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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸時代の本馬賃銭と荷物運搬人足賃銭の関係)

江戸時代の本馬賃銭と荷物運搬人足賃銭の関係

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の人馬継立には本馬・乗掛・軽尻・人足の4種がありました。
  • 本馬は荷物40貫、乗掛は人が乗り、荷物は20貫まで、軽尻は人が乗って荷物5貫まで、人足は荷物5貫まで運びました。
  • 賃銭は距離に応じており、本馬と乗掛は同一賃銭、軽尻はその3分の2、人足は本馬のおよそ半分が標準でした。

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

>そして賃銭は距離に応じたが 距離ではなく宿場の問屋場から問屋場の間として定められていました。 宿場間の距離は地形や歴史的な経緯でマチマチでした。 歴史解説書などでは面倒なので平均してだいたいこの程度の距離だから駄賃は距離当たりに換算するとこの程度になるとされているだけです。 1.ご質問の趣旨が良く分かりませんが、あくまでも荷主との契約次第でした。 むしろ、荷運び用に人足を一人雇えば目安としてこの程度の駄賃で、運ぶことができる重量はこの程度という目安です。 幕府の法令で定められてはいました。 2.つまり江戸時代は10貫以上の荷物運搬は殆どが本馬を利用した? ご質問の「殆ど」と言われる際の範囲が良く分かりません。 重量物の輸送の殆どと言うことになると、舟が殆どでした。 平田船と呼ばれる川船です。 積載量は4~6t→本馬換算(27頭~40頭相当)でした。 江戸時代には城下町はもとより主要な都市や農村には必ず水路が設けられていました。 この水路はその地域の主要河川に繋がっていました。 山間部などで水路の利用が期待できない地域では人か馬に頼らざるを得なかったということです。 逆ににいいますと、重量物の輸送を人馬に頼るというのは極めて限られた地域ということになります。 問屋場にはそれぞれのテリトリー(縄張り)が暗黙の了解で決められていました。 結果として、荷物は問屋場で積み替えることになっていました。 積み替えに時間を要しますので大量の重量物を輸送するのには人馬は効率が悪いということです。 舟であれば、中小の水路から主要河川に出た場所で大型船(高瀬舟)に積み替える程度で済みます。 参考 江戸時代の陸運と海運 - nifty homepage3.nifty.com/yoshihito/kaiun.htm 蛇足 10貫を越える荷物というのはどのような荷物をお考えでしょうか。 江戸時代は藩どうしの交易というのは極めて限られていました。 藩内で生産して藩内で消費するというのが大原則でした。 東国の藩が飢饉でも西国の藩が米を送るなどということはありませんでした。 極端な場合にはこちらの藩で大量の餓死者が出ても隣の藩では餓死者がゼロということもありました。 長岡藩の米百俵などという話は例外中の例外だったからこそ小説の題材になりました。 時代小説などでよく出てくる関八州と江戸との関係は全国的に見ますと極めて特異な地域でした。 江戸時代を議論する際の難しい点です。 藩を越えて輸送される物資は極めて高額な物が主体でした。 輸送中に盗まれたら困りますので、信用がおける人が必ず随伴していました。 結果として、信用のおける人が携行するという形が採られていて尻軽が使われました。 単に重量当たり安いということだけが目安にはなっていなかったということです。

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