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クオリアと表象の違いってなんですか?
哲学上でのクオリアと表象って何が違うんですか? クオリアは私、自分自身が持つ「感覚」ですよね? 自分の見て「感じる」色・形・触感・におい、etc・・・ そういった自分の中にある「感覚」を通して得た知識や経験のようなものだと考えています。 しかし、調べてみると表象も似たようなものではあるが全く別のものだとあります。 表象も「感覚」というモノを通して外界(私たちが直接認識できないモノ)を感じていることだと考えているのですが、それって同じことを言っているのではないのですか?
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感覚とクオリァは同じものではなく、クオリァというのは感覚の質的なもののこと。 五官(触覚・視角・味覚・嗅覚・聴覚)の質的なもの、個人的なもの、主観的なもの、私ひとりにしかないもの、他人にはないもののことを言います。 それに比べて、形には客観性があるから、感覚質・クオリァに入れるべきではありません。 丸いものは誰が見たって丸いです。 感覚質、たとえば視覚でいえば「キラキラした」とか、触覚でいえば「すべすべした」とか、味覚でいえば「うまみ」とか、聴覚でいえば「心地よいメロディー」とか、嗅覚でいえば「いい香り」とか、そういう個人的・主観的な感覚の質的なもの、それをクオリァといいます。 感覚質・クオリァは私にしか接近できないもので、他人にはそれが分からない。 問題は色です。色そのものではなく、色の質的なもの。 私があるものを見て「赤い」といい、他人が同じものを見て「赤い」といったとしても、同じ「赤」かどうか、互いの内面にあるものは比較できないから、果たして同じかどうか分からない。 「赤」といっても、その感覚の質的なものは個人によって、主観によって異なっている。 それに対して表象には普遍性があると言われています。 カントに言わせると人間の中には普遍的な「カテゴリー」が存在し、人間が外界を認識するときに、その普遍的な「カテゴリー」を通して認識し、それを表出することが表象なのだから、表象には普遍性、客観性がある。 その点では、感覚質・クオリァと表象は、まったく対蹠的であると考えられています。 しかし、そんな感覚質・クオリァがあり、個人的・主観的で、他人には接近できないものが果たしてあったとして、何の意味があるかという問題があります。 ウィトゲンシュタインに言わせると、そんなものはあっても無意味だと言っています。 たとえば、私が感覚の入っている箱を持っていて、その中にクオリァ・Aがあるとし、他人が私と同じように感覚の入っている箱を持っていて、その中にクオリァ・Bがあったとし、AとBは比較できないとしたら、そんなものは規範には入らない、「言語ゲーム」の外。 そして言語は規範であり、誰にとっても共通であることが必要だから、感覚質・クオリァは存在しても無意味。 だから、私がそれを「赤い」といい、他人が同じものを見て「赤い」といったら、同じ「赤い」と思うしかないのです。 あなたの場合、感覚質・クオリァが何であるか誤解しているし、その上表象というものが何であるか、二重に誤解しているというべきです。
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- 雪中庵(@psytex)
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「クオリア」や「表象」について聞く前に、それらが 何であるか=何でできているか=どんな原理的要素の どんな現象であるかを明確にして欲しい。 物質的な意味ならば、超弦に還元される量子相互作用、 精神的な意味ならば、感受表面における量子相互作用と 脳ニューロンのシナプス結合によるネットワークでの 五感の相関した経験の蓄積に基づく量子相互作用パタ ーンによる予測としての空間的広がりと、そこにおける 無の射影(時間軸の虚数関係による相殺)としての ライトコーン(光の軌跡)としての量子性の由来、 といった具合に、もはや具体的に原理が分かっている のだ。 中世のように、日常の限られた現象的経験(素朴唯物論) にのみ基づいた思索だけによって、実体を持たない曖昧 な概念を作る事で説明した気になるのは、進化論を否定 せざるを得なくなった宗教の二の舞だ。