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江戸時代の山伏の旅
江戸時代に全国を歩いた山伏、泉光院という人の旅日記を読んでいるのですが、当時の山伏達は、このように全国を回る際、だいたい何キロくらいの荷物を背負って旅をしていたのでしょうか?
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はい。 私も史料等で読んでみて「驚き」としか言いようがありませんでした。 ある史料では、「約10貫目」と出ていますので、 1貫目≒3.75kg 10貫目≒30~40kg ということになりますね。 しかし、まあ、例えばエベレストの登山などでも登山家は約30kgの荷や酸素ボンベなどを背負って登頂に向かう・・・とも聞きました。 現在でも、「阿闍梨」と呼ばれるような方々は、自らに「負荷」をかけることで「仏」の境地に達すると言われており、今なお「千日回峰」「断食行」だとかの苦行をしておられるようですね。 昔の僧侶や山伏なども自らを極限状態に追い込むことで「悟り」を開いたのでしょうね。 1日30~60km・・・通常は、4km≒1時間と言われていますので、 1日8時間歩き通しでやっと30km。速足で60km。 これも、何も考えず、ただひたすらに地面だけを見て歩き続けたのでしょうね。 私にはとてもできません。 従って、死して後は「地獄」かもしれませんね。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ★まずは、回答から先に述べますと、およそ30kgと言われています。 ★山伏が背負う篭を「笈」(おい)と呼びました。 ★笈には、2種類あり「箱笈」(はこおい)と「縁笈」(えんおい)とがありました。 ★「箱笈」は、箱に背負うための肩帯が直接付けられていました。 ★「縁笈」は、肩帯に藁(わら)で出来た「背当て」が付いており、箱だけを着脱出来るようになっていました。 ★「縁笈」は「箱笈」に比べて、着脱も簡単で若干背負いやすくできていました。 ★長旅をする場合は、背中のこすれ、などを軽減するために「縁笈」が一般的でした。 ★この「縁笈」の中には、着替えなどはもちろんのこと、不動明王の本尊、法具、法衣、経本、などを入れていましたが、「旅」=「修験」でもありましたので、ある程度の「重さ」を背負うことも修験の一つでもあり、記録によれば、わざわざ、単なる「石」を負荷的に入れて、約30kgになるようにして背負って歩いた(旅をした)とも言われています。
お礼
いやー、本当ですか。それは、驚きました。何故なら、彼らは、普通、1日30キロメートル、長くて60キロメートルも歩いたらしいからです。30キロのものを担いで60キロメートルを歩く… これは、現在の自衛隊最強部隊と言われる習志野の空挺部隊の隊員でも、ちょっと難しいのでは、と思ってしまいます。何故なら、彼ら山伏は、翌日も歩いたのではないかと思うからです。しかも、泉光院は、当時、50歳をゆうに過ぎた、当時の感覚では老人の部類に入る年齢の山伏です。いやはや、驚きました。当時の日本人の旅は、自分の足だけが頼りとはいえ、江戸浅草の人間が京都の北端、丹後半島まで歩いたり、兎に角、淡々とした日記であるだけに、余計に驚きが増しました。本当に凄いですね、としか言い様がありません。いや、驚きました。昔の武者が体は現在より小ぶりでも、相当、強かったであろうというのかわかりました。ありがとうございました。大変、参考になりました。
お礼
なるほど。回国は、山伏にとっては修行だったんですね。それで、“多少”は納得できました。ありがとうございました。