感覚とクオリァは同じものではなく、クオリァというのは感覚の質的なもののこと。
五官(触覚・視角・味覚・嗅覚・聴覚)の質的なもの、個人的なもの、主観的なもの、私ひとりにしかないもの、他人にはないもののことを言います。
それに比べて、形には客観性があるから、感覚質・クオリァに入れるべきではありません。
丸いものは誰が見たって丸いです。
感覚質、たとえば視覚でいえば「キラキラした」とか、触覚でいえば「すべすべした」とか、味覚でいえば「うまみ」とか、聴覚でいえば「心地よいメロディー」とか、嗅覚でいえば「いい香り」とか、そういう個人的・主観的な感覚の質的なもの、それをクオリァといいます。
感覚質・クオリァは私にしか接近できないもので、他人にはそれが分からない。
問題は色です。色そのものではなく、色の質的なもの。
私があるものを見て「赤い」といい、他人が同じものを見て「赤い」といったとしても、同じ「赤」かどうか、互いの内面にあるものは比較できないから、果たして同じかどうか分からない。
「赤」といっても、その感覚の質的なものは個人によって、主観によって異なっている。
それに対して表象には普遍性があると言われています。
カントに言わせると人間の中には普遍的な「カテゴリー」が存在し、人間が外界を認識するときに、その普遍的な「カテゴリー」を通して認識し、それを表出することが表象なのだから、表象には普遍性、客観性がある。
その点では、感覚質・クオリァと表象は、まったく対蹠的であると考えられています。
しかし、そんな感覚質・クオリァがあり、個人的・主観的で、他人には接近できないものが果たしてあったとして、何の意味があるかという問題があります。
ウィトゲンシュタインに言わせると、そんなものはあっても無意味だと言っています。
たとえば、私が感覚の入っている箱を持っていて、その中にクオリァ・Aがあるとし、他人が私と同じように感覚の入っている箱を持っていて、その中にクオリァ・Bがあったとし、AとBは比較できないとしたら、そんなものは規範には入らない、「言語ゲーム」の外。
そして言語は規範であり、誰にとっても共通であることが必要だから、感覚質・クオリァは存在しても無意味。
だから、私がそれを「赤い」といい、他人が同じものを見て「赤い」といったら、同じ「赤い」と思うしかないのです。
あなたの場合、感覚質・クオリァが何であるか誤解しているし、その上表象というものが何であるか、二重に誤解しているというべきです。