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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸時代の歴史  )

江戸時代の歴史

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の歴史についての要約文です。
  • 我が家の記録には、江戸時代の水口町水口柳町の人物についての記述があります。
  • 特に水口宿問屋用掛について詳しく知りたいです。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、大変立派な家系にお生まれですね。 うらやましい・・・。 >>水口宿問屋用掛 の問屋用掛あるいは、問屋御用掛とは、どうゆうものなのでしょうか?? 水口宿は、東海道の50番目の宿場町ですね。 「問屋用掛」とは、「元締め」に次ぐ職で、「問屋」と名乗る家々の総まとめ役で、「受注」「発注」「金銭管理」「上納金の割り当てや取立て」。はては、問屋同士の「喧嘩の仲裁」など、極端に言えば「代官」に替わる位の権限を有していました。 >>その誠実な勤務ぶりによって肝煎役に推された。常に諸藩の往来、宿泊、荷物の逓伝などについて精励した。 現代のように「汚職」もせずに、立派にその役目を果たしたので、「肝煎役」・・・つまり、宿場全体の管理を任された・・・と、言うことです。 「肝煎役」とは、NO1.の方の言われるように、「掛り(=係)」のことですが、江戸時代には、参勤交代で宿泊を希望する「藩」の道中奉行などと共に「本陣」「脇本陣」の手配などや必要な品々の調達などを一手にまかされる、いわば、宿場町を代表する役目です。 >>明治元年天皇の御東幸の折、日常の忠勤ぶりを賞され、褒美として金五百匹を賜った。 従って、明治天皇が宿泊されたかどうかは分かりませんが、例えば、通過するだけであったとしても、街道の草刈や道路の補修、橋の修繕等々、また、天皇が通過する際は、人々が上から見下ろしてはいけないため、家々の二階では、雨戸を閉める。また、子どもの泣き声などもあってはいけない。このような手配に万事手抜かりなく、気持ちよく通過することができた。・・・それに対する「褒美」だったのでしょうね。 また、宿泊をされたとすれば、上記の手配の他、宿の畳の入れ替え、天皇の好みの家具や調度品を揃える。食される好みに合わせての食材の調達、また、おもしろい話?としては、天皇が宿泊される場合は、寝所の畳の上に「真綿」を一面に敷き詰めて床をとりました。これは、床下から槍などで突かれてもクッションの役目をしました。 こうした手配をするための朝廷側との打ち合わせ役だったのだと思います。 また、ただ単に「庄屋」と言うだけではなく、宿場全体を取り仕切るのですから、それ相応の「人望」もあった、と言うことです。 話は少しズレますが、 忠臣蔵で有名な吉良上野介が「高家筆頭」(高家肝煎り)でしたよね。つまり、朝廷の仕来りに精通していて、将軍家との橋渡し役でした。

その他の回答 (3)

  • Pinhole-09
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回答No.4

No.2です。 「日本歴史大辞典」によると問屋(といや)は、宿場で参勤交代などの大名行列の、宿、人足、馬の手配や荷物運送の手伝いをする役とあります。 こちらが主たる仕事で、先答はもっと古い時代の役でした。 費用は宿場で徴収した金で賄うとあります。

  • Pinhole-09
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回答No.2

問屋(とひや)御用掛は宿駅で、旅人の馬や駕籠の乗り換えの世話をする掛りで、 商品を扱う今の問屋(とんや)ではありません。 本業の傍らお上の指示で、今でいうボランティアにも努めた篤志家ですね。 庄屋に出世するのも当然でしょう。

回答No.1

水口町水口にある柳町の人。家号を阿波屋といい、塗師屋(塗り物をする職人)を業としていた。若い時より水口宿問屋用掛(水口にある問屋の御用係り/掛は今なら係りです)を務め、その誠実な勤務ぶりによって肝煎役(肝入とも記し、諸事の世話や管理・監督をする者。またはその職名。江戸時代・庄屋・名主の別称ですら、この場合は名主かと思います)に推された。常に諸藩の往来、宿泊、荷物の逓伝(運送や保管)などについて精励(一生懸命働いた)した。明治元年天皇の御東幸の折、日常の忠勤ぶりを賞され、褒美として金五百匹を賜った。維新廃役後名を源七と改め家業に親しんでいたが、明治十七年二月四日七十三才を以て歿(ぼっ)(逝去)した。 私も専門家ではありませんが、水口宿問屋用掛(水口にある問屋の御用係り/掛は今なら係りです)ここは正解だと思います。

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