- ベストアンサー
世界観について
世界観はいろいろあると思います。極端な話、世界は培養液の中に入った脳がみているバーチャルリアリティかもしれません。しかし、普通は、常識的なというか、自然科学的な世界観で考えていると思うのです。 哲学的な話をするときに、自然科学的な世界観のことを何と言えばよいのでしょうか?唯物論でしょうか? 現代の哲学においてもっとも有力だと考えられているのは、どのような世界観でしょうか? あるいは哲学では、有力な世界観をこれ、と決められないものなのでしょうか?
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
今、最新の「自然科学」=量子論的な世界像 において、認識される事によって有限な存在 性は派生するという、観念論的な立場(コペ ンハーゲン解釈、強い人間原理)が主流だ。 そこにおいて、「認識性は二次的に派生する もので、認識とは独立して外的な存在性が先入 する」という古典的な考えは、「素朴唯物論」 と呼ぶ。
その他の回答 (9)
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 名称を知りたいということは理解してはおりました。ですが僕は、その名称を知りたいというstmimさんの目的や意図までを含めたお応えとなれば良いなぁと想い、もしかしたら答えにはなっていないかもしれない失礼さがあることは覚悟した上で臨んでおりました。 僕が理解するstmimさんの名称を知りたい目的や意図とは、相互理解を通してのその方との心の距離を埋めたいという心境なのだろうというものでした。 相手との語らいの中で、自分の考えを理解してもらいたい、自分を認めてもらいたい、あるいは自分も相手の考えを理解したい、相手を認めたいという相互の理解と、そのことによる関係づくりまでいけたら尚よし、、、と言った様な。 もし、stmimさんの目的や意図が、自分1人が優位に立ったり、優越感や劣等感などを感じたいというのであれば、語らいは論理と論理のぶつかり合いだったり、観点と観点との衝突であったりしますから、あくまでも違う観点を出発した世界観について、延々と語って見るのも良いかと思うのです。 その場合は、使っている単語や言語は同じであっても、解釈や解析は全く違う観点から出発しますから、例え共通する単語を用いても、全くの並行線となり、本当は上下や甲乙や優劣などは付けようがないのですが、無理やりに相対的に関連づけて自我を確認してみたり、相手を確認してみたりするのも良いと思います。 でも、 もし相手との相互理解だとか仲間意識を確認したいだとか、共に何かを取り組みたいだとか、アイディアやプロジェクトを練りたいだとか、他にも色々とあろうかと思いますが、良い関係でありたい場合は、 あくまでも共通する観点から出発した世界観による語らいが大切だと思います。 生物学のカテゴリーを例にあげていますが、これにしても生物学としてのジャンルでいきましょうね!という共通の約束というか世界観でのみ成り立っているものであって、例えば生命たちからしたら随分と勝手な話だし、人間が観てる世界観の押し付けにもなろうかと思いますし。それが成り立つのは、暗黙の了解として生物学のカテゴリーで行きましょうよ!との共通認識だとか相互理解の元でこそ、初めて成り立つ分類わけとなります。 分けることさえも、 実は相互理解の元で、 共通認識の元で、 初めて成り立つと思うのです。 観点が違えば、 分け方が変わります。 そのことを、 お互いに分かりながらの話やといいと思うんですけど、 ここで質問されている印象からだと、 きっと観点が違うところが出発なのでしょうから、 その場合は、 例え名前を付けて話したとしても、 共通の土台を持ったかの様な気はするかも知れないですが、 相手の方はもしかしたら未だ、その分け方には了承しないかも知れず、場合によっては、自分の観点と自分の世界観のみを受け取って欲しいかもしれない場合もあります。 stmimさんが関係を大切にしたかったり、 共に何かに向かいたい場合は、 そんな相手の方の観点をも包含するような、 上昇された観点へと移動させた上で、 改めてそこから観る世界観を語れば、 相手から見たら、包まれた観点や世界観なので、 認められている様に感じるでしょうね。 stmimさんが語れば語るほど、 相手が語りたかったことを自分が先に代弁することになるでしょうし、相手が聞きたいことを先に自分が語ってあげることとなるでしょうから、心がどんどん開いていって、あれもそれのこれもどれの話したくなるでしょうし、stmimさんに聞いてくる様になると思います。 科学的な世界観も、 哲学的な世界観も、 生物的な世界観も、 どれも包含する観点を自らが持つ時に、 そこから観る世界観は、 相手が観る世界観と同じです。 如何でございましょうか?
お礼
何回もお答えいただいて大変ありがとうございます。 私の考えていることに疑問をお持ちというのはわかります。zakky74さんのように考えるということはもっともと思います。否定はしません。 ただ、それはそれとしておいて置いて、私の質問の内容そのもの(つまり哲学用語で何と言うか?)を答えていただけるとありがたいのですが・・・
補足
考えておられる前提が、私の思っていることと違うと思います。 私の意図をよく考えてみますと私の知りたいのは「哲学からは自然科学はどのようにみえるか?」ということです。 私が話してみたいのは特に哲学に詳しい人です。哲学にくわしい人からみたら自然科学的な世界観はどのように見えているのか?ということを知りたいのです。 >僕が理解するstmimさんの名称を知りたい目的や意図とは、相互理解を通してのその方との心の距離を埋めたいという心境なのだろうというものでした。 それは違います。別にその人と心の距離を埋めたいと思っていませんし、親しくなりたいとも思っていません。その人も自分に興味ないですし、自分もその人そのものには興味ないです。私が興味あるのはその人が考えていることです。 >相手との語らいの中で、自分の考えを理解してもらいたい、自分を認めてもらいたい、あるいは自分も相手の考えを理解したい、相手を認めたいという相互の理解と、そのことによる関係づくりまでいけたら尚よし、、、と言った様な。 それはまったく考えていないです。 >もし、stmimさんの目的や意図が、自分1人が優位に立ったり、優越感や劣等感などを感じたいというのであれば、語らいは論理と論理のぶつかり合いだったり、観点と観点との衝突であったりしますから、あくまでも違う観点を出発した世界観について、延々と語って見るのも良いかと思うのです。 相手の考えていることを理解したいとは思いますが、私の興味があるのは相手の考えであって、相手ではありません。 >その場合は、使っている単語や言語は同じであっても、解釈や解析は全く違う観点から出発しますから、例え共通する単語を用いても、全くの並行線となり、本当は上下や甲乙や優劣などは付けようがないのですが、無理やりに相対的に関連づけて自我を確認してみたり、相手を確認してみたりするのも良いと思います。 平行線になってしまうことはありますね。 >でも、 もし相手との相互理解だとか仲間意識を確認したいだとか、共に何かを取り組みたいだとか、アイディアやプロジェクトを練りたいだとか、他にも色々とあろうかと思いますが、良い関係でありたい場合は、あくまでも共通する観点から出発した世界観による語らいが大切だと思います。 いっしょに何かをしたい場合には、その通りだと思いますが、私はそう思っていません。 >生物学のカテゴリーを例にあげていますが、これにしても生物学としてのジャンルでいきましょうね!という共通の約束というか世界観でのみ成り立っているものであって、例えば生命たちからしたら随分と勝手な話だし、人間が観てる世界観の押し付けにもなろうかと思いますし。それが成り立つのは、暗黙の了解として生物学のカテゴリーで行きましょうよ!との共通認識だとか相互理解の元でこそ、初めて成り立つ分類わけとなります。 魚のことを話すのに生物分類の魚を拒否する人だったら、魚の話をしても私は楽しくないと思います。そうゆう人とは魚の話をしないと思います。 >分けることさえも、実は相互理解の元で、共通認識の元で、初めて成り立つと思うのです。 >観点が違えば、分け方が変わります。 それはそう思いますけど、私がメインに考えている人は哲学にくわしい人です。ですから哲学用語を使えばある程度わかってもらえると思いますが・・・。 >そのことを、お互いに分かりながらの話やといいと思うんですけど、ここで質問されている印象からだと、きっと観点が違うところが出発なのでしょうから、その場合は、例え名前を付けて話したとしても、共通の土台を持ったかの様な気はするかも知れないですが、相手の方はもしかしたら未だ、その分け方には了承しないかも知れず、場合によっては、自分の観点と自分の世界観のみを受け取って欲しいかもしれない場合もあります。 その人が思っている分類を好きなように語ってもらえれば結構です。ただ、それを私が理解できるかどうかが問題ですけど。 >stmimさんが関係を大切にしたかったり、共に何かに向かいたい場合は、そんな相手の方の観点をも包含するような、上昇された観点へと移動させた上で、改めてそこから観る世界観を語れば、相手から見たら、包まれた観点や世界観なので、認められている様に感じるでしょうね。 特に関係はないですし、持ちたいとも思いません。ともに何かに向かうこともありません。 相手は自分に何の関心もありません。ただ、私が聞いたことに(本人の気が向いたら)答えるだけです。 >stmimさんが語れば語るほど、相手が語りたかったことを自分が先に代弁することになるでしょうし、相手が聞きたいことを先に自分が語ってあげることとなるでしょうから、心がどんどん開いていって、あれもそれのこれもどれの話したくなるでしょうし、stmimさんに聞いてくる様になると思います。 >科学的な世界観も、哲学的な世界観も、生物的な世界観も、どれも包含する観点を自らが持つ時に、そこから観る世界観は、相手が観る世界観と同じです。 >如何でございましょうか? おそらく相手側からは自分の側の世界観がどんなものだかは比較的容易に理解してもらえると思うのです。ありふれた世界観ですから。ですから何かぴったりした哲学用語があれば十分じゃないかなと思っています。問題は相手の世界観を自分が理解できるかということです。
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
「世界観はいろいろあると思います」といいますが、私は世界観の違いなんかそんなにないと思っています。 私と他人の間でコミニケーションが取れないことがあったとしても、それは世界観の違いだとかいう大げさなものではなく、単に生活様式が違っていたり、育った環境が違っていたり、知識や教養が違っていたりするだけで、世界そのものの見方には大きな違いはないと思います。 だいいち世界観というのは選択の問題ではないでしょう。 あれがいいか、これがいいか、と選択できる問題ではなく、一定の時代、一定の社会に生きていれば無意識に植えつけられるもので、これが中世であれば誰もが神が存在することは自明だったし、逆に今の時代ならば神が存在しないことは自明なわけです。 個人が、これがいいから、私はこの世界観を取る、というような問題じゃない。 「現代の哲学でもっとも有力な世界観は何か?」なんて問われて、答えられるものではないし、答えられるとしたらそれは有力なものではなく、恣意的なものに過ぎないと思います。 中世では真理というものを感性で確かめるという発想はなく、感性は間違いが多かったので理性だけが真理の源泉でしたが、これが近世になると感性で確かめられないものは真理ではなくなりました。 感性の地位は中世と近世では、まるで逆転しています。 現代の科学でも感性で見たり、知覚できること、感覚で検証できることが、その物が実在する根拠です。 また、時間についても中世では基本的に農業社会でしたから、時間は循環するものと考えられていましたが、17世紀の「科学革命」以降になると時間は直線的に前に進み、元に戻らないものとして考えられるものになりました。 今の私たちは時間は一方向に直線的に前に、しかも規則的に進むものと考えていますが、そんな時間の観念ができたのはたかだか300年です。 機械式歯車時計が14世紀の末に発明されて、機械論的世界観が広く持たれるようになり、その結果、時間は直線的に前に進むものと思われるようになったわけです。 いずれも選択の問題ではなく、否応なしに人々は機械論的世界観に浸って物事を、時間や感性の問題を考えざるを得なかったということです。 今の私たちのほとんどはこの世界にはこの世界を超越した存在者、例えば神のような存在者がいないと考えていますが、それも個人の選択の問題ではなく、今の時代、今の社会に生きていれば否応なく持たざるを得ない世界観です。 今の私たちにとって存在するモノと言ったら、眼で見、手で触れられる、感覚されるものですが、そのような考えは普遍的にあるものではなく、近世特有の考え方です。 だとしたら、私たちにとってもっとも自明とされる事柄こそ、私たちのとっての世界観なのではないでしょうか? フーコーは「言葉と物」という本で、古典時代の考え方の元には「類似」があり、近世になると「差異」に取って代わったと言っていますが、個人というものが登場するのも近世以降です。 だから個人が存在するというのも近世の特有の世界観です。 近世以前には個人なんて存在しなかったのですから。 個人が存在しない時代では、当然ながらその個人が集まって社会を作るという考えもなかったわけで、国家という言葉はあったけど、社会という言葉はなかったわけです。 17世紀のロックやホッブスやルソーには社会と国家の区別がつかず、哲学の中で国家と区別して社会という言葉を使ったのはヘーゲルで、その「法の哲学」が最初でした。 おそらく世界観なんていう言葉も中世にはなく、せいぜい200年くらい前にしかなかった言葉だと思います。 それ以前の時代に人々は自分が世界観を持っているなんて考えもしなかったでしょう。 ましてや個人個人によって世界観が違うなんて、論外な話です。 とにかく世界観というのは個人が選択できる問題ではなく、一定の時代、一定の社会で否応なく抱かざるを得ない自明なもの、いわば常識と言われるものの総体が世界観です。 個々人はその全体としての世界観を選択できないし、しかも無意識だから、それが世界観だということ自体も意識しえません。
お礼
丁寧な回答ありがとうございました。 urigadai2013さんの回答はいつもすごいと思います。 なるほど、理性と感性の話とか、時間の話とか大変興味深いです。世界観が発生したのはここ200年ほどとは! ただ、私の考えている世界観と違う気がします。 私のは世界モデルみたいなものです。 確かに私は神は存在しないと思っていますが、クリスチャンの人は神は存在すると思っていると思います。あるいはイスラム教徒なども。そうしてみると宗教だけでもいろいろな世界観がありそうです。極楽浄土や輪廻転生を考えている人もいるとおもいます。 それから、私は神の存在を信じていないと他の人から聞かれたら答えますが、自分の心の中をよく覗いてみると、キリストの神様を信じている自分、輪廻転生を信じている自分、お天道様を信じている自分などが隅っこのほうに小さくなって存在しています。世界観というのも、その個人の中でもすっかり統一されているわけでもない気がします。
補足
私が考えていた世界観はこのwikiにあるようなものだったのですが、urigadai2013さんの言われる世界観とはまた違うものでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3 それとも、このwikiに中にあるどれかに当てはまるものなのでしょうか? 私の思っている世界観はある程度カテゴライズ可能で、頭の中で切り替えていろいろな世界観で考えてみることが可能であって、別にそれが正しいとか正しいとかと直接は関係ないものです。だから、おそらく、あまりありえない世界観で考えてみる(想像してみる)ということも可能なものです。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 同じ言葉を使ってはいても、 解釈や解析が違うことってあるじゃないですか? 同じ名前を使ってはいても、 全く同じものを指していることってないじゃないですか? その様に本来は、名前や言葉や言語によってイメージを共有することも共通認識を図ることも無理だということを知ることが第一歩というか前提にするのが良い気がするんですよね。 特にstmimさんは、こう仰っています。 ・お互いにまったく違う世界観で話をしていると話が進まないので、自分の世界観を哲学にくわしい人に簡単な用語で説明したいというのが質問の動機です。 前半部は、全くその透りやと思います。ですので、まったく違う世界観ですから話が通じない!と観るべきなんではないでしょうか? 先の回答の前半部をもう一度、書き記しますね。 >>世界観というのは、世界をどの様に観ているのか?だとか、どの立ち位置から観ているのか?だとか、観ている人の観点を含む言葉だと理解しています。観ている人の観点があって、その観点による解析によって生まれた世界について語ることを世界観というのではないかと想っています。 >>哲学的な話であっても、 >>自然科学的な話であっても、 >>双方に共通する観点から出発する場合、 >>それらは同じ世界観を持ちますね。 どの立ち位置から観ているのか???が、真に一致している場合には、そこから観る世界なんですから世界観は全く同じものを観ているといえますので、この場合はイメージの共有も共通認識も図れるかと思います。 ですから、それが哲学的な話であっても、自然科学的な話であっても、観点が同じなのであれば、それは意思疎通も図れますし、イメージの共有も起きます。世界観が同じだからです。 そして、前回の回答の後半部を再度、記しますが >>そして、違う観点から出発する場合、その観点による解析によって生まれた世界観は、違う世界観になります。 どの立ち位置から観ているのか???が、真に違っている場合なんですから、その観点から観る世界は全く違う世界観になるじゃないですか?全く違う世界観なんですから、使っている言語も、指し示されているイメージも、思考体系や論理体系までもが、全く違う世界なんですよね。 既に、違う観点を自分たちが選択している訳ですから、そこから生み出された後の世界観については共有される訳は無いのではないでしょうか? つまり、幾ら名前を知ったところで、相手の世界観からは全く違うイメージへと変換されてしまいます。 例えば、自然科学的に使う「存在」という言葉と、哲学的に使う「存在」という言葉は、同じ言葉の様に思えますが、言葉が指し示しているイメージまでは違ったりします。何故、違ってくるのか・・・それが観点が違うから、違う観点から出発する世界は、まるで違った世界を観てるという事で・・・それで違ってきます。 stmimさんが、意思疎通を図りたい相手がいるのでしたら、まずはその人の世界観が、どの観点から出発しているのかをよく聞き、受け取ることが大事で、その人の世界観の単語を使い、その人の世界観のイメージを使い、そして理想なのはその人の世界観の感情や心情と1つになって、ご自身の世界観のイメージのことを1つひとつ語っていくことなんやろうと思います。 それは、相手の観点なので、相手から聞いたり、相手から受け取ることでしか得られません。質問サイトで聞きたい気持ちがあろうかとは思うのですが、それこそ交流を図っている相手の観点と向き合うべきなんじゃないでしょうか? 繰り返しますが、 違う観点から出発する世界は全く違う世界なので、共有共感はおきません。 同じ観点から出発する世界は同じ世界ですから、共有共感の余地があります。
お礼
回答ありがとうございました。 補足を入力してから思ったのですけど、カテゴリーに分けてから、さらに細かいところを詰めるというやりかたは、生物の分類ではうまくいくかもしれないけど、哲学ではうまくいかないかもしれないですね。そんなに細かい分類があるようでもないですし、相手が哲学用語を知らない場合にかえって混乱するかもしれません。 zakky74さんの言われるようにカテゴリー分けしないで、最初から相違について見当したほうがかえって早いかもしれませんね。そうゆうアドバイスだった訳ですね。 でも、私が知りたかったのは、用語だったのです。 すみません。
補足
丁寧な回答をありがとうございます。 しかしながら、それは私が求めていた回答とは違います。 もしかすると私の質問の仕方がよくなかったのかもしれません。 生物のたとえで説明します。生物はカテゴリーごとに分類されています。 私とある人が、ある生き物について語るとします。 その時に、その生き物を特定するのに、「その生き物は、ウロコがあって、卵を産んで増えて、変温動物で・・・」のように、その生き物の特徴を細かく並べていくより、「魚について話しましょう」と言ったほうが簡単ですよね。もしかしたら魚と言っても私はフナを思い浮かべ、相手はサメを思い浮かべているかもしれませんが。このように生き物のカテゴリー名称を使ったほうが、考える対象を簡単に限定できると思います。 世界観をwikiでみますと以下のように分類されています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3 世界観を示す用語を使用したほうが早くお互いの世界観を理解できると思います。 私が質問したかったのは最初に質問文で説明した世界観は例えば、この中のどれが近いでしょうか?ということでした。 私なりに考えてみると「機械論的唯物論」が近そうです。 「人間の意識や有機生命を自然的物質に還元し、全て力学的な法則によって説明する機械論に基づく唯物論の一つで、全ての存在に自然科学的方法論を適用しようとする立場。」 これが本当に正しいのか、私はちょっとわかりませんが、哲学にくわしい人だとわかるのかなと思って質問しました。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
世界観というのは、世界をどの様に観ているのか?だとか、どの立ち位置から観ているのか?だとか、観ている人の観点を含む言葉だと理解しています。観ている人の観点があって、その観点による解析によって生まれた世界について語ることを世界観というのではないかと想っています。 哲学的な話であっても、 自然科学的な話であっても、 双方に共通する観点から出発する場合、 それらは同じ世界観を持ちますね。 そして、違う観点から出発する場合、その観点による解析によって生まれた世界観は、違う世界観になります。それで確認したいことがあるのですが、stmimさんは、違う観点から出発することを前提として、それらの解析によって生まれた違う世界観について、名前が付いているのだと思うけれども、その名前を知りたい、、、と、そういう質問だと理解して良いんでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 お互いにまったく違う世界観で話をしていると話が進まないので、自分の世界観を哲学にくわしい人に簡単な用語で説明したいというのが質問の動機です。
補足
ご指摘の通り用語の質問です。 私の世界観は自然科学的なもので、自分自身も含めて客観視できるものです。 哲学にくわしい人と会話をすると、どうも哲学では自然科学で認められた事柄をそのまま採用せずに、自分の主観から出発して確実なものしか認めないという世界観のように思います。 したがって、なかなか会話がかみあわないことがあります。 そこで哲学にくわしい人に向けて自分の立場を説明する時にどんな用語を用いると理解してもらいやすいでしょうか?というのが質問の内容です。多分、自然科学的世界観あるいは、唯物論的世界観のように言えばよいのかなと思いますが、それで正しいのか自信がありません。もっと他の言い方をするのか?例えばフッサールの「特殊世界」が正しいのか?ということをお尋ねしたかったのです。 さらに、哲学的考え方をする人たちの自分の主観から出発した事象しか認めないという世界観はどのような名称で呼ばれているのか知りたいです。そして、現在、哲学ではどのような世界観が主流なのかについてもお尋ねしたいです。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>絨毯があるということに合意できない場合があります。「それはあなたがあると思っているだけでしょ?」となってしまう。そんな場合に、この世界には物質があり、物質は原子や分子から構成されていて・・・ その根底から世界観はナンデモあり。ですね。 すべては無に帰し、有とならしめているのは本人。どういった有であるかは、本人次第。法則、時間、空間、物質・・そのアプリオリな事柄も含めて、ナンデモあり。 時間は未来から過去へ流れ、多次元の空間を反物質が埋め尽くしていてもかまいません。 実のところ、言葉はともかく、世界観、宇宙観をある程度共有している者同士が人間と言えるところがありますね。だからなるべく共感したい、理解し合いたいと・・その方が安心だし、有用だし、心地いいということでしょう。
お礼
世界は培養液に入った脳がみたまぼろしだとか、世界は5分前に発生した、とか有名な哲学的問題がありますよね。現象学というのも主観的世界を世界としているように思うのですが・・。 哲学は考えの幅がひろくなるのはいいのですが、常識的世界とはなれてくるようで。 丁寧にご回答いただきましてありがとうございます。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>他の人と話していて、話がぜんぜんかみ合わないことありますよね。 コミュニケーションという意味では、言葉を尽くしてお互いにその世界観を共有し合ったような感覚に到達するということでしょう。 あなたが赤い絨毯を見て、赤いと感じているであろうことを、私も共感しますが、悲しいかな、あなたが私と同じ赤を見ているわけではないのですね。 世界観なる概念も千差万別、相手の世界観を知ることはできません。言葉を尽くして分かり合ったような気分になるところが限界です。 その意味で、世界観を分類、思想、信条、歴史観などある程度の分類も有用かと思います。赤が赤であることは科学的に波長によって決められますが、世界観は客観的証拠に基づく事実確認までで、どう解釈するかが主ですので、有力説に留まるかと思われます。それをもとにコミュニケーションすると話が早いですが誤解を生みやすいですね。
お礼
回答ありがとうございました。色の話はクオリアの問題ですね。細かい部分についてはどうしても、その人の考えが影響してきますね。でも土台から違って話している場合もあって、そんな場合に「私はこんな土台で話しています」というのを示す便利な言葉はないものかと思いました。話す手間を節約するために。フッサールの言う「生活世界」というのはまた違うのかなあ。
補足
絨毯があるということに合意できない場合があります。「それはあなたがあると思っているだけでしょ?」となってしまう。そんな場合に、この世界には物質があり、物質は原子や分子から構成されていて・・・という世界観をてっとり早く確認する用語はないでしょうか?というのが質問でした。わかりにくい質問のしかたでした。それを「世界観」と書いたのがよくなかったのかもしれません。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
なんでもアリってことですよ。 言葉で、これこれが世界観であるべきということではなくて、 言葉にすることもない、それぞれの人間がもっている世界観の すべてが今の人間の世界観です。
お礼
回答ありがとうございます。 他の人と話していて、話がぜんぜんかみ合わないことありますよね。その場合、前提としている世界観がお互いに違うことがあります。こうしたことにならないように、「私は○○という世界観を前提にして、話しています」ということを相手に伝えてから話をするといいと思うのですが、それを手短に伝えるにはどのような言葉がいいのかな?と思ったのでお尋ねしました。 ついでに、哲学的なことを考える人はどのような世界観を標準的に考えているのか知りたいと思いました。 確かに、この世界観じゃなきゃいけないということはないですね。人それぞれ、人間の数だけ世界観があるということも言えると思います。それらを分類することもできとは思いますが。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
「法律は、社会の最後尾を、行く」(法諺)
お礼
回答ありがとうございます。せっかく回答をいただきましたが、ちょっと私は意味がわかりませんでした。
今から述べることは単なる私見と思って下されば結構です。 太古の昔から、人間は人間には真似できない事象を畏怖し、 その回避と再現を試みてきました。 宗教による予言も神事も、神頼みだけども、地震や 落雷、豪雨、日照など人為的にはどうしようもない災害を 避ける目的で、或いは豊穣な実りや漁や猟での大漁といった 自然の恩恵や、天変地異の再現による戦争の勝利などを 何とかしてもう一度、と求めてきたわけです。 かつてジンクスを踏襲して(その事象が起きた時の状況を 出来るだけ模倣して)神に祈る、という呪術が「科学」と同義 でした。 様々な事象の原理を見つけ出し、自然に隠されたカラクリを 誰が見てもそれと判る「原理」に固定したものを科学、と呼びます。 神の力であった雷と、冬場に乾燥して体から 発する青い火花とビリッとする悪感から電気、という エネルギー・・・は同じではないか、と夢想しました。 そして、エボナイトを毛皮でこすれば静電気が生まれ、 それを導電性の物体にくっつければ放電して電流が流れる、 という現象から、これらが不導体・絶縁体には蓄積され 金属などの導体中では流れることを無数の実験から 確認し、次にはそれを様々な数値化を目的に測定し、 ついには電気の勢いとも言える電圧と、流れる量と 言える電流、その掛け算である「仕事量」・・・ちょうど 水の流れとほぼ同じ理屈が当てはまる・・・と、これらを 数式化して皆の共有知識として固定しました。 ある者は、物質の様々な性質、燃える/燃えない、 水に溶ける/溶けない、錆びる、他の物を侵すなど、 それらの固有の性質が物質を重さの順に並べると (この言い方は大雑把過ぎますが)同じ性質が繰り返し 現れることを発見しました。 それに先立ち、幾多の人々が混合物しかない 自然界から、煮たり焼いたり溶かしたり漉したり、 様々な「壊し方」で純粋な物質を抽出しようと悪戦苦闘し、 その過程で元素とその分離法を導き出しました。 そういう様々なジャンルの探究心から生まれた 「結論」を集めて、物質の違いはどこから生まれるのか、 宇宙とは、命とは、と着想と仮定、実験と検証を 繰り返しながら、別々の発見や探究の結果を一本の 糸で結び合わせるようにして、より高度な仮説と検証を 繰り返して現代の科学は出来ています。 同時に、その進歩の過程で科学と表裏一体に 進歩してきたのが、その科学が導き出した現象の 安定した再現を目的にする、「技術」です。 前ふりが大分長くなってしまいましたが、これらは 過去から現代に連なる「世界観」そのものの変遷と 言うこともできます。 知識は集積され、研磨されても一般の人々が日常に 使うことが出来ないものや、使うことに大変なノウハウが 必要なものばかりですので、主に「製品」や「文化」として 普及します。 だから、それらの科学と矛盾しても、それらを使うだけ しか知らない普通の人々の間では、宗教も理不尽な 暴力も生きながらえることが出来る訳です。 だけれども、それらの「自然界の仕組みの機序」、つまり カラクリの解明と利用を進める裏側で、そもそもどうして そんなことになっているのか、誰が何の目的で自然を 造り上げ、運営しているのか、さらに深く掘り返して、 そもそも我々が「知る」とか「認識する」ということは どういうことなのか、そもそも存在するとはどういう ことなのか・・・無とは?有とは?意識とは? そう深く考え続けていく「哲学」という思考のプラット フォームに科学も技術も全て乗っかって考えられて いるわけですが、これらは全て、自然というものを 徹底的に考えることの裏返しとして、我々人間という ものについて徹底的に考えることでもありました。 世界は脳が見ているバーチャルな、という考え方は 実際、千年以上も前から人々が夢想する、言わば 古典と言える発想です。 既に数世紀前でさえ、機械に思考させ、人間と同様に 「想う」存在を造ることが出来たら、という人工知能、 単なる思考装置ではなく、「自己」というものを持つ 人工意識体を考案した人はいました。 それを「人工実存」と呼んだ人もいた。 現代では、それらの「意識」について、意識を形成する 構造、例えば深層意識や無意識の情報処理機序などの 個体としての意識の仕組みを解明しようとする人々と、 自覚できる意識とは、意識構造体のほんの表層だけ、 いわば氷山の海面上に出ている一部のみのことであり、 意識とは自覚もない深部構造までが連動して動作する 巨大なシステム、と捉える人たちなどに分かれて研究が 進められているようです。 周囲の環境とやりとりをして、個体と、それが集合して 形成される群体、そして全体が一つの生き物のように 振舞う「社会」、それらがレベルこそ違え、自らを維持し 発展させていくという、あたかも目的に沿って動作する ように見える複合的なシステムとして、群盲象を撫でるが ごとき手探りが続けられています。 哲学、それに導かれる世界観は先端部分では実験や 観測の中から見出される極めて詩的な夢想に天才的な インスピレーションを得て、高度な計算能力の中で数式と 数学的モデルの構築と解体の中で、人脳と電脳、それも ネットワーク化された情報の海の中でのまどろみのような 様相を呈しています。 唯一の世界観、という古典的な思想は、現在では宇宙の 大統一理論などについては最終章を紡いでいる訳ですが、 我々人間という進化の入れ物の中で揺籃されている、この 「意識」という途方もない広大な「情報の海」について、 現在はまだ原始時代とも言える黎明期にあるだろう、と 看做されている筈です。 各学会や先端技術に関わる人々の間では。 区別して考えられてきた時間と空間を統一して扱うように なって久しいですが、現在では「物質と意識」「認識の彼我」 の垣根も溶解しつつあります。 人間だけが思考し、感情を持ち、崇高な存在として世界に 君臨する存在であり続けることは、いずれ無くなってくるで しょう。 脳とコンピュータ、そして電脳ネットワークへの常時接続は もはやさして未来の話ではありませんし(既に脳組織に デバイスを侵襲してインプラントする技術は視聴覚の 再現レベルにまで達しています)、疑似感情を持つAI、 この言い方も大分古いですが、普通に会話している限り 機械だと気づかれない人工意識構造体の開発もそれほど 遠い未来のことではないでしょう。 恐らく今世紀中旬です。 遺伝子操作から、遺伝子設計/人間のスパームを 選択的に抽出、或いは淘汰するのではなくて、そもそもの 遺伝子コード自体を設計する技術の実現性について、 否定的な見解を持つ生物学者は少ないでしょう。 完全な意味での生物学的両親を持たず、機械を精緻に 組み込まれ、しかもネットワークに結びつけられて、 それらの情報処理の集合体の部分端末としても 作動する生命体・・・更に云えば、その構造を必ずしも タンパク質で造ったカラダにインストールして置かねば ならない、ということもなく、アプリをダウンロードし、 写真やデータをネット上にアップするように、人間という ものの思考も記憶も感情も、分解・再構築可能な 「情報セグメント」として改変、分割、コピーなどが 自在に出来るようになった近未来においては、比喩的な 言い方ですが、人工の神を生み出した、ということに なるでしょう。 我々は、自らの種という存在と引き換えに、仕える 神を生み出し、それに溶け込んでいくことになります。 が。 普通の暮らしをしている人々は、普通の暮らしを続けて いくでしょう。 人類が本当に自分達の肉体を必要としなくなるのは どんなに急激に世界が進歩しても数千年はかかる だろう、と思います。 ことによっては数万年くらいは掛ってしまうかも。 それでも、一億年以上もの永きに渡り栄えた恐竜達に 比べれば、あと僅かな時間でしかありません。 つまり、「個体」という生命の基本単位がなくなり、 「種」という「群」の概念もなくなり、一部と全体という 境界が極めて曖昧、というより、状況により、都度 環境との関わりが変化する、連続する「領域」という 概念で命を捉えざるを得ない段階に入ると思われます。 私、は 私であって私ではなく、私は一人でありながら どこにでも (例えばコピーとして、或いは部分として) 偏在し、限定独立した存在ではない故に、私は どこにも存在しない。 そういう生命のありようを前提にすれば、「ここ」/「あそこ」 「昔」/「今」/「未来」といった時空間上の座標も、 ここからここまで、といった領域としての存在も 非常にファジーなものとして捉える時代になるでしょう。 ちょうど、大気の動きを観測と演算処理で局所的にも 総体的にも、また時系列上の連続体としても捉えて いる気象工学の様に、です。 自分、という固有の存在は絶対なのだ、という、単なる 原始的な「自我」の感覚、観念は、要するに他者を自分と 同一視出来ない、意識の幼生段階の限界故の孤独です。 現実の世界での人間の成長が独りよがりな自分中心の 世界観から、他人と自分を誠実に見比べ、自分という 存在の相対論的矮小化と、自分が無に等しいが故の 群、社会への帰属・・・例えばボランティア、或いは 家族を大切にする凡庸な人生への肯定。 それと同じ「悟り」として、人類総体もまた、「個体」という 枷から解き放たれ、区切りを持たぬ「相」としての有り様、 あるがままを受け入れていく方向に、認識は進化して いくだろうと思います。
お礼
回答ありがとうございます。私たちが常識と思っている世界の解釈の仕方というのは時代につれまた変わっていくのですね。興味深いお話でした。
補足
「世界観」という言葉がよくなかったのかもしれません。rasenkaidanさんと私は同じような世界観の前提で話していると思います。rasenkaidanさんが説明されたのは世界の解釈の仕方のように思います。私たちが共通に考えている世界観以外の世界観もあります。例えば、私たちが世界だと思っているものは誰かの夢であるという世界観です。もしかしたら世界には人類も社会も何もかも存在していないのかもしれない。そうゆう変わった世界観もあります。そうした世界観と区別して、私たちが常識的に持っている世界観を何と呼んだらよいでしょうか?という質問でした。私が質問の意味を上手く表現できていなかったと思います。
お礼
強い人間原理は知りませんでした。なるほど、私の言いたかったのは素朴唯物論のようです。回答をどうもありがとうございました。