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ショーペンハウアーとクオリア
ショーペンハウアーの言う、 「世界は表象」という話は、 脳科学の「クオリア」に似ていませんか?
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go_in_me様、こんにちは。 「読書によって、もたらされるイメージ」ということですか? 思いっきり外している場合は、済みません。
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- koosaka
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ショーペンハウワーは若いとき、その全集を揃えてよく読みましたが、彼は主著「意志と表象としての世界」の冒頭で、世界は私の表象である、と言いました。 これはカント哲学を要約したようなもので、カントはそれまでの経験論の認識論の考え方、つまり外的世界が実在し、それを感性で受容し、悟性のカテゴリーで結び付け、それをさらに純粋統覚、つまり自我によって統一し、認識するという経験論の考え方を否定し、それを「コペルニクス的転回」によって、ひっくり返し、私たちが認識するのに際し、外的世界の実在の刺激を必要としない、私の表象があれば十分である、と言ったもの。 この場合の表象というのは、いわば概念であり、脳科学でいう感覚質・クオリァとはまったく別なものです。 そしてクオリァというのは、存在しません。 クオリァは個人的な、主観的なものですから、言葉でそれを表現できません。 表現したら、クオリァではありません。 なぜって、クオリァは主観的なものですが、言葉は「公的」なものだからです。 そしてウィトゲンシュタインは感覚質・クオリァを「感覚の私秘性」とか「私的言語」といい、それは「言語ゲーム」には含まれないと言っています。 クオリァに関しては「語れないし、沈黙するほかはない」と。 よくクオリァを語る人は、同じ赤でも、人によってそのクオリァは違うといいます。 しかし、言葉で表したら、誰にとっても、赤は赤です。 クオリァなんてありません。 たとえば、私が「痛い!」と言って医者に行き、医者に向かって「痛いのですが・・・・」と聞けば、医者は「ああ、そうですか、痛いんですか?分かりました」と言うでしょう。 そうやって私たちは言葉をもって、互いにコミニケーションしているのです。 コミニケーションのために、クオリァなんて必要ではありません(笑)!
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