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徳川家康が国府を1610年に名古屋にする以前は清洲

徳川家康が国府を1610年に名古屋にする以前は清洲が日本の国府だったそうですが清洲の当主って誰だったんですか? あと清洲は現在で言うところのどこですか?

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  • twin-dog
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回答No.6

ANo,2です。 ANo,4の回答者さんのおっしゃる通り、尾張国の国府は清州ではなく現在の稲沢市でした。 訂正いたします。 尾張国の国府があった場所は、現在の愛知県稲沢市の名鉄名古屋本線国府宮駅周辺です。 すぐ近くに大國魂神社があり、一般的にこの神社が国府宮と言われてます。 ただ国府と言うのは、律令制によって定められた令制国の中心であり、飛鳥時代から平安時代までのことで、徳川幕府が名古屋城を築いた頃にはすでに有名無実化していました。 実際、清州が尾張の中心として栄えたころには、国府宮周辺は寂れて何もないところになってましたので。 これは尾張国に限ったことでなく、他の国でも同じような状況になっている国もたくさんありました。 例えば遠江国の国府は現在の静岡県磐田市にあったのですが、徳川家康が浜松城を築いたことにより遠江国の中心は浜松(引馬)に移って現在の浜松市の元となってます。

gasshop2017
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回答No.7

清洲城主と言えば織田信長ですね 元々岩倉織田家(織田の本家)の城だったのを信長の父・信秀が奪ってからは織田家の本拠となった城です ちなみに当時は「清洲」ではなく「清須」だったそう 1610年当時は家康の九男 徳川義直の城です その前は福島正則が長年城主でした(関ヶ原の褒美で広島に移動) 愛知県清須市です

gasshop2017
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回答No.5

日本の国府は,京都でした..戦国時代の,清洲を含む,尾張国などを,支配していたのは,室町幕府(足利将軍家)の管領だった,有力守護大名の,斯波氏でしたが,徐々に,配下の,守護代の,織田信長氏の,織田氏に,追い落とされ,斯波氏は,尾張国から,追い出され,実質,織田氏の支配下にありました..清洲城は,織田信長氏の死後の,清洲会議で有名ですが,安土桃山時代は,織田信長氏の重臣の,滝川一益氏などが,清洲城に,入っていたと思いますし,豊臣秀吉氏の時代には,豊臣秀吉氏の重臣が,入っていました..関ヶ原の戦い以降は,徳川家康氏側についた大名が,入っていたと思いますが,徳川家康氏は,大坂城の,豊臣秀吉氏の遺児,豊臣秀頼氏側との決戦や,見張りに備え,徳川家康氏は,江戸と,大坂の間に,豪華な,名古屋城を造りました..江戸時代も,日本の国府は,京都でした..明治維新で,日本の国府は,江戸(東京)に移りました..日本の国府は,基本的に,天皇(帝)が居られる場所や,地域を言いますので,清洲や,名古屋城では,ありません..

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  • jkpawapuro
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回答No.4

尾張の国府は国分寺のある旧尾張国中嶋郡、現稲沢市と目されています。 おそらく清洲ではありません。 清洲の場所は現在でも清洲城公園のある場所ですので地図を見るなりググルなりすればわかるでしょう。愛知県清須市になります。 北緯35度12分59.67秒 東経136度50分36.95秒

gasshop2017
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  • fujic-1990
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回答No.3

> 清洲が日本の国府だったそうです  家康が「国府」という官庁を清洲で造り、名古屋に移転したのかと思いましたが事典にはでていませんでした。なので、「国府」という名詞は使わないほうがいいように思います。  「国府」という地名は、昔、鳥取県や岐阜県その他にありましたが、清洲が国府という地名だった歴史はナイと思います。仮に有ったとしても、名古屋に地名を移すということはナイと思います。  歴史で「国府」(中世以降『府中』とも言った)というと、律令制度下「国衙が置かれた場所」を指すことになっています。いわば、固有名詞です。  国衙は、奈良時代から、基本的に各国に1つあったので、国府も同じ数だけあったわけです。例えば、越後国なら、新潟県上越市の直江津地区が越後国の国府でした。清洲は関係ありません。  「日本の国府」というのはナイと思いますが、あえて言えば、平安時代以降明治維新までの「日本の国府」は「京都」じゃないですかね。「遷都していないのだから、いまも京都だ」という意見もあるカモです。  国府の設置に関して、家康の出番はないと思います。  清洲は清須市の中西部の旧町域。城跡の清洲公園があるあたりです。  信長系織田家(足利家から見ると陪々臣?)勃興の地であり、織田信長、豊臣秀次、徳川義直が住んで有名ですね。  あと、本能寺の変で信長親子が死んだ後、跡目を誰に継がせるかをテーマとした「清洲会議」というのが開催されようです。小説的には、秀吉の強力なプッシュで信長の孫の「三法師」に決まり、秀吉が三法師を抱いて上座に座ったというような話です。

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  • twin-dog
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回答No.2

>徳川家康が国府を1610年に名古屋にする以前は清洲が日本の国府だったそうですが 違います。清州は尾張国の国府です。 このころはまだ日本国と言う概念は無いので日本の国府なんてありません。 強いて言うなら京都です。 >清洲の当主って誰だったんですか? 清州から名古屋へ移転時の当主は尾張徳川家の当主である徳川義直です。 >清洲は現在で言うところのどこですか? 現在の愛知県清須市内の五条川周辺です。 清州城が有ったのは現在模倣天守が建ってる場所から五条川を挟んだ反対側の清洲公園と清洲古城跡公園の辺りです。 本物の清州城址は東海道線と東海道新幹線によってど真ん中をぶち抜かれて二つに分断されてしまってます。 現在の模倣天守が建つ辺りは当時とは全く関係のない場所ですし、建てられている天守は完全な模倣天守で、当時の本物の天守とは全く関連性はありません。 本物の清州城天守は名古屋城御深井丸西北隅櫓の部材になってます。

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  • oska2
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回答No.1

>徳川家康が国府を1610年に名古屋にする以前は清洲が日本の国府だったそうです その通りで、中世から尾張政治の中心でした。 そこで、信長も清州城(守護館)を拠点にして天下統一を目指しました。 >清洲の当主って誰だったんですか? 有名なところでは・・・。 織田信長⇒(本能寺の変後)豊臣秀次⇒福島正則⇒(関ヶ原の戦い後)松平忠吉(家康四男)⇒徳川義直(初代尾張徳川家)となります。 >清洲は現在で言うところのどこですか? 清須市清洲三丁目7番地1の清州公園辺りです。

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