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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:究極の認識論とは宇宙の存在を問うことではないのか)

究極の認識論とは宇宙の存在を問うことではないのか

このQ&Aのポイント
  • 認識論とは、存在について問いかける哲学のテーマであり、存在の確かさを疑う問いかけがされています。
  • 認識論は宇宙の存在を問うことに深く関わっており、この問いかけは哲学の根本的なテーマの一つです。
  • しかし、認識論には明確な結論が得られず、果てしなく続く議論が行われています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

>何らの結論も得られず果てしなく続くことになるのか。  もう続かないでしょう。結論は得られないという結論。あるいは存在確率となるか。    私の認識によればですが。

その他の回答 (3)

回答No.4

「物体が先にあり、その進化の結果としての脳に心が発生した」 と考えるか、「そうした物体とは、心の中の宇宙の部分だ」と考え るかの違いです。 先の唯物論的な考えの基盤である物理的な探求の果てに、 「存在=有限な確率的実体とは、認識(本質を確定しない、階層 現象表面的な経験的定性化)によって生じる」という、唯心論と 融合する事になったのです。 先入するのは、「外(空間的広がり=予測=未来)」でも「内(時間的 流れ=経験=過去)」でもなく、その相互作用(認識可能性=感受 表面=現在)からの仮想的(=階層現象表面的)対発生であり、 宇宙とは自己が存在するための(原理的根源にまで遡った) 必要として生じるのです。

回答No.3

存在論と認識論とが混在していますね。 いや、だからこそ、そういった疑問が生じるのだろうと思います。 存在と認識との知的な分離。。。 両者を切り離して考えようとするとき、どちらが先かなどと考えるときに、哲学的な存在論、認識論の問題が発生してしまう。。。 あえて存在論と認識論とが関るとするなら、宇宙の存在というよりも、量子力学での現象(二重スリット実験)になるでしょうね。 http://www.hitachi.co.jp/rd/portal/research/em/doubleslit.html 量子力学を理解しようとするときには、どうしても認識論・存在論を意識せざるを得ないでしょうから、狭義の哲学という領域にとどまらず、人類永遠の謎(広義の哲学「=知を愛する」)と理解したほうがいいかもしれません。

  • hekiyu
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回答No.2

これは、有名な、我思う故に我有り、ですね。 全てはバーチャルかも知れない。 それを証明するすべは無い。 しかし、そう考えている己の存在だけは確か だろう、てことです。 だから、宇宙は存在するか、というのではなく 己が存在するのか、ということが根本では 無いですか。 ”何がしかの意味をもつのか、またこれについて何か結論は生まれたのか、  何らの結論も得られず果てしなく続くことになるのか。”     ↑ そう考える己の存在は確かである、という結論が 得られたのではないですか。 もっとも、私はそう考える思考の存在が確かなだけで その主体の存在まで確かと言えるかは疑問に思っていますが。

soodann1
質問者

お礼

  >そう考える己の存在は確かである、という結論が 得られたのではないですか。 自己の存在が確かなものである事が分かれば、宇宙の存在は確かであると結論することが出来ましょう。 何故なら、宇宙の存在無くして自己は存在できないからである。 デカルトは「我思う故に我有り」により宇宙は存在すると宣言したのです。  

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