- 締切済み
ベルクソンは何によって表象が可能になると考えたのか
ベルクソンは、「意識的知覚、つまり表象は脳で行われる」という言説を否定しました。 なぜなら、物質的宇宙を、その一部である神経の分子運動の表象によって、表象出来るとすることは不条理である、とのこと。 では、いったい何によって表象が可能になっているとベルクソンは考えているのでしょうか。 感覚器官でしょうか。 脳に蓄えられた記憶が感覚器官に達したときにイメージを伴って再認される、表象されると考えたのでしょうか。しかしこれも感覚器官という物質世界の宇宙の一部によって、物質宇宙が表象されることになってしまいます。だからきっと違うのでしょう。 てんでわかりません。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
みんなの回答
- eclipse2maven
- ベストアンサー率32% (33/101)
素人なので、自分の言葉で書きます。 単なる感じたことです。 大体こういう話は、主観客観って図式を否定します。 表象を私たちの外に置いてるのだと思うのですが。 主観と客観の中間的な存在、ちょうど量子論が我々の干渉なしには、ものは見えないのと同じく、私たちの存在との相互作用のなかで存在する。 質問者の方は、まだ、主観客観の図式から抜け出てないような気がいたします。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
1ですが、一応質問者さんがベルクソンを既読であるとみなして回答しました。 「意識的知覚」と「純粋知覚」とは、ベルクソンの定義による区別です。当然そのように読んでいただけると思いますが、念のため申し添えておきます。
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
「別人として生きる権利を与える」と偉い人に告げられたとします。 生きがたい人にとって有難い言葉ですが、 権利だけ頂いても残念なことに権利があるだけでは執行能力がないので意味をなさない。 表象は物質をデータに置き換えてしまうことで、感官は受動的にしか捉えられません。 表象が可能というのは、ある物質の意識の能動性にも関わるなら可能かもしない? そうすると、万物の意識所得以前のものまで辿って行き 重力とか要素という立場から?表象を語り始めるしかないような気がしますが。
- ノーバン(@nobound)
- ベストアンサー率13% (299/2140)
「表象」は調べると、知覚、意識、象徴、シンボル、イメージなどとあるので、物質的宇宙をどうイメージするかはどこで行われるかという質問だと思うのですが、イメージ、概念は精神でとらえていると個人的には考えます。 そうすると精神と脳の関係ということですが、小林秀雄が評価していたのでベルクソンを読んでみて、記憶に残っている文章の中に、次のようなところがあります。 『脳のはたらきと心のはたらきとの関係は、ちょうどオーケストラの指揮者の棒の動きとシンフォニーの関係と同じです。シンフォニーは指揮棒の動きをあらゆる点で越えています。同じように精神のはたらきも脳のはたらきからあふれ出しています。そして脳は精神が物質にはめこまれる場となっています。脳は正確に言って、思考の器官でも感覚や意識の器官でもありません。脳は意識や感情や思考を現実の生に向かって緊張させているもの、したがって有効な行動ができるようにさせているものです。言うなれば、脳は生への注意の器官ともいえます。』 何だかオーケストラの例えも、指揮者の働きというものが実はよくわからないので、比喩的にわかりやすそうでわかりづらいのですが、脳と精神の働きについては、非常に触発される文章だと思いました。ただ脳と精神と現実との関係はいまだにはっきりとは解明されていない問題にも思えます。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
学内か学外でベルクソンの精読をおこなう読書会があることと思います。院のゼミでもよいし、サークルでもよいのですが、教員に相談して探してみてください。そういう場では、網羅的にテクストを見渡し、語彙がどのような意味でその箇所で使われたかを確認することができます。ベルクソン本人にだって、記述の際に揺れはあるのです。ネットのQ&Aサイトで精読はできませんし議論や検証にもなりませんからちょっと不毛かなと思います。 ご質問についてですが、まず意識的知覚というのは、純粋知覚との対応による概念なわけです。 影のようなものがバッと頭上をよぎったとき、鳥か、と思うのが意識的知覚で、これは記憶や経験に頼った内容をもちます。 一方、うわっ? というのが純粋知覚で、上か下かもわからない一瞬の反応であり、赤ちゃんか認知症老人のごとき知覚内容です。空間の整理もついていません。 ベルクソンは自己の内奥というものを自己の表層とわけて考え、純粋持続の相のもとに自己を直観し行動する存在として内なる自我を見出します。身体というものがそこでどうなっているかというと、脳も含めてそれは物質であるわけですが、実在論的なモノとことなり、かといってもちろん観念による絵空事でもなく、イマージュであるとします。物質はすなわちイマージュであるところの連続的な動きの様態そのものの全容なのです。このイマージュは自律的であり、内なる自我において心と体が時間をつむぐような自律的な場であるということが重点です。 これは心身二元論を否定しデカルトの主観客観形式を批判しているのですが、デカルトにおいて表象は観念とかわりなく、それが身体と結び付けられて論じられることはありませんでした。しかしベルクソンにおいては、この身体を内的自我に抱えるイマージュがあってこそ、いま・ここの連続が持続となり、記憶を持ち、意識的知覚として整頓し直された表象としての外界のものごとが認知対象となるのです。 このことは、破綻の順序としてとらえるとわかりやすいです。お年寄りか、事故で脳を損傷したか、そういった方を想像してごらんなさい。 表象がわからない、網膜に映ったものの意味するところがわからず、鼓膜を震わせるものの意味するところがわからず、前後左右上下の空間の情報がわからない。そうした場合に、記憶が全滅しているわけでもなく、その場を取り繕った言い回しができたり慣れ親しんだ作業の名残を体にとどめていることがあります。 しかしより重症を考えると、記憶もない、ということがあります。表象がなく記憶もない生というのは、本人確認も困難です。しかし、一瞬一瞬の刺激に反応は期待できるでしょう。 もっと重症を考えますと、心がまったく身体を統合出来ていない、イマージュの破綻となります。まるで他人事です。どうしても一瞬の反応もない、となると時間の持続もないのです。 ね。わかりやすいでしょう。 ベルクソンからメルロ=ポンティの系譜はとても現代的な視点を開きました。彼らの中に発掘するものはもはやないとしても、次世代の世界観への礎として重要な著作家・思想家であると思います。