こんにちは。
西欧哲学史をやぶにらみしますと:
《ものごとがある。ひとがいる》という場合
○ 《存在するもの》と《存在そのもの》
とを分けて捉えるようです。そして 後者の《存在》は 前者の《存在者》のみなもとであると考えられているようです。
早く言えば 《存在》は 神のことです。
少しややこしいことには 《存在》を 《知覚によらず認識されるもの》というような規定をするばあいがあり この場合には 《認識》が 思考のもんだいであるのですから 《存在》が 経験事象として《存在するもの(ものごと)》にひとしいことにもなります。
これは 矛盾です。
神は 人間によって認識され得るのなら ただの概念であり観念であるとなりますから。そんなものは おもちゃの神です。想像の産物でしかない。
神は すでに結論づけるとしますと 《人間の思考や認識なる能力によっては――また感性によっても―― 知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ》を言います。
知り得たなら 先ほどの人間のつくったおもちゃの神です。知り得ないと知り得た場合は 《不可知》と言います。それは 経験事象に属します。
したがって 《存在論》という場合 ふたつの行き方があり得ます。
ひとつは 存在=神と見る行き方として けっきょく神学となる場合です。
ひとつは 存在=神なるナゾを《非知》として あとは 感性の原野と理性の緑野から成る《身と心なる人間存在(つまり この場合は 存在者のこと)》について 経験思考にもとづき人間・社会・世界を考え生きる哲学をすすめる場合です。
後者は 一般に《実存》思想と呼ばれます。《現実存在》のあり方を ひとりの人間としてその意志行為において そのつど――限りある判断材料にもとづきつつ――よき判断を成し実践するという行き方です。
(この場合 《想像の産物たるおもちゃの神を それは観念に過ぎないとして しりぞけているという利便があります。《実存は 本質に先行する》)。
★ 例えば「存在論的意識」というような表現がされた場合、どういう意味なのか
☆ ふつうは 《実存思想》のもとにそういった《意識――現実認識――》が捉えられると思います。
ただし 場合によっては 《非知》なる神について――それでも その神を受け容れたわが心なる非思考の庭から ヒラメキを得てのごとく―― ヒラメキをつうじて思考内容としても・つまりは神学が得られると想定するなら そのような神学からさらにふつうに経験合理性に合わせた思考内容というかたちにおいて(つまり 思想として) 存在論的意識が成り立つ。とも考えられて来ます。
けっきょくいづれの場合にも ほとんど同じ経験思想としての《存在論的意識》となって表わされます。つまり 中身がいかなるものであるにせよ 互いに同じ土俵の上での話し合いが成り立ちます。