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信長が美濃を取ったあとから急に拡大したのは何故

信長が美濃を取ったあとから急に領土がどんどん広がっていったのはなんででしょう? 美濃をとるまで何年もかかってるのに美濃をとってからどんどん拡大していきます。

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  • eroero4649
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回答No.3

信長が斉藤家と戦っていたときは双方の勢力が拮抗していたので一進一退が続いたわけですが、信長が斉藤家を滅ぼして美濃を手に入れて実質的に二か国の領主となったときに、同じ程度の勢力を持つ戦国大名が隣接していなかったというのが大きかったと思います。 信長が美濃を手に入れたときに隣接していた勢力は、東に武田信玄、南に北畠、西は江北に浅井家、江南に六角家といった感じですね。そのうち最大勢力である武田家は木曽路を通じての接触になり、これは大軍の通過ができない裏ルートで、信長にとっても信玄にとってもこのルートを通じての軍事拡張は全く採算が合いません。伊勢には北畠がいますがその支配体制は弱くて、実際に織田軍はサクサクとこの方面で勢力を拡大します。江北の浅井家が最大勢力ですが、ここに例のお市の方を入れて味方としましたので、あとは江南の六角家くらいですがここも支配力は北畠家と同じようなレベルなので美濃尾張の動員兵力を持つ信長の敵ではありませんでした。また当時の近畿地方が地侍によって細かく支配されていたので協力に敵対する勢力はありませんでした。それで信長は一気に近畿地方最大の勢力圏を持つにいたったのです。 しかし、元亀元年の朝倉出兵失敗からの第一次信長包囲網に対して信長は内戦の利を使いながらも生涯最大の大苦戦を強いられます。それは「近畿の支配体制が余りにも名目上に過ぎなかったから」です。 朝倉出兵時点での信長の勢力圏は、美濃尾張に加えて、伊勢の北半分、江南、山城(京都)から摂津(大阪)にかけてと大和と非常に広大です。しかし、そのうち信長の直接支配の勢力というのは実質的に美濃尾張だけでした。伊勢はご存知ゾンビ軍団一向門徒の勢力が大きく、山城から摂津、大和の辺りはそこの地元勢力が信長に頭を下げているにすぎず、直接支配はできませんでした。だからこの地域は上杉謙信の関東出兵に似ていて、信長が兵を率いて進出してくるとみな従いますが、撤退すると反信長勢力につくという不安定なオセロ状態でした。動員できる総兵力は反信長勢力を圧倒していましたが、そのうちに「動かせる兵力」となると意外にそれほどでもなかったのです。

その他の回答 (6)

  • jkpawapuro
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回答No.7

基本的には尾張美濃の二カ国の領主となり近隣にくらべて強大になったことが理由です。 もうひとつは京・近江坂本・美濃(長良川水運)・尾張(伊勢水運)と物流街道をつかみ経済的に強大化したのもあるかもしれません。 戦国大名の強さを測るのに単純に石高(当時は貫高制ですが)から人口を割り出し動員兵力を割り出しがちですが、信長は経済振興をさせ税を徴収しそれにより常備兵を雇うといった特徴があります。そうしたしくみがこの時代から動き出したかもしれません。

  • ithi
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回答No.6

ni9292 さん、こんばんは。 それは足利義昭を擁して京都に上洛し、義昭を将軍にして事実上の実力者になったからです。これを背景にほかの大名に対して多少の無理を言うことができましたからね。 義昭 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

回答No.5

合戦でガチンコ勝負するよりも、外交によって味方を増やしやすくなったからではないでしょうか。また美濃を得たこと、足利義昭を迎えたことにより、そうした外交が効く確率が上がったのでは?と思います。

回答No.4

畿内の大名が雑魚だったからです 逆に美濃は斉藤道三が鍛えた国で 遺言で信長に譲る と書き残したため 信長は美濃を攻略しますが 結局7~8年掛かります それだけ美濃が強固だったと言う事です 逆に畿内は三好一族の内紛 六角氏の弱体化などで容易に攻略することが可能だったのです

  • kagakusuki
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回答No.2

 1559年までは本拠地である尾張ですら統一出来ていなかったのですから、他国の領土を奪うどころか自国内の勢力争いに勝ち残るのに手一杯でしたし、その翌年には桶狭間の戦いが始まり、自国の何倍も大きな勢力であった今川氏に滅ぼされかねなかったのですから、領土を広げるどころではありませんでした。  それに美濃を取る以前の織田家はまだ勢力としてはさほど大きなものではありませんでした(どちらかと言えば弱小国でした)から、国力的にも拡大政策を採る事が出来るだけの実力は無かったのではないかと思います。  又、織田信長が天下布武を唱えて天下統一を目指す様になったのは、美濃を手に入れた1567年になってからの事ですから、それ以前は、自国の統一、地固め、防衛、等が主体で、天下を取る事を積極的に目指していた訳ではなかったのかも知れません。 【参考URL】  織田信長 - Wikipedia > 1.4 美濃攻略と天下布武   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7#.E7.BE.8E.E6.BF.83.E6.94.BB.E7.95.A5.E3.81.A8.E5.A4.A9.E4.B8.8B.E5.B8.83.E6.AD.A6

  • lions-123
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回答No.1

>信長が美濃を取ったあとから急に領土がどんどん広がっていったのはなんででしょう? 天の利、地の利、人の利 他の有力者が領地の統治や近隣同士の騒乱で手一杯の時に、西方の強国&義舅が内紛の末倒れ、その後釜という形で勢力下に収まり、都を目指す道が開け天下布武の思いが芽生えてきていた。 さらに年齢や経験を積み円熟の境に入り、家臣団も充実し出したところに美濃衆の戦略家・先頭集団を得て楽市や交易による文物の充実、鉄砲の実戦配備と活用に長けた訓練や戦術が相まって戦闘能力・物流(物資輸送や補給)の機動力の近代化と充実が他の偏狭な守りが中心の諸国に比べ進んでいた。 勢いが付き始めると燎原の火、雪だるまが雪原を転がり大きくなるように、動けば領地が増え過信が増大し、戦を重ねるごとに戦闘能力と経験が蓄積されてスパイラル的に拡大再生産と強大化が行われ、勝ち馬に乗りたい心理と逆らえば破滅の心理が働き、調略や降化含め周辺を糾合して行ったのだと思う。

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