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【瞑想は深呼吸をしたら出来るとネットで見ましたが】

【瞑想は深呼吸をしたら出来るとネットで見ましたが】瞑想=何も考えないって誰が言い出したんですか? 瞑想って座禅の1つですよね? 座禅って宗派によって違って、何も考えないことを座禅とするのは曹洞宗なだけであって、瞑想=何も考えないって考えるのは短絡的では? 逆に座禅をして考え抜く臨済宗とかありますよね? だから、瞑想=何も考えない=深呼吸すれば瞑想が出来るって違う気がします。 確かに深呼吸すれば考えられなくなる。これは裏ワザで良いが、なんか瞑想=何も考えないと思われているのがしっくり来ないんですよね。

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回答No.2

 はじめまして。  私は高校が臨済宗の某宗派の本山が作った高校を出ています。ですので、授業の中に(週1コマだけですが)宗教の時間がありました。法話の回と座禅の回が交互に行われました。  まず「瞑想」とは何ぞやっていう問題がありますね。西洋風の「メディテーション」の概念ともごっちゃになっていて、この言葉から思い浮かべるものがみんな同じものか、と言われたら違うような気がします。  臨済宗の座禅が考え抜くというのも少し誤解があると思います。臨済宗の座禅でも考えることはやめろと言われますよ。そのための第一歩として呼吸をゆっくりにしてその呼吸を10づつ数える、つまり10まで行ったらまた1に戻るという形で数えるように指導されます。これを「数息観」と言います。  私は西洋人ではないのでなんとも言えないところなのですが、西洋人の言う「メディテーション」は自分の体にインプットされる刺激をできるだけ無視してみて、思い込みをひとつづつ排除し、最後に残る「生の自分」に到達することが目標のように思えます。つまり、何にも影響されないあるがままの自分というものがあることが前提です。  一方で仏教というのはそういうものこそ思い込みだという教えなので本当は相容れないんですよね。  あと、禅宗の3つも、そんなにわかりやすく違うわけではありません。臨済宗の学校でしたが、他の2宗派からも宗教の先生が来ていましたよ。  瞑想という言葉に何を求めておられるのかわかりませんが、西洋式にやりたければ、むしろ自分の考えていることの「正しさ」がどこから来ているのか、何によって裏打ちされているのか、むしろ徹底的に考えた方が近づくことが容易だと思います。  そこに意義を見出せなかったら、今度は数学をやってみることをおすすめします。数学というのはどこまで行っても、我々が「こうあって欲しい」と思うようなことを一切無視して自ずから然る=自然、です。人間の策略など入り込む余地などなくサインコサインタンジェントです。人間が滅亡しても、数学の法則が変わることはおそらくないでしょう。その力強さの前では、哲学など「小賢しい」ですよ。  ここまで行けたらまた哲学に戻れば、禅宗の言う「豁然大悟」もわかると思います。

japanway
質問者

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みなさん回答ありがとうございます 数息観は座禅前にするのでは?座禅中にするの?

その他の回答 (1)

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.1

すでに申し上げておりますが、私は若いとき、鎌倉の禅宗寺院で、禅の修行をしたことがあります。 まず、禅は「瞑想法」ではありません。 間違えないように。 曹洞宗だろうと臨済宗だろうと同じです。 曹洞宗と臨済宗の違いは、「公案」を用いるか、用いないかの違いです。 「公案」というのをご存知ですか? 禅の問題です。 たとえば、趙州「無字の公案」では、姿・形のない文字を見て来なさい、という問題です。 それが解けたら、「悟り」です。 曹洞宗では「只管打坐」と言って、「公案」を用いず、ただ、座るだけです。 だから曹洞宗では「悟り」を求めません。 そして禅は「無念無想」を目指します。 でも「無念無想」はできません。 人間というのは、必ず何かを想ってしまうものなんです。 だから、自分の想念に捉われないようにする、それが精いっぱいです。 何も考えないようにするなんて、そんなことはできません。 「無念無想」とは何も考えないのではなく、考えに捉われないことです。 実際に禅宗寺院に行って、座禅すれば分かります。

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