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天正10年ごろ徳川家康は何をしていましたか?

天正10年ごろの徳川家康はどんなことをしていましたか? 古文書で、この年に家康が切支丹禁止令15条を命令したいうのを 見たことがあります。 秀吉の禁止令より5年も早いので、気になりました。 よろしくお願いします。

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noname#58790
noname#58790
回答No.4

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noname#101087
noname#101087
回答No.5

>「宗門檀那請合掟古文帖 全」.... これは「偽装」文書というよりも、「文例」と見るのが無難です。 実物ではなく案文(写し)で、日付や発給者は「史実」じゃないです。 「天正拾年壬午五月」など無視すべきと愚考します。

noname#101087
noname#101087
回答No.3

>日付が「天正拾年壬午五月」となっています。 >内容は切支丹禁止令とまではいえないもののようです。 >「一.切支丹之法は死を不願 ....... ・タイミングは、本能寺変の直前。 家康の領国は三河・遠江に駿河が加わったばかり。 強引な解釈をすれば、自領の寺社に交付した文書かも。 ・「切支丹」は江戸時代の用字? 戦国時代末期には「吉利支丹」の表記が多いらしい。(「ヤソ教」とも) 五代将軍徳川綱吉の名に含まれる「吉」の字をはばかって、切支丹という表記になったようです。 素人の邪推ですけど「偽装」文書なのかも知れませんよ。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 全くの偶然ですが、巻物とほぼ同じ文章の古文書がオークションに出ているのを発見しました。 「宗門檀那請合掟古文帖 全」 http://page10.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m46124212 こちらは慶長八年です。 どうやら一般に流布されていた命令書のようです。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.2

天正十年の徳川家康 武田家の穴山信君を寝返らせて駿河を制圧 武田滅亡後、信長から駿河を拝領したお礼のため上洛 本能寺の変で三河へ戻り、甲斐をめぐって北条と戦う 切支丹について考える余裕がなさそうな年ですね・・・

noname#101087
noname#101087
回答No.1

>天正10年ごろ.....家康......切支丹禁止令15条。 初耳(初目)です。参考までに、その日付など教えてください。 ちなみに天正十年といえば、家康が信長の采配のもと北条氏らと連携して甲信武田氏を攻めて滅亡させ、 本能寺の変で信長が亡くなると、甲信両国の制圧に奔走していたころです。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 古文書(巻物)を再確認しました。 題名が「家康公御條目拾五箇條之控 宗門寺旦那請合之控」で 日付が「天正拾年壬午五月」となっています。 内容は切支丹禁止令とまではいえないもののようです。 「一.切支丹之法は死を不願、身より血を出して死を成せは成仏と立つ。故に天下之法度厳密なる。実に邪宗邪法也。依之死をあやしうする者可遂吟味事」 で始まり、最後が、 「天下の諸寺院宗門請合の面々、此一條も相欠候ては、越度可被仰付能々可相守者也」で終わっています。 すなわち諸寺院に切支丹を請合うなという命令のようです。 「天下之敵、万民の怨は切支丹不受不施非田宗なり」とまでいっていますから、キリシタンをよほど毛嫌いしていたようです。 そのような歴史的事実がありますか? よろしくお願いします。

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