• ベストアンサー

信長時代の本願寺とは何?

織田信長の時代に出てくる本願寺とは、いったいどういう 勢力でしょうか?何故どういった経緯で拡大し力をつけていったのでしょうか。また 信長となぜ対立したのでしょうか。 よろしくご教授ください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • reny
  • ベストアンサー率32% (81/252)
回答No.3

信長に奪われるまでは、石山本願寺(のちに秀吉が大阪城を建てた場所)が、浄土真宗の総本山でした。 この宗派の教えは親鸞聖人によって確立されましたが、実際に爆発的に広がったのは蓮如上人からとされています。 その特徴は、主に農民層(自作農)を対象として、講という宗教講座のようなものを通して横のつながりを村々に与えたことにあります(それまで村を越えた交流は少なかった)。 応仁の乱などを通して治安が悪化し、農民の生活は不安定でしたが、同時に道具の改良や治水技術の発展で生産性は飛躍的に上がっていました。 以前より、禅宗は武士に、日蓮宗は富裕な商人層に普及していましたが、浄土真宗は室町以降力をつけてきた、この関西圏の「自作農」を対象に勢力を伸ばしたわけです。 当時の農民は年貢は取られるわ徴兵されるわ、戦争で農地を荒らされるわと踏んだりけったりでした。 そこで大名に所属するよりも本願寺の系列寺院の庇護を求めた方がずいぶん暮らしがよくなるだろうと、本願寺から坊さんを呼んで大名を追い出してしまったのが、加賀の国の一向一揆(浄土真宗のことを一向宗とも言いましたので)です。 坊さんは代理みたいなもので農民による一種の革命政権の誕生です。 信長が目指したのは武士を頂点とする強力な中央集権的な政権です。本願寺を旗頭とする農民層が求めたのは、ゆるやかな権威を統合の象徴とする自治組織の連合体でした。 このような目指す世界観の違いが激しい対立の原因だと思います。

その他の回答 (3)

回答No.4

当時世に理解されていたのは、本願寺の本願とは他力本願の本願であり、きびしい修行などしなくても南無阿弥陀仏と唱えさえすれば来世での幸せが約束されるというものでした。 そのため、応仁の乱から頻繁に戦が起こるようになり、農民たちの間には厭世観が蔓延していたこともあり、急速に広まっていきました。 信長は道三から続く貨幣社会を作り上げようとしてはいましたが、現実には農民からの年貢が必要です。 しかし農民の心は、支配者である自分や家臣ではなく本願寺の教えにいってしまうという状況にありました。 信長の本拠地に近い伊勢の長島で一向一揆があったことでもわかるように、実際に信長はその現状を目にしたため本願寺に対して危機感を抱いたのではないでしょうか。 本願寺側としては、ほっといても勝手に信者は集まってくる、金儲けができる。 その金づるは壊したくないという考え。 大名を倒せるのではないかという考え。 一度動いてしまったら引っ込みがつかなかった。 勝手に地方の寺で動き出してしまった。 など様々な条件が絡んでしまったのではないでしょうか。 実際、初めのころは地方で一揆などが起きた後に統率する坊さんを送り込んだりと、あまり統制がとれてはいなかったようです。 その後、ある程度計画的にやるようにはなってはきましたが、あまり一貫した考えがあるようなものではありませんでした。 上記の様々な考えが絡んで、組織全体の意思ではなく一部の人たちの意思が暴走して止まらなくなってしまったのではないでしょうか。 これらのことは、最終的に第三者を持ち出しての講和で終わったことと、その後の処遇(戦後、秀吉、家康の時代での処遇)などからも推測されます。

回答No.2

・どんな勢力か? 親鸞上人を開祖とする仏教の1派です。中興の祖 蓮如上人によって盛隆となりました。蓮如が北陸で 布教を行って勢力を伸ばし、特に加賀では門徒が 蜂起して領主の富樫氏を滅ぼし、共和制に近い政体を 立てたことすらあります。 また15世紀末から石山(大坂)を本拠とし、石山本願寺は 実質的な城郭の機能を持っていました。 このような実績(?)から信長が成長していた時代には 各地で一向一揆が発生し、若いころの家康も苦しめられました。 信長も数人の親族を含む幾多の武将と兵を失っています。 ・なぜ信長と対立したのか? 織田信長は、天下布武の旗印の下、中央集権的な統一国家の成立を 目指していました。 この観点からすると下手な戦国大名より有力な一向宗は潰すべき存在です。 また、信長は無神論的な考えをもっていましたが、延暦寺を焼き討ちした時も 宗教が世俗に介入することを第一に問題視したと思われます。であれば、 高僧達が「退かば無限地獄進めば極楽往生」と門徒を戦いに駆り立て、 また各地に僧侶を派遣して門徒に蜂起を説く一向宗は、どう考えても 敵でした。 一向宗が過激化したそもそもの原因は、一向宗自体の性格として 仏教の中でも新興の1派であり、教義の内容がそもそも平等を説いて いたゆえに、当時の封建社会としては革命的な要素を 孕んでいたことが挙げられるでしょう。 また新鮮なゆえに多くの信徒を獲得し、指導者達の手を離れ 信徒達の論理で動いていくようになったものと思われます。

参考URL:
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/honganzi.htm
回答No.1

参考サイトの「本願寺顕如」なんか参考になると思います。

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~mh6h-ecg/ksn/meikan/65ho.htm

関連するQ&A