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自己と他の認識
認識とは結局のところ個人による認識であり、その人間が信じたものがその人間の認識ということになると思います。すると、よく自己認識は不可能であるといわれていますが、同じ理由で「他」を認識することも不可能なのではないでしょうか? 認識は自分自身の定義からの納得だと思うのです。ならば他を認識すると同様に自己を認識することも可能だと思うのですが、自己と他の間に何か決定的な埋めがたい違いがあって今までの認識論が成立しているのでしょうか? よろしくお願いします。
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No.2でアドヴァイス差し上げた者です。 私の学んでいた哲学が現象学であることを前提にして補足させて ください。 (熱心な感じが伝わってきたのでそれに応えたく思い…) >客観を確かめるメタコード事態を自己は有し得ないので、他の >認識を主観の憶測でおいてするということですよね。 その通りですね。人は他を認識する上で必ず憶見(ドクサと言いま す)を含んだ了解をしますので、完全な他とは一致しえないという のが私の学んだ現象学の見解です。 自己了解のメタコードについてですが… メタコードとは形而上学的な超越項のことでしょうか? 自己の認識には様々な見解がございますが、デカルトのような疑う べくは疑い…と言った形式は現象学ではとりません。 (デカルト批判とはまた違います) No.2でアドヴァイス差し上げた中に、 >その認識が正当なものであるか否かは別の問題で… と書きましたが、人は自我の認識においてその正当性は問えない、 というのが現象学の回答です。 これが自分だ!とされる「認識」は、目が覚めたら夢であるかも しれない。しかし、一般的に人は現在の認識を特に疑いません。 これは「記憶の継続性(時間的な記憶の一致)」や「ありありと した現実感」から人はそう確信しているから、といった観点からの 回答です。 従って、何か「自分を自分だと認識させるメタコードが存在する」 わけではなく、自らが「認識している」と確信させるその条件とは? を問うのが現象学的な観点で、私のアドヴァイスはそこに基づいて おります。 (参考までに) 自己を認識することの対の問題として他の認識問題が挙げられ、どの ような認識が妥当かという哲学史的な発展をしてきましたが、実は 自己の認識と他の認識は全く異質な問題で…と連なって行くのです が、私の技術では説明し難いのでパスさせてください(泣) 近代哲学では「言語の謎」と共に結構話題の中心ですので、学ば れると面白い箇所だと思います。
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- sinfonia
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哲学の歴史の中で認識論もまた長い論争の的になってますが、それは 主客の一致問題(主観と客観が完全に一致しうるか)というテーマが 大きな問題でした。 >認識は自分自身の定義からの納得だと思うのです。 非常に的を射た回答だと思います。その認識が正当なものであるか否 かは別の問題で、そのような自己了解の仕方が「認識」の一般的な了 解であると言えます。 >ならば他を認識すると同様に自己を認識することも可能だと・・・ 認識の基準は上記の自己了解から始まります。他を認識するというの はあくまで自分の認識の中で構築した「他」であって、それが「他」 本体ではありません。 では人間は自分以外のことが分からないのか、というとそういうわけ では決してなくて、自分の構築した「他」と社会(周囲の環境)の 「他」を刷り合わせることによってそれぞれが大まかなイメージを 作り上げます。(時として不具合も生じます) 哲学的な命題の「他の認識」で不可能とされているのは「完全な一 致」としての「他の認識」です。 人はそれぞれが言葉などから読み取れる意図を互いに了解しながら 社会を作り上げます。これは「他を認識しようとする働き」であり 社会を営む上での必要事項です。 長々と書いてしまいましたが、kumotyann氏の仰る「他の認識」は、 自己了解としての「他の認識(社会のイメージ)」ではないのかな、 と思います。 それと実際の「他」には言うまでもなく違いがあって、区別しなけれ ばなりませんね。 自己と他の認識についてのこれまでの哲学史の流れを知るのに参考と なりそうな著書を挙げさせてください。 認識問題についての現象学的な回答が書かれてます。
お礼
ありがとうございます。 主観と客観の違いは、要するに、客観を確かめるメタコード事態を自己は有し得ないので、他の認識を主観の憶測でおいてするということですよね。だから、自己を認識する場合にもこのメタコードが必要になってしまうのか? そうではなく、他とは全く別の方法で自己は認識されるべきものなのか? うー、難しいです。 ご紹介いただいた本読んでみます。
- betagamma
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結論から言えば、「他」を認識することは不可能です。自分の感覚を信じるしか方法がありません。 映画のMatrixとかがいい例で、あのように生まれた直後からバーチャルリアリティーの世界で育てられたとしたら、その世界を本物だと信じるしかないのです。 「他」を認識することは不可能で、自分の感覚を通して「他」を知ることしかできません。 その意味で、自己と他の間には認識論的に決定的な違いがあります。
補足
早速の回答ありがとうございます。 betagammaさんは“「他」を認識することは不可能” とのことですが、ならば「自己」は認識可能ということなのでしょうか? それと、疑い始めたら、デカルトのように疑う自分しか残らなくなります。僕は認識することの対象は必ずしも真実である必要はないと考えます。例えば、今目の前に万年筆があるのですが、僕はこれが書けると認識しています。キャップを外して書いてみるまで書けるかどうかの真偽は分かりませんがこの最初の認識はすでに“あった”ものなのです。逆に言うと、何にせよ一度認識しない限り、疑うことは出来ません。これが自己に当てはまるかということです。
お礼
なるほどと言った感じです。弁証的な物と現実との確信の違いはありますよね。 やはり、他を認識するように自己を認識するのは不可能っぽいですね。その逆もまたしかりです。 丁寧な回答ありがとうございます。