哲学を多少とも齧った人間が答えると、確かにwikipediaのような
教科書的な答えになると思います。
間違っていないし、何も付け加えることもありません。
しかし、なぜそんなことを考えたのか?という問いに答えるのは、
質問されてみると、確かに難しいと思います。
私は、哲学は「外部」についての想像力が働かない限り、ほとんど
言われていることが無意味にしか思えない、と考えます。
「外部」とは、通常の自分の思考の届かないような何かのことです。
例えば、「私の死」。
死んだあとに何があるのか?死んだあとで、私の意識は、どうなっ
てしまうのだろうか?というようなこと。
あるいは「宇宙の始まりと終わり」。
子供の頃、誰もが一度は考えたことがあるはずです。全宇宙の始ま
りのその前は、いったい何があったのか? ビックバンなるものが
あったとしても、それより前には、いったい世界なるものは存在し
たのか、それとも無だったのか?
こういうことを、突き詰めて考えると、本当に気が狂いそうなくら
い難しいことのように思えてきます。
いや、私たちは、そうした問いを真剣に考える能力を、たいていは
失っています。日常の当たり前の世界に慣れきっていて、もはやそ
れを越えたような、あまりにスケールの大きな問いに対しては、思
考能力を失っていますから。
むしろ、まだ世界のことをよく知らない子供の方が、そうした「外部
についての想像力」を備えているでしょう。彼らは、まだ日常の世界
を当たり前のものとして学習していないですから。私も、子供の頃に
「世界の始めと終わり」について考えてみて、巨大な恐怖に襲われた
ことを覚えています(今はそんな想像力はない)。
簡単に言って、そのような「世界の限界」について考えていった結果、
辿りついた考え方が哲学であり、あるいは存在論である、といえるで
しょう。
例えば宗教や神話が、「初めに光があり、そして7日間で世界が生み
だされた」というようにして、世界の原初を説明していったのに対し
て、哲学は、そうした説明を、より論理的に、言葉を使って行おうと
した試みであった、といえると思います。
ですから、哲学の言葉は、「世界の限界」を考えるような極限的な
思考、巨大な想像力がないと、なかなか実感をもって理解できるも
ではないでしょう。それは、世界の終わりを実感するような何がし
かの「体験」がないと、理解できるものではないかもしれないです
ね。(言葉の上では、いくらでも追えるのですが)。
お礼
ありがとうございます.具体的な話が多くて面白そうです!早速注文しました.