はじめまして
結論から言えば、大人も子供も、社会が作り出すものだと思います。社会によって定義は異なります。そして、その境界線は、社会に貢献できているかどうかだと考えます。以下、補足説明を。
「バカの壁」でおなじみの養老孟司さんが、「老いるとは何か」といったようなテーマでエッセイを書いています(たしか「涼しい脳味噌」だったかな…?)。老人と、老人の反対(対偶)としての赤ん坊を比較して、老いるとは分化していくことだ、と述べていました。受精卵からの細胞分裂により、1つの細胞であった我々は機能を分化させて、手ができて頭ができて…と成長していったわけです。
以下、私見ですが、脳内の成長も同様かと思います。泣いて訴えることしか知らなかった赤ん坊が、声や文字や表情までも駆使して、相手に伝えることができるようになるのは、視覚・聴覚に分化した身体機能を、脳がうまく使いこなしているからですよね。そういう身体機能をうまく使いこなせないで短絡的・暴力的な表現手段に訴えるのは、脳の機能が十分に分化されていないからだと思われます。身体的な見てくれは大人(成人)ですが、内面には分化できていない子供の部分を持っている、と言えるのではないでしょうか。
社会における「大人」と「子供」というのも、社会の機能分化とからめて考えると少し見え方が変わるかもしれません。
我々の社会も昔から比べて、ずいぶんややこしく分化してきていると感じます。昔だったら許された行為が、今は許されないことも多いですし、物的環境でもずいぶん制限されてきています。表現手段が稚拙な人は、社会では容認されづらくなってきているのではないでしょうか。
社会そのものが、拡大・発展といったことを目的としています。社会自体も機能分化が進むことを良しとしています。
一般的に言って、社会が求める人材は、いわゆる「社会の歯車」となって、社会全体の発展・維持に貢献できる人だと思います。社会との付き合い方にはそれぞれの個性がでるところですが、少なくとも、歯車になる力のない人や周囲に合わせて動くことのできない人は、「子供」扱いされてしまいますよね。
ただ、人によって必要な力は異なるので、知識や能力がなくても適した場所があってその場に応じた振る舞いができれば、その場では「大人」として認められます。業種が違えば必要な力は異なりますし、原始社会と現代社会では求められる力は大きく異なるはずです。
結論として、大人も子供も、社会が作り出すものだということですが、基本的には自立できるかどうか、社会に合わせられるかどうかがポイントではないでしょうか?
余談ですが…
原田宗典の「黄色いドゥカと彼女の手」という短編集があります。
冒頭のマンガで、大人と子供の違いについて説明しているくだりがあるので、お暇があったらごらん下さい。10代の頃に読んで、なるほど、と影響を受け、社会人6~7年目に読み返して、違う見方になって、もっとなるほど、と思いました。古本屋とかにもよく置いてありますよ。
こちらは、より文学的な境界線の紹介でした。
長文失礼しました。