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先祖がなにをしていたか
自分の先祖が、地主か自作農か小作かを知りたいのですがどうしたらいいのでしょう 知っていること 800年以上前に、今の地にやってきて開拓をした (近所の1200年前に始まった小さな神社に記録あり) 祖父母が言うには「大地主」だったらしい 父が言うには「豪農」だったらしい 母が祖母からきいたはなしだと、明治~大正時代には「村長」をしていた 母が祖父から聞いたはなしでは、江戸時代に庄屋をしていた 大戦後の農地改革で、根こそぎ没収され、土地は1割しか残らなかった。 その1割を曾祖父が亡き後に祖父の兄弟5人で5:1:1:1:1でわけ、さらに祖父亡きあと父の兄弟4人で5:1:1:1でわけた。 父が継いだ遺産を父の亡き後にわたしたち3姉妹が(母が離別しているので相続権あなし)が1:1:1でわけると、土地の価値を金に換算すると、ひとりあたり1億3000万ほどになる) 土地の面積はもともとは13丁で、農地改革の後1丁と少し わたしは子供の頃から、祖父母や両親の話を信じで、先祖は大地主だったと思っていました。でも最近祖父母の話が大ボラだったのではないか?と思うようになりました 理由をあげます ・小作をどれくらいやとっていたとか、そもそも小作をやとっていたという話をきいたことがない ・奉公人や下男、女中などを使っていたという話をきいたことがない ・長男である祖父が、小学校へもいけずに農作業をさせられていた(地主なら、農作業は小作にやらせて長男はそれこそ高等教育まで受けさせるのでは?) ・たとえ地主だったとしても10丁の土地は大地主とはいえないのでは? ・庄屋をしたいたというのは本当なのか? ・大地主をしていたというわりには、家がしょぼい(5DKの母屋と2K+トイレの離れ、母屋の3分の2ほどの大きさの2階建ての木造の蔵、12畳の物置があるでけで庭をあわせた敷地面積は150坪ほどしかない) 昔のことなんかどうでもいいじゃん、という声が聞こえてきそうですが とっても気になるんです。昔どうだったからどうだというわけではないのですが 興味本位でかなりかなり気になるんです。 なにか少しでも事実を知る方法はないでしょうか?
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- ichikawa2017
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>土地の面積はもともとは13丁で、農地改革の後1丁と少し 1946年(昭和21年)10月に成立した農地改革法で没収するのは (1)不在地主の小作地の全て (2)在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地 (3)所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等 でしたので1町歩と少し残ったということは(2)に該当するのかとおもいます。 >最近祖父母の話が大ボラだったのではないか? 大ボラという程のものではないでしょう。 一種のロマンと思って下さい。 >小作をどれくらいやとっていたとか、そもそも小作をやとっていたという話をきいたことがない 農地改革などの説明で「小作」という言葉がよく使われますが、耕作地の所有権を持たない人という意味であれば庄屋という言葉が使われていた江戸時代には二通りの形態がありました・ イメージとしては当時の小作人というのは地主の家の敷地内で暮らしていました。 もう一つの形態は耕作地の近くに自宅を持ち地主の家とは離れていました。 水呑百姓と呼ばれる人達です。 注)水呑というのは蔑称ではなく正式な階級名でした。 借りていたのは小作人ではなく水呑百姓と呼ばれていた人達でしょう。 であれば小作人をやとっていなかったとしても不思議はありません。 >奉公人や下男、女中などを使っていたという話をきいたことがない 江戸時代であれば下男、女中がいるのが当たり前でしたので話題にはならなかったと思います。 >たとえ地主だったとしても10丁の土地は大地主とはいえないのでは? 戦前の農地改革の直前に13町歩お持ちになられていたようですが、明治維新の際に所有地を減らした地主が沢山いましたので江戸時代にはどの程度の規模だったのかハッキリしません。 >家がしょぼい(5DKの母屋と2K+トイレの離れ、母屋の3分の2ほどの大きさの2階建ての木造の蔵、12畳の物置があるでけで庭をあわせた敷地面積は150坪ほどしかない) 筑後何年経っていますでしょうか? 江戸時代の屋敷ということになると少なくても150年前ということになりますが如何でしょうか。 母屋の他に台所や蔵、物置が設けられているのであれば明治以降であれば決してしょぼくはありません。 屋敷地として150坪であれば狭いとは言えません。 >なにか少しでも事実を知る方法はないでしょうか? お寺さんはどうでしょうか。 先祖代々の菩提寺があれば、過去帳というものを持っています。 檀家に今年は誰の何回忌だということを知らせるためには不可欠な帳簿です。 お寺さんにとっては大切な帳簿ですので丁寧にお願いしてみて下さい。 お宅だけではなく他の檀家さんのも同時に記入されていますので取り扱いは慎重にして下さい。 但し、旧漢字をくずしてありますので読み取るにはある程度の知識が必用です。 蛇足 江戸時代には税である年貢は村単位で課せられていました。 これを庄屋を頂点とする村役人という人達が村内のだれがどれだけ負担するかを決めて徴収していました。 この年貢を負担できる人を本百姓と呼んでいました。 本百姓以外の小作人や水呑百姓は負担していませんでした。 納めるのは米が基本でした。 明治政府はこの制度を廃止して村民個人個人に課税して現金で納めさせました。 この現金を手に入れるために農地の売買や農地を担保にして都会の人から借金することなどが盛んに行われ農村が荒廃して行きました。 広大な土地を持つ地主は多額の現金を調達することに苦しみ農地を切り売りするようになりました。 ヒョットすると庄屋まで務めた質問者さんのご先祖様はこの時期に農地を手放しなんとか残っていたのが13町歩だったという可能性があります。
- imagine225
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お仏壇の中に、ご先祖の名前と享年の記載のある小さい板の束はありませんか? また、お寺の過去帳や、その土地の古老や、住所地の図書館に出向いて郷土史を調べたらいかがでしょうか? 農地解放後、今でもそれだけの土地を保有しているのは、ご先祖様が土地を切り売りせずに大切に守り続けてきた賜物だと思います。
- qwezxcasd
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ある程度の地主(大地主)だったのでしょう。 小作人を使わなくて近くの人に田んぼを 貸していた場合もあります。 うちの本家は、加賀前田家の書付が残っていて 庄屋だったことは間違いありませんが 伝え聞くところでは小作人は使っていませんし 使用人がいたという話も聞きません。 (お手伝いさんくらいはいたかもしれないが) その田舎には、その本家の名前の 顕彰碑もありますし、神社・お寺の改修に 寄付した金額が残っています。 ただ貴女の先祖は大地主ではあるが 小作人を使って、自分は農作業をしない 豪農とは違うと思います。 地方の庄屋くらいですと 皆さんが考える大きな屋敷は 聞いたことがありません。 村長は可能性があります。 (ほとんど庄屋で 豪農の人がやったという話は聞かない)
- eroero4649
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地方の本家なら、檀家になっているお寺に記録があるはずですから、それを確認してみれば江戸時代くらいはどんな感じだったのかはわかるかもしれませんね。 ご先祖の名前が分れば、名士なら郷土史を遡ればどこかに誰かの名前が出てくるんじゃないかなと思います。
どれを信じるか?次第ですよね 「村長」をしていたのであれば、当時は小作人が村長などあり得ない気がしますので本百姓だし、それ以上の地主、豪農であったと思います また、10丁の土地は大地主だと思います お寺、神社等に何か寄付した跡があるかとかも参考になるでしょう 小作人が記録に残る寄付をするとは思えませんし、その当時に最大の寄付しているのが相談者さんの先祖なら流行り豪農であったと思われます ※鳥居とかに名前が彫ってあったりします
- kaitara1
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先祖の数は一代さかのぼるごとに2倍になります。仮にご両親の家系が大地主であるとすれば、祖父母の4つの家系すべて大地主の家系でなければなりません。その、先代は8,16,32となってきますから各代の1家系が大地主であることはあったかもしれませんが、ご先祖すべてが大地主ということはまずなかったと言えるのではないでしょうか。言い換えると誰でもご先祖が大地主であった確率はゼロではなかったと言う事になります。しかも現在赤の他人とお互い思っている人が共通の大地主であったご先祖を持っているという事にもなります。
お礼
ありがとうございます。
- seble
- ベストアンサー率27% (4041/14683)
知っている人に聞いて下さい。 土地の台帳など古文書がどこかに残っているかもしれません。読むのは難しいかもしれませんが、郷土史研究家などが知っているかもしれません。
お礼
ありがとうございます。
- tokohay
- ベストアンサー率10% (173/1580)
本家ですか
お礼
ありがとうございます。本家です。
お礼
>お寺、神社等に何か寄付した跡があるかとかも参考になるでしょう >※鳥居とかに名前が彫ってあったりします おもいつきませんでした、ありがとうございます。 たしか神社のどこぞかに名前が彫ってあったはずです。