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ご先祖様の戸籍の移動の多いが、農民じゃないの?
ご先祖様の戸籍を読んでいたのですが、色々な場所を渡り歩いています。 先日、家系図製作のためにご先祖様の戸籍をとってきたのですが、見てみると代々色々な場所に行っています。 主に大阪東京を行き来してる感じで、私も頭の中をまだ整理しきれてないのと字が読みづらいので、順番とかは間違っているかもしれませんので、大体で流れをいうと、 初代二人(妻の方しか残ってないけど)は、大阪で生まれ、おそらく長男(私の曾曾じいさん)もここで生まれたと思われます。で、明治17年にはいつの間にか東京に行っており(長男は確実、この初代夫婦は一緒にいってないと思われる)、東京で妻と結婚して浅草に籍を置いて、それから20年後くらいに長男が誕生したけど、その時には東京の別の地域に移り、2年後にまた大阪に戻って(ここで子どもを大勢授かり、この時にうちの曾じいさんも生まれた)、それから数年後に大阪のちょっと離れた場合に籍を移し、この長男(曾曾じいさん)が亡くなるまでの数年間で、ちょこちょこした転籍(二丁目から四丁目みたいな)をしています。 彼は一体何をしていたのでしょうか?当時って長男は、お家(てか田んぼ?)を継がないといけない?みたいな感じだと思いますが、彼は何らかの転勤だらけみたいなお仕事にでも就いていたのでしょうか? 次男とかが出稼ぎに。とかならまだ分かりますが……。 うちのご先祖達は農民ではなかったのでしょうか?(ちなみに私の曾祖父は教師だったみたいで、彼もまた大阪に生まれ、東京で結婚して子どもを授かってました)
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- mm058114
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追加です。 嫁や婿に行くと、自分一族から外れ、除籍簿は見られません。 嫁先、婿先を探し出し、除籍簿取得をお願いするしかありません。 嫁先、婿先を探し出すのも、結構たいへんです。 こちらの手元の除籍簿で、行き先きだけは分かります。 古ければ古いほど、区画整理、町名変更、市町村の合併があります。 100%変わっています。 都道府県によっては、都道府県庁に電話すると担当課に回してくれて、 古い住所を伝えると、直ぐに現在の住所を親切に教えてくれる所もあります。 ゼンリンの住宅地図や、グーグルとかの航空写真で確認。 移転していたり、一族を継ぐおもに男性が居無くて名前が途絶えてしまってると、 行き詰まってしまいます。 もうあとは、現地に行って古くから根付いている人を探して、 インタビューして情報をもらうしかありません。 ダメ元で郷土資料館みたいなところで、 学芸員に古くから根付いている人に連絡をとってもらって、 インタビューの許可を取って紹介してをもらう。 意外と地元で代々受け継いでる簡易郵便局長が、 古くから根付いている人を知っているので、パイプになってくれるかも知れません。 寺社の住職、神主。 って感じです。 これは、探偵の友人に教えてもらった事です。 ゼンリンの住宅地図は、昭和40年代のものは見たことがありますが、 全国版があるかは分かりません。
- mm058114
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元々、明治戸籍制度の目的は、 納税と徴兵を、スムーズに運営するために発足しました。 そのため、出生、性別、婚姻、死亡等を記録したものです。 明治5年に。まず『戸籍』が制度は制定されました。 戸籍の編成単位は『戸』で、本籍は住所地とされ、 身分登録とともに住所登録という性格もありました。 明治31年、旧民法で『家制度』が制定され、 人の身分関係に関しても詳細な規定を設けられることになった 大正4年、明治中頃から職業の種類は多様化、広域化し、 本籍=住所地という概念が当てはまらなくなってきた。 また、日清日露戦争、韓国併合により、 台湾、樺太、関東州、満鉄管理地、朝鮮の在外地も増えたため、 本当の居住地を明確化したもの 昭和23年、新戸籍法。 ほぼ現行システム。 これらは、あくまで法施行日であって、完了日ではない。 つい最近まで手書きであったため、 変更書類への書き写しだけで膨大な時間がかかっており、 正確に、いつ完了したかは分かっていない。 昭和23年の新戸籍法も、戦後の混乱期ではあったが、 実際に移行作業が行われたのは、 昭和33年4月から昭和41年3月にかけてである。 実際に私の祖父の戸籍は、生存長兄の住所で、 兄弟6人も同じ住所が戸籍であった。 また、私の祖母は明治40年生まれという事になっているが、 それは、祖々父が役所に届出を行った時であり、 誕生日も役所に届出した日です。 山奥で百姓をしていたため、 町に出向くのは数年に一回で、そのついでの届けであった。 年の離れた兄から聞いた話しだそうだ。 そのため、届出時には3歳くらいであったらしく、 本当の生誕、何歳で亡くなったのか不明のままだった。 それくらい国民には、35年経っても、明治5年の法律が周知されていなかったのです。 亡くなった人の除籍簿は80年が保存期間とされ、 一番最初の明治5年戸籍は、残念ながら破棄され見ることができない。 その実、法務省の倉庫に封印保管されているらしい。 長々余計な事書きましたが、上記のような状況から、 昭和42年の住民基本台帳が開始されるまでは、参考資料に過ぎず、 昭和41年までは戸主の記録である可能性が高くなります。 また、法律が施行されても、いつまでに完了したかは記録がありません。 大正4年の施行時に、 まだ完了していなかった明治19年改正分も合わせて施行するようにと、通達が出ていますが、 終戦の時まで30年かかっても完了していなかったようです。 また現代では、戸籍の電子化は、2003年調べで自治体37%、2007年調べで70% と、つい最近のことであり、それでも毎年のように戸籍を持たない子供が発見されています。 このように、失礼な表現だけれども地域地方の文化度によって、古い戸籍の確度に高低あります。 これを確度高く推定して行く方法として、 探したい人の周辺の人(祖父母、父母、兄弟姉妹、義姉妹)の死亡除籍の届出役所名。 子供の出生届け地。 そのまた子供出生地。 これらの受付役所を、できるだけ多く手に入る人の分の除籍簿から拾って、 推定して行くしかありません。 また、兵役についたことがあれば、厚生労働省に軍歴があります。 海軍にしろ陸軍にしろ、本籍地で入隊する地域が決まっています。 遠方に暮らしていても、本籍地に戻って入隊するシステムになっていました。 兵種によっては、本籍の都道府県によって入隊地が決まっているので、より確度が高くなります。 じゃなかったら軍隊の互助会である、陸軍は『信義会』海軍は名前忘れましたが、ありました。 この互助会名簿にも、正確な住所が記載があるはずです。 この互助会費用は給料から強制的に天引き積みたてされ、戦死時に遺族に給付金が出ます。 まあ、生命保険みたいなものです。 更には、遺族が困窮した場合には、低金利で貸付を受けることができました。 軍人は銃後の住居所在地を報告義務があるので、引越ししても、これらにはデータがあるはずです。 またまた長くなりましたが、あっちこっちに行っているのは、 本当に引越ししている場合。 もう一つは、一族の長が亡くなり、次席の者の住所に戸籍だけ移った可能性もあると思います。 そして、次席も相次いで亡くなったり。 戦前は子沢山だったので、長兄と末弟では親子ほど歳が違ったり、 一度も顔を会わせたことが無いことも、良くあったことです。 私の祖母がそうでした。 11人兄弟だそうですが、歳が離れていて遠方で家庭を持っていたり、 6人しか会ったことなく、戦死、病死していたり。 調査して家計図を作るには、 関係一族の戸籍、記録をなるべくたくさん集めて、 年表のように各人を横一線に並べて行くしかないと思います。 私も10年計画でコツコツと関係一族の年表作ってます。 その後に、やっと家計図に進めると考えています。 だからプロとして、家計図を作る商売が成り立つのです。 プロの商売人に委任状たくさん書いて、 そして我々が会ったこともない、どっかで繋がっている関係者を探し出し、 そして、その関係者を口説いて、また委任状もらって。 そうやって、多くの除籍簿を手に入れて、菩提寺の過去帳を探し、 家計図を作り上げ、高額報酬を手に入れるのです。 まあ、やってることは、探偵と行政書士をミックスしたような感じです。 それを、素人の私がやろうとすると、膨大な時間が掛かります。 しかし現在は、個人情報保護の観点から過去帳は閲覧禁止とする寺院が多い。 本人が行っても、かなりたくさんの本人確認の書類等を提示提出しなければならなかったり、 場合によっては、行政書士を頼らなければならない場合もある。 でも、その調べて行くワクワク感を楽しみたいので、自分でやってます。 出稼ぎは、戸籍異動させないですね。 教師って、凄い情報じゃないですか! 校長だったら、告示が出るはずですし、官吏もつきます。 一般教師でも、公務員、都道府県職員ですし、 学校なんかの歴代名簿に名前あったりするんじゃないですか?
- eroero4649
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ご指摘のように、所有する土地がある農家はその土地に縛られるものです。でも、それがなければその土地には縛られないものです。 例えば、広大な土地を持つ豪農に雇われるいわゆる「小作人」と呼ばれる立場です。これはいってみれば田んぼを地主である豪農から借りて、できた農作物の一部をレンタル料として納めます。土地のオーナー様のご機嫌を損ねれば、当然「出ていけ」といわれる立場です。 もうひとつは、「町人」ですね。何かの職人とか、それこそご先祖さまが江戸市内に住んでいたら「フリーター町人」であった可能性もあります。フリーター町人というのはどういう立場なのかというと、口入屋という人のところに行って、「どうも、旦那。何かいい仕事はないですか?」と聞くとその口入屋の旦那から「そうだなあ、飴屋なんてのはどうだい?」といわれて、はいいいですよというと飴屋の商売道具一式を借りて飴を持って売り歩くのです。夏になったら暑いから風鈴売りになったりするのです。よく落語に出てくる八つあん熊さんてのはだいたいこのフリーター町人である場合が多いですね。 また、遡れているのは明治時代までですよね?そこから前の、つまり江戸時代にはどこかの藩の下級武士だったという可能性もありますね。明治維新の廃藩置県で武士を失業したというパターンです。 曾祖父が教師だったということは、結構目立つくらいに頭が良かったということだと思います。ご先祖が寺子屋でもやっていたのかもしれませんね。 大阪と東京を交互に行き来するのは、かなり距離があるところだったので全く縁もゆかりもなければそうそう行き来できるものではありません。なにか所以があってのことだと思いますが、それだけではなんともいえないですね。おそらく大阪と東京にそれぞれ親戚や友人知人がいたということなのでしょうけれどもね。
- cactus48
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興味があるとしても先祖代々の家系図を作ろうとされる努力に頭が下がる 思いです。大変でしょうが後々に残せる物ですから、十分に調べられ作成 して下さい。力にはなれませんが応援させて頂きます。 彼らは何をしていたか。昔は今と違って子沢山でしたよね。稀に10人も 子供が居る家庭もありますが、ほとんどは極端には多くないはずです。 田舎であれば農業を営んでいる方は多かったと思います。山沿いでは山林 業の方も多かったと思います。しかし農業や山林業だけでは全ての子供を 養う事は難しく、大きくなればなる程養えにくくなったはずです。だから 子供がある程度の年齢になったら、家族を助ける意味で出稼ぎに行ったり しますから、それで東京や大阪等に居住した形跡が残っているのではない かと思います。出稼ぎ以外だと長男以外は実家から出ますから、婿養子に 入るため東京や大阪に移住したとも考えられます。 農業や山林業や漁業だけでは子供を養えないため、故郷を捨てて東京大阪 等に移住されたとも考えられます。 農民であったかと言うのは調べないと分かりません。農民であったでしょ うかと聞かれても、質問者さんとは面識もなく親戚とも違いますので、こ こで質問されても答えようがありません。 質問者さん宅だけで調べるのは無理ですから、質問者さん宅の祖父の方が 長男以外であれば、祖父の方の長男の方の家(実家)を訪ねれば、もしか したらルーツに繋がるヒントは出て来るかも知れません。 質問者さんから数えて5代前の御先祖様まで調べると、主として農家を営 んでいたのか、どの程度の家族だったのかは分かると思います。 それさえ調べられれば、質問者さんの推測が間違いとか間違いではない事 が分かるでしょう。
- ithi
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mokabrw015 さん、こんにちは。 だから、名前忘れたけど、NHKの芸能人のルーツを探る番組って大変なんですよ。戸籍のない時代(幕末)から調べると、御寺の過去帳が頼りだそうです。ご両親からそいうこと聞いたことあります?
お礼
ありますね。「ファミリーヒストリー」とかいうやつですよね…? 母親が祖父や本家の人から聞いたことがある話では、「柳生但馬守の子孫」というのはよく聞いたことがあります。(どうやら祖父や本家の人も親から聞いたようです) ただ資料等は燃えてしまったらしく、確認が出来ないため、間違いの可能性はあるなー。と思ってますが…(苦笑)