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江戸時代 天下泰平の270年とは何だったの?

江戸時代には政治において様々な政策がとられました。鎖国、身分制度(士農工商と呼ばれる階級制)、武家諸法度、参勤交代等々挙げればきりがありません。 僕が疑問に思うのが、上記の政策は日本人の視点から日本を治めるものではないのでは?ということです。 まあ、鎖国は「出島で交流してたよね」という観点からではなく、「専守防衛」という解釈でお願いします。 身分制度により国民の力を分散させ、参勤交代によって(国内の)大名がある水準以上の力を蓄えることを制限し、鎖国により専守防衛を宣言する。 さて、質問なのですが、江戸時代とは日本が西洋による植民地と化した最初の時代ではないのですか? どなたか教えて下さい。

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noname#209756
noname#209756
回答No.6

アジアでは中国が中心で展開しました。足利義満などです。でも江戸時代というのは西洋でも宮廷はありますが、その後の形態というのはアジアらいいかもしれません。鎖国というのは中国、朝鮮もとっていたと思います。儒教的進化で西洋とは違います。

ll800k
質問者

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ご回答ありがとうございました。 >鎖国というのは中国、朝鮮もとっていたと思います。 そうなんですか!!!! このご意見は僕にとってすごく重要なものです。ありがとうございました。

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  • cyototu
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回答No.5

#1です。 >日本は島国ですが、だからといってそんなにも簡単に絶海の孤島ばりに独自性を保てるのでしょうか? 外界より比較的に孤立していれば、他にはない独自な文化や形態が維持できるのは自然なことですね。もちろん、だからと言ってその独自な文化が他と比べて優れているとは限りませんが、それでもこの世界を多様で豊な物にしてくれていることには間違いがありません。そもそも文化とか存在形態は、どちらが優れているかという比較は、トンボよりチョウチョウの方が優れているの、いないのと言うぐらい、余り意味のない比較です。 人間の歴史では、例えばイギリスが良い例です。日本海よりも遥かに横切るのが簡単なドーバー海峡でも、ドイツ軍の侵攻を妨げる事が出来ましたね。もっと古い時代ではなおさら難しかったのですから、未だにイギリスの文化は他のヨーロッパとは一線を画しており、イギリスポンドを使いEUのユーロを使うことを拒否しています。神風によって元寇から救われた日本は、外国からの支配を免れ独自の文化を発展させることが出来ましたね。生物の世界を見ても、マダガスカルやオーストラリアの孤立は、生物の世界を多様にしてくれていますね。 物の発展に対して孤立が如何に重要かと言う他の例は、近年に発見されたある種の魚なのだそうです。詳しいことは知らないのですが、ある孤立した内陸の湖で、メダカ大の、日本ではトミヨと呼ばれる魚の一種が生物学的な年代スケールから見ると想像を絶する位速い速度で進化を遂げているのが見付かったそうです。この湖には何処からも川が流れ込んでいないとか。数学の統計学をやるとすぐわかるのですが、集団の大きさが大きくなる程、互いに揺らぎを押さえ込んでしまうため、相対的な揺らぎが小さくなります。この孤立した湖では,その揺らぎを押さえ込む力が殆ど働かないので、どんどん揺らぎが増幅して新しい種へと進化しているそうです。 話は違いますが、このことから生産的な研究所を作るためには、優秀な科学者を一堂に集めた巨大な研究所を作っては行けないのだそうです。事実、ドイツのマックス・プランク研究所とう有名な研究所では、ドイツ各地に小さな単位の研究所を分散させて一杯作り、科学者を適当に孤立させて来たために、その研究所から輩出したノーベル賞受賞者の数を、それにつぎ込んだ予算で割った値の世界記録を持っているそうです。その反対に、巨大な研究所や研究学園都市を作ってしまったために大して成果が挙げていない例は、文部省肝いりで作った大阪、京都、奈良の境にまたがったケイハンナ学園都市とか、筑波学園都市、また、お金に物を言わせて世界中の一流どころを集めて作ったゼネラルモータース研究所があります。一流どころが互いのアイデアを潰し合っているので、中々成果が上がらないそうです。 私が最近憂いているのは、インターネットなどでグローバル化が進み、世界中の情報があっという間に届くようになってしまったので、皆が適度に孤立できなくなってしまったことです。生物を見ても、進化とは統一化の方向に進でいるのではなくて、その反対に特殊な個性を持つものを生み出す、特殊化あるは地方化に進むことなのです。アメリカに住んだことのある人なら誰でも驚かされるのですが、アメリカ人の保守的で文化の多様性のなさは特筆に値します。価値観の尺度は一つしかなく、それはお金だけです。彼等は日本やヨーロッパのように、霞を食って生きているような人間の価値を理解することが出来ません。教会の坊さんでも、日本の乞食坊主のような高僧は理解できず、高級乗用車に乗り回さなくては皆から尊敬されません。このような世界観は経験の浅い若者には判りやすい世界観なので、世界中がアメリカと同じ文化や価値観を持つように統一退化されて来ており、多様化を失いつつあるように見えるので、心配しております。 >日本の国土からのみご回答にあるような制度・思想は誕生可能だったのでしょうか? 前にも書きましたが、封建制度が安定して存在する条件は厳しいので、この制度は例外に属し、特別な幸運がなかったら一般には中央集権制度に移行してしまいます。事実、平清盛の失敗に学習した頼朝にとって、周りの国は参考になりませんでした。何故なら皆、中央集権制度だったからです。ですから、日本の封建制度は外国から教わったのではなく、日本人が独自に見つけ出して来た世界に誇るべき制度です。 私は、この長い歴史の中で一度だけ、日本もその他大勢の中央集権制度へと移行しかねない危機が在ったと思っております。それは信長の出現です。彼が健在だったら、ドングリの背比べ状態を破って、絶対的な権力のもとに天皇制を廃止して、中国や何処の国でもあるように、自分が皇帝に伸し上がったのではないか。そうしたら、日本の近代は大変遅れたものになってしまったのではないか。幸運にも、信長が暗殺されたために、政治的実権のない天皇を象徴として遺し、天皇から政治権力をお預かりすると言う、素晴らしい制度を未だに遺すことが出来たのではないかと思っております。 もともと、平等の概念を正当化するのに、はっきりした根拠が在るわけでは在りません。その証拠に、西洋では平等の根拠を、神の下での平等という、わけの判らない神を引っ張り出さなくては、説明が出来ないのですから。実は、日本では神の代わりに天皇を別格として雲の上に持ち上げてしまい、その天皇の下では将軍と言えども一介の私人であるという、何処の国にも無いような平等意識を作り上げて来ました。そのような平等意識がなかったら、明治維新への移行を「大政奉還」という殆ど無血で行われるようなことは不可能だったはずです。 また、この幕府制度という封建制度は、軍事国家制度でした。そのことが、江戸末期から明治の開国で西洋の列強から身を守るためにどれだけ幸運だったことでしょう。侍という軍人は、軍事の恐ろしさを十分体得していたからです。それと比べると、その当時の朝鮮は、シビリアンコントロールの行き届いた中央集権と言う官僚制度だったために、軍事の重要性を認識できず、日本という列強に一気に併呑されてしまったのです。 このように、日本人は孤立化によって、平等の概念とか、私有財産性の概念とか、軍事国家故に技術を大切にするなど、世界に一目置かれるような幾つもの概念を独自に生み出して来た歴史を持っております。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!!!!!!!!!!!!!!!!! >世界中がアメリカと同じ文化や価値観を持つように統一退化されて来ており、多様化を失いつつあるように 近い将来、何か変化が起きるのでしょうか。(種としての) >それと比べると、その当時の朝鮮は、シビリアンコントロール 今と逆ですね。 cyototu さんの貴重なお時間を使って頂きまして、ありがとうございました!!

  • hurasuke
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回答No.4

 返答ありがとうございました。 >そこでふと、思うのですが、約270年もの永きに渡って、国力を増強し海外派兵をしようという野心家が現れなかったのは奇跡ですか?  私としては、海外に攻め込もうという思想自体がおかしなものに思うのです。他国を侵略して自国の利益のみを追求するエゴイズムというのは、ヨーロッパ文化の悪しきところです。  以後私の見解ですが、日本でそれを最初にやろうと思ったのは信長でした。没後、秀吉が全国統一したことで戦乱が収束し、需要供給が壊れて不景気になり・・・更なる戦争によって景気回復をもくろんだ石田三成と信長の野望を継続しようとした秀吉によって、朝鮮出兵となったわけです。  徳川幕府は、徳川家が戦争に疲れていたのも事実でしょうが、時代が戦争に疲れていたことを考えて、鎖国・平和政策を実施したと考えられます。  以後、明治になるまで戦争を仕掛けることはありませんでした。開国の頃になると、ヨーロッパ諸国が植民地を広げるというエゴに支配される中、安寧な生活を破られると思った日本は、日本・朝鮮・中国で一致して対抗しなければならないと考え始め、それが日本がアジアを導いて西欧列強諸国と肩を並べることで、自国の平和が成り立つと考えるようになり、次第にそれを言い訳にして朝鮮・中国に留まらず、太平洋諸国を侵略し植民地支配するようになったと私は考えます。  侵略する側に立てば「防衛できない方が悪い」と言えるでしょうが、侵略される側に立てば、どんな理由も罪悪にしか感じられません。日本だけでなくアジア諸国は、原則的に他国を支配・侵略しようという思想は持ちません。それをするのはヨーロッパ諸国とアメリカです。悪い部分を見習う必要はなかったと思います。  さて(笑)困ったことに・・・こう自分の意見を述べてきて、あなたの仮説が入り込む余地がないのです。どうしましょうか(笑)?また何かあれば返すかも知れません。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 そうですね。確かに、僕の仮説が入り込む余地はありませんね。たいへん参考になりました(笑)。

  • jamiru
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回答No.3

世界地図を見れば分かると思いますが、西の文明はローマ。東の文明は中国。間にインド、メソポタミア、エジプト。 この両者を結ぶベルト地帯が世界です。 学術的発展に欠かせないのは、世界から隔絶された地域ですよ。 自由な創造と発想に必要なものと邪魔なものを考えれば分かると思います。 大企業よりも小さな企業が何故自由な創造と発想ができるのか?

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 なるほど!  他の方のご回答で「宗教分離」が重要なのかと、うなずいていたのですが、「隔絶」も重要なのですね。「隔絶」とは、江戸時代の日本そのものですね。和算も「隔絶」の賜物ということですね。

  • hurasuke
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回答No.2

 歴史年表を反対側から解釈されていませんか?  江戸時代の天下泰平とは、足利幕府の失敗によって長く続いた戦乱をいかに収束させるかであったと思います。いかにして中央集権が確立できるかに平和がかかっていると考えたからこそ、徳川以外の者が力を持たないように制限したのでしょう。  西洋による植民地化とおっしゃいますが、どの国でしょうか?何か材料がないことには、ご意見に説得力がないのです。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。当時の指導者は戦乱の世にうんざりして、平和な世の中を求めていたんですね。なるほど、そういう考え方は参考になりますね。やはり、色々な方の意見を聞くというのは勉強になりますね。 そこでふと、思うのですが、約270年もの永きに渡って、国力を増強し海外派兵をしようという野心家が現れなかったのは奇跡ですか?それとも、朝鮮出兵の後、不可侵条約でも結んでいたのでしょうか?はたまた、システム上それを防いでいたのでしょうか?妄想は尽きません。 どの国でしょうか(笑)? もし僕が何か材料を持っていたらと、妄想にふける日々です。

  • cyototu
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回答No.1

この270年はその後日本が世界で尊敬される状況を作り上げてくれたという意味で、良い意味で決定的な時期だったと思います。そして、このような鎖国で世界に類を見ない高度な世界観の独自の発展を遂げられたのは、日本海という荒海が在ったという偶然が大変に重要だったと思います。 人類の歴史を振り返ってみると、ここ2千年の歴史では何処の国でも圧倒的に中央集権制度でやって来ました。ところが、その制度とは全然違った原理で動く封建制度という例外中の例外の制度を採用した地域が、ここ2千年では世界には2カ所だけでありました。西欧の中世と日本の鎌倉以降江戸時代です。そして、この2カ所だが、近代産業革命をスムーズにやり遂げ、世界的に軍事ないし経済的な覇を握って来たのは、偶然ではありません。 今から千五百年程前に大和朝廷が圧倒的な力で権力を握り、早速支配制度をその当時の超文明国の中国から学びましたが、それはもちろん中央集権制度でした。この制度には一国にたった一人の王、即ち皇帝がいて、その名代としての官僚,即ち貴族が国を司る制度です。ですから,中央集権制度では全ての国民は国王に直接に属します。その制度で日本は5百年程の実験をした結果、どうしてもその制度が日本には馴染まないことに気付きました。ところが、日本の周りの先進国は全て中央集権制度でやっています。そこで、源頼朝は外国に教わるでもなく独自の封建制度を作り上げました。日本ではそれを幕府制度と呼んでいます。この制度が出来る為の条件は,国の中に圧倒的な覇者が存在せず、皆がドングリの背比べのような状況で起こります。そこで、大名などの地方の豪族達の合意のもとで、王の王を指名し、それに国全体を任せる制度です。日本ではその王の王を将軍と呼んでいます。この制度では、国民は各豪族に属し、王の王には直接属しておりません。もしある王が圧倒的に強い権力を持っていたら、こんな複雑な制度にせず、いきなり国民を支配する中央集権制度にすれば良かったはずです。ところが、例えば徳川家と言えども高々八百万石ですから、もし全ての外様大名が束になってしまったら敵わないわけです。似たような事は中世の西欧にも起こりました。そこで、形式的にローマ法王や西ローマ帝国の皇帝を王の王と認め、実質的には各豪族が支配する封建制度を発展させたのです。 そのような封建制度下では常に隣国との摩擦による緊張感があり、各豪族や藩は生き残りのための工夫をしざるを得ず、従って合理的にならざるを得ない状況に置いこめられてしまいます。所謂競争の原理が働くわけです。ですから、人類の歴史を振り返ってみると、社会や技術の発展の重要な物は殆ど中央集権制度下ではなく、封建制度下で成されています。例えば、西欧と日本ばかりでなく、中国でも秦の始皇帝が出て、中国を中央集権化する以前の2千5百年前は戦国時代と呼ばれる封建制度でした。そして、ほとんどの中国の偉大な思想家や哲学者はその封建時代に輩出しております。その後の中国では、哲学の改良は在っても、本質的に新しい思想は生まれて来ては居りません。 また封建制度下では、少なくとも各豪族には自分の物だと主張できる土地が在りますから、資本主義の発達に本質的に重要な私有財産性という概念を発達させます。これは、全ての土地が皇帝一人だけに属する中央集権制度では無理です。事実、どの国でも私有財産性が重要だと気付いた民族はそれを憲法の中に成文化する物ですが、人類の歴史の中でそれを最初に成文化したのは、鎌倉時代の貞永式目だそうです。その中で私有財産の保証を「本領安堵」という言葉で表現しています。 このように封建制度はその後の産業革命や資本主義革命を遂行するために本質的に重要だったのですが、西欧と日本以外ではその制度を取らずに中央集権制度でやって来てしまったので、近代化に大変手間取ってしまったわけです。 更に日本に取って幸運だったのは、鎖国が在ったたことです。現在の自然科学の進歩で明らかにされている事ですが、物を発展させるためには2つの条件を満たしていなくてはなりません。一つは、上に挙げた生き残りの為の競争による緊張感の存在が必要です。もう一つは、ある新しいアイデアが出て来た時に、それが十分育つ前に叩き潰されないように、そのアイデアが育ち切るまである程度孤立させる環境が必要なのです。どんなに素晴らしいアイデアや制度でも、それが生まれて来た直後は大変未熟で粗ばかりが目立ちます。そこで、既存の勢力がその新しいアイデアを必ず潰しにかかります。将来横綱に成れる赤ん坊の腕を捻るようなものです。日本は日本海と言う荒海に隔てられていたお陰で鎖国が簡単にでき、そのために世界にも類を見ない技術や制度や世界観を、隣国から叩き潰されることなく高度に発展させることが出来ました。 『徳川時代の宗教』(岩波文庫) (文庫), R.N.ベラー (著), 池田 昭 (翻訳) は参考になる本ですので、是非読むことをお薦めします。ベラーは、西欧の資本主義革命の達成には、プロテスタントによって培われた世界観や倫理観が本質的であり、だからこそ、西欧のみでこの資本主義革命が可能になったと言う、 マックス・ヴェーバーの主張の反論しております。そして、何故日本はプロテスタントの影響を受けずに近代革命をやってのけることが出来たのかを克明に論じており、その中で石田梅岩によって始められた石門心学と呼ばれる江戸時代の民間哲学がどれだけ重要であったかを論証しております。 因に、石門心学の一派の鎌田柳弘の『心学奥の桟』や山片蟠桃の『夢の代』では、ダーウインよりも50年以上も前に、自然淘汰の原理に基づく進化論を展開しております。 以上、江戸時代の鎖国は、日本の文化を、その他大勢の何処にでも在る文化ではなく、独自の文化を創ることによって世界でも一目置かれている国に仕立て上げてくれたと言う理由で、日本人に取って無くてはならない財産を作り上げてくれました。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。やはり、専門知識をお持ちの方の意見をお伺いするということは、たいへん勉強になりますね。 そんな cyototu さんにお聞きしたいのですが、(日本史と世界史は不可分という前提で)日本は島国ですが、だからといってそんなにも簡単に絶海の孤島ばりに独自性を保てるのでしょうか?日本の国土からのみご回答にあるような制度・思想は誕生可能だったのでしょうか? お時間がございましたら、ご回答よろしくお願いします。

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