ようとしているのは信念の裏打ち、それによる不安の解消なのであって、それは絶対・全体主義に特有のものではない。アイデンティティの確認作業に必要なのは、己の信念を正当化する土台です。 スポーツ観戦で赤の他人の応援をするというのも、誰かや何物かの物語に乗り入れることで自己像を見出し、不安の解消を図る行為です。そこにあるのは娯楽要素ばかりではない。マスコントロールの盛んな現代では、この手のことは社会心理学において研究報告されています。 > 絶対主義社会の人間と相対主義社会の人間とは、根本的に違ってしまう 史学・心理学・生物学など、私の知るすべての知識を総動員してみても、そこから見えてくるのは逆の結論です。人間の本質も振舞いもまったく変わっていないように思われますね。 あいにく私には「各人が好き勝手に書きなぐった文献を何百冊も読む」ような時間的余裕は無いのでこれ以上信憑性を高める事はできませんが、少なくとも、そのような行為から逆の結論の論拠を語っているような人物・文献の存在を私は知りません。 ところで、「終了後の心の変化に絶対的な違いがある」というのは一体どういう事なのでしょうか?

noname#25358
noname#25358
回答No.3

>何かしら根拠となっている文献でもあるのかなと  調べればいくらでも出てくると思いますが……(^_^;  たとえば、手軽なところでは戦後直後を舞台にした漫画や小説の類(その中でもとりわけ、実際のその時代を生きた人が書いたもの)がいいんじゃないかと思います。  実際に貧しい時代に生きた人がどんなことを考えていたのかが分かれば、別に根拠なんか必要ないことが分かると思いますよ。

noname#9009
質問者

補足

>実際に貧しい時代に生きた人がどんなことを考えていたのかが分かれば、 >別に根拠なんか必要ないことが分かると思いますよ。 そもそも自省能力の欠落した人間は自ら著作を残したりはしないわけで、他者の内面を読み解こうとする行為はどうあろうとも客観であらざるをえませんよね? 自省能力云々の話には賛否両論あるわけで、現代のように娯楽が豊富でなかったかつての時代の人間の方が、人間観察の能力に長けていたという見方もあります。実際に中世など、科学知識による裏付けを持たなかった時代の思想家の方が、質はともかく自省に多くの時間を割いていたことでしょう。たとえば『源氏物語』が書かれたのは1000年も前のことで、釈迦牟尼が仏教を打ち立てたのは2500年ほど前のことです。  また、エンゲル係数の文脈で語るなら、たとえば白土三平の『カムイ伝』などは極貧状態にあった下層民の生活や思考をリアルに描いた作品ですが、見方によっては、ああいった思考様式は現代人の大半とさしたる違いはない。産業革命後に多くの思想家は、この先の時代は奴隷の跋扈する大衆化社会であろうと予見したのですが、現代人の多くがスポーツ観戦で誰かの応援をするというのも、儀式参加によるアイデンティティの確認作業であると言って差し支えないでしょう。この手の考察はデズモンド・モリスが優れた研究を残しています。 私の見る限り、先端に位置する思想家の質や自省能力は時代を経ることで向上しているようですが、大衆の思考レベルが時代を通して変化しているようには思えませんね。 こうした考え方に対する反対意見の根拠を寡聞にして私は聞いた事がないのですが、 いかがでしょうか?

  • yama_x
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回答No.2

更に言うならば、生きるためには集団に属することが必要だった、ということでしょうか? 集団に属することが、外敵を退け、食物の取得をたやすくしている状況では、集団としての意志を尊重する必要があり、集団の意志と異なる個の主張を行うことは、その集団から外されること=死に近づくことを意味します。 儀式・伝統を通じて得た組織としてのアイデンティティを軸とし、その組織の中での自分の位置づけが個のアイデンティティとなっていったということでしょう。

noname#25358
noname#25358
回答No.1

 これはですね。  エンゲル係数の関係のあることですね。  現代人のエンゲル係数は非常に低いです。でも中世の人のそれは80%とか平気で上回ってたわけですよ。  つまり、趣味などの『自己満足行為』を行う余裕がほとんどなかったことになるわけです。(貴族とかは別ですけどね)  人間は、エンゲル係数が低いと、生きる事だけに精一杯になり、「自分を考える」ゆとりはなくなってしまいます。この際、罪悪感の低下、自己研究意欲の低下、といった現象が起こります。  逆に余裕がある状態では、自分を見つめなおす時間がたっぷりあるので、自分自身のアイデンティティを自省によってえることが可能です。  このことは中世とか現代といった歴史に関する現象ではなく、全ての人間が持っている特質です。

noname#9009
質問者

補足

>このことは中世とか現代といった歴史に関する現象ではなく、全ての人間が持っている特質です。 そう、その通りだと思うのです。おそらく実際に自省能力の平均値は近代以降高まっていると思いますが、この手の話は、私の知っている限り推論の粋を出ていないように思うんですよね。ですが多くの論説において事実のように記述されているので、何かしら根拠となっている文献でもあるのかなと。 その辺はご存知でしょうか?

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