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人間原理、時間論、存在論について
人間原理、時間論、存在論について 哲学的なことに興味があります。人間原理、時間論、存在論について詳しく、お手数ですがわかりやすく説明してくれる方がいましたらお願いします。
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- 雪中庵(@psytex)
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人間原理には、弱い人間原理と、強い人間原理があります。 弱い人間原理とは、宇宙の始まりにおいて、まず物理定数が 先入していたとすると、その値はどのように定められたのか? それを、「人間が生まれ、意識が生じるように予め定められた」 とする考えです。 この考えの一派には、それこそ神の決めたものだとする、 西欧のキリスト教的世界観があります。 それに対し強い人間原理は、「宇宙とは人間が認識する事で生じ ている、という唯心論的世界観が根底にあり、同じ「人間原理」 といっても、弱い人間原理とは全く異なる系統だと言えます。 ここから先は「わかりやすく」など説明できません。 ただ、発想のヒントになる現象を指摘する事はできます。 1.スリット実験 1個ずつ数えられる電子を、2つの並行したスリットを通して その先のスクリーンに1個ずつ飛ばします。 スリットの縁で散乱して、スクリーンにはランダムな痕跡を 残しますが、その集積は、平均して2本のスリットに対応した 2本線になるというのが、我々の日常的な感覚(素朴唯物論) の世界観の考えです。 しかし、その痕跡の集積は、干渉縞のシマ模様を描いてゆく のです。 それは、1個の電子が2つのスリットを同時に通り、その 2つが干渉し合っているか、さもなくば1個の電子が、その 前にスクリーンに消えた電子の痕跡を記憶していて、共同して 干渉縞を描いている事になります。 2.経路積分 複数の素粒子が相互作用して、別の複数の組み合せの素粒子 になる反応があるとします。その反応には複数の反応経路が ある場合、その反応が起きる確率は、複数の反応経路を全て 足し合わせた確率になるのです。 つまり、素粒子は全ての経路を経て、1つの結果を生じている のです。 3.不確定性原理の相補的不確定性 不確定性原理において、「ある存在の空間的な位置を確定し ようとすると、その運動量の不確定性は無限不確定に発散して しまう」「時点(時間的な位置)の確定性と、質量の確定性の 関係も同様」となっています。 この2対とは何でしょう? 「運動量(St)」とは、「位置(S)」の相対的な変化であり、 「質量(Ts)」とは、「時点(T)」の相対的な変化(時間軸的 運動量)なのです。 次に述べる「時間軸と空間軸の相補分化の止揚としての時空」 と「そこに於ける無の射影(仮想的時空を無に還元する)と しての量子(物理)」の産物なのです。 全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、 無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化= 物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、 認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説= 宇宙を認識するのです。 (不確定性無限の潜在たる認識可能性の光速での変移に対し、 無の闇は相対的に光の風となる) 即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮= 不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、 それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限 不確定的空間性が、超光速(過去=経験)と光速下(未来= 予測)に相補分化する受け皿となり、直交基底をなす事に よって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表 面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出して いるのです。 その非光速性は、本質的に光速に還元するもの(物質= 超弦=量子定常波=光速、認識=感受表面での量子相互作用 =光速)を、階層的な現象を表面的に捉える事で派生して いる虚像に他なりません。。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説) の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだ けどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。
- yuniko99
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人間原理の要点は まず生命と精神は別物という事です 人間とは精神の事であって 牛やミミズとは違うという事です。 勿論生命と精神は影響し合います だからゴッチャになって分けて考える習慣がないのです 脳死を考えるとわかります。 愛とか正義とか意義とか意味とか価値とか目的とか、人間原理がありますが すべて存在を求めるのが基本です。人間に限りませんが、物質も生物も存在をせめぎ合っています 人間は精神で進化するので、弱肉強食は必要ありません。 適度な競争があれば良いのです。急激な進化は危険です。時間はあるのです ゆっくり進化しましょう。 体調不良の為 次ですが 時間論 時間とはエネルギー・物質の変化の事です。変化しなければ時間も進みません。 存在論 存在とは個性ある性質を持ったエネルギー・物質 と定義しました 略せば 存在とは 個性あるエネルギー と言うのが単位です 個性あるエネルギー 酸素分子でも鉄でもタンパク質でもDNAでもミミズでも 亀でも馬でもメタセコイヤの木でも人間でも精神でも 全て個性あるエネルギーです。 光も音もそうです。 ちなみに精神は性質と同じ質です。精神は性質で出来ているのです。 またお会いしましょう。
- 岡部 憲ビンセント(@vincent1026)
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哲学に興味を持たれたとのこと、すてきです。 哲学の森へようこそ。ぜひお楽しみください。 時間論はカント、存在論はハイデガーと、 緻密に考察された議論が展開されています。 思考の訓練にもなりますし、世界の見方が 広がり深まりますので、解説本からでも チャレンジしてみてください。カントや ハイデガーの著作は緻密過ぎて難解です。 「時間」というものは人間の発明で、実際は 「現在」しか存在しませんので、どう説明しても 無理がありますし、 「存在」も根拠はなく、みなさん最後は ここに「ある」ってことに驚くしかないよね、 となりますが、 さまざまな人たちの試行錯誤、苦闘のあとを たどることは、世界の認識を深めるために とてもよいことだと思います。 と、質問者さんの求める答えになってない ことだけ書いてもよろしくないので、 プラトンの対話篇にある存在論の始まり的 問いかけをご紹介。 「われわれが『ある』という言葉でもって 一体なにを思い描いているのか、という問いの答を、 今日われわれは持っているだろうか? われわれは、いままでその答えを持っていると 思い込んでいたのに、今では全く心許なくなっている。」 世界って存在してますよね? 存在してると思ってますよね、もちろん。 その気持ちを「存在了解」といいます。 存在を了解している、わたしたち。 しかしいま見えてないモノがなくなっても わからないですから、あるかどうかは 思い込みではないかという疑問を払しょくできません。 この回答を書いているわたしは存在してますか? 「存在」を認識するのは「人間」ですから、 まず人間が「存在」を認識・了解するのは どういう仕組み、構造になっているか考えましょう。 といった風にどんどんどんどん考えていくのが 存在論です。 ・・・おもしろそう、と思ってもらえたらいいのですが・・・ 最近は科学的に明らかにしようとしていますが、 なかなかこれも難しく、無理があるかな、と。 細胞があって分子があって原子があって素粒子が・・・ いまや量子理論では存在があやふやになっています。 (シュレーディンガーの猫、という話をご参考に) 質問者さんが存在論にわけいる参考になればいいな、 と思いつつ投稿します。的外れならご容赦ください。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
あんまりテーマが大きすぎて、誰も回答する人がいないので、仕方なく、私から。 人間原理って何でしょうか? 人間を原理とすること? でも、哲学では、人間原理は最後に到達すべきもの、目標であって、哲学の初めにあるものではない、と思います。 たとえば、意識とか、感覚だとか、そういうものを考えて行き、最終的に人間に到達する。 人間は終着点で、始発点ではない。 カントも、何を知りうるか、何をなしえるか、何を望むことが出来るか、といろいろ考えて行き、最終的に、人間とは何か?という問いに到達する、と言っています。 認識論→道徳論→判断論・目的論→人間論、と。 次に時間論ですが、これには二つあります。 科学・物理学の時間、そして人間の時間です。 科学・物理学の時間は「位相」であって、直線的な時間軸上に事象が因果でつながっているものと考えるもの。 それに対して人間の時間は「過去・現在・未来」の「様相」としての時間です。 科学は「位相」、人間は「様相」ですから、共に時間は実在ではありません。 時間が「位相」という意味は、時間には何ら物質的なものは一切含まないということです。 そういう意味では中身は何もない、空っぽ。 空っぽだから、流れる物が何もない、時間は流れない、だから「位相」。 一方、時間が「様相」という意味は、人間がいてその人間から見て時間は「相」として、現れる、ということです。 過去は過ぎ去ったという「相」で、未來はまだやって来ないという「相」で。 だから聖アウグスティヌスのいうように時間はすべて現在です。 次に存在論について。 古代ギリシャから、「存在とは何か?」「なぜあるのであって、無いのではないのか?」ということが問われてきました。 この場合の存在とは、存在するもの(存在者・物)とは違って、存在するものが存在する理由・根拠のことです。 なぜ、存在するもの(存在者・物)が存在するのか、という。 それを存在論と言います。 でも、これは難問です。 なぜ、存在するのかと聞かれても、直ちには答えられない。 存在するんだから存在するんではないか、としか言えない。 西欧中世では、神が存在するもの(存在者・物)の存在する理由・根拠と考えられました。 神が世界を創造したんだから、神が世界の、存在するもの(存在者・物)の理由・根拠ではないか、と。 近世になって、神に対する信仰が衰えると、またふたたび分からなくなりました。 科学・物理学で説明しようという試みが始まりました。 存在論は難しいです。