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秀吉の朝鮮出兵なぜ撤退した?

約10日間であっという間に朝鮮を制圧した豊臣軍はなぜ撤退したのでしょうか? ・朝鮮が助けを呼んだ清軍が強烈に強かったため ・朝鮮水軍に打撃を打たれたため ・豊臣秀吉が死去したため ・その他(持論を教えて下さい) よろしくお願いします。

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11204/34805)
回答No.6

元々誰も朝鮮出兵なんて望んでなかったのです。 ホリエモンに率いられていた頃のライブドアは株式を分割して市場から資金を調達し、その資金で他の会社などを買収しその規模を大きくして話題にすることで株価を上昇させ、そして株式をまた分割して一部を売却して資金を調達するというものでした。この方法が上手くいくためには絶対キープしなければならないことがあって、それは「ライブドア株価は上昇し続けなければならない」ということです。もし一旦株価が下降に転じれば売りが売りを呼び資金が調達できなくなり、会社は破綻します。そもそも買収した企業というのはもともと経営状況が悪かったから売りに出されていたわけです。ライブドアは強制捜査によって「国によって潰され」ましたが、あれにより返って堀江氏は助かったと思います。あの後にはあのリーマンショックが待ち受けていましたから、ライブドアはリーマンショックを乗り越えることはできなかったでしょう。 羽柴グループというのは、このライブドアと同じ経営手法でした。領土を増やしてそれを与えることで大名たちの支持を受けていました。一代で成り上がり譜代の家臣団を持たない秀吉にとっては、領土を増やせなければ与える領地がなくなり、従わせた大名の支持を失いかねないという危機感があったと思います。また経済政策も拡大主義だったので、要するに帝国の領土が増えて市場を大きくしないと経済も立ち行かなくなるという問題もありました。 また、これは後に大阪の陣と島原の乱という形になるのですが、天下統一となると戦闘要員として雇われていたフリーター武士の失業問題という深刻な問題が発生しました。徳川幕府はまず大阪の陣で豊臣方に彼らが雇われることでだいぶ「処理」しました。真田幸村みたいな危険な無職武将を片づけたのです。そして後に島原の乱では各地から失業フリーター武士が集まるのをあえて放置しました。「いずれ掃除しなきゃいけないなら、各地にいるやつらが集まったほうが手間がかからない」ということです。この失業武士(浪人)問題は江戸時代の由井正雪の乱まで日本の治安を脅かし続けるなかなか深刻な問題だったのです。 秀吉は、天下統一によって大量の「失業兵士」が出る問題に対して「朝鮮という新たな雇用先」を用意することによって対応しようとしたのです。 しかし各地の大名としたらたまった話じゃありません。一番恐れていたのは「領地を倍にして朝鮮に与えてやる」といわれることだったでしょう。名目上倍にされたところで言葉も通じないところを領地にされても困ります。しかも嫌とは口が裂けてもいえません。 だから、豊臣家直轄の一部の若手を除けば「こんなもん、やりたくない」と思っていたのです。だから家康は「いや~、ちょっと新領地が大変で~」とかいって負担を逃れ、政宗はド派手な衣装を将兵に着せて「見た目が面白いから親衛隊で置いてやる」と最前線に送られることを逃れました。 だから秀吉が死去するとまさに潮が引くように撤退したのです。もちろん、海戦に敗れて補給線が維持できなくなったという点も非常に大きかったと思います(その補給の滞りが加藤清正らの武断派と石田三成らの文治派の対立を先鋭化させて関ヶ原の合戦になり、結果的に豊臣家を滅亡へと導きました)。でも仮に海上補給路が維持できたとしても、秀吉が死去したら撤退したと思います。朝鮮に上陸した人たちの目には、朝鮮は山ばかりで稲作に向いた平地が少ない上に寒くて(稲は南方の植物です)充分な収穫もできない不毛の大地に見えたのではないでしょうかね。

matamatadayo
質問者

お礼

なるほど。参考になりました。ありがとうございました。

回答No.5

【文禄の役の経緯】 文禄元年4月12日夕刻、釜山浦に宗義春・小西行長たちの第1軍が到着。 13日に釜山城、14日に東莢城を攻略。 27日に忠州で申リプ軍を破り、第2軍の加藤清正軍と合流。 その後次々と上陸した日本軍は快進撃を続ける。 5月3日には、都の漢城を占領。 という初戦の状況でしたから、わずか10日で朝鮮を制圧したという表現は、いささかオーバーのような気がします。 漢城占拠の後、日本の諸軍は分かれて朝鮮八道に展開し、全国を支配下に置き、明への侵攻の道筋を確保しようとした。 日本側の民政に関する意向を朝鮮軍や民衆に伝えるために、同伴していた禅僧が日本軍のアメとムチの政策を文章で伝えた。 日本国内であれば、侵略軍が新征服地支配する時の方式と、基本的には同じ方式を取ろうとしたのだ。 しかしその後、朝鮮の抗日義兵による決起が、9月には始まり、日本軍に協力的な朝鮮の官吏らを討つとともに、日本軍が守る城を攻撃した。 明軍救援の報も決起の輪を広げた。 文禄2年1月には、北道の城を放棄せざるを得なくなり、2月末には全ての軍勢を撤収して漢城に引き上げるまでに追い込まれた。 李舜臣の水軍が、5月7日に藤堂高虎の水軍を撃破、その後も日本の水軍を次々と討ち破り、日本軍の水上補給路に決定的な打撃を与えた。 明の救援軍は、文禄元年6月に朝鮮に入っている。 明・朝鮮軍は、1ヵ月後小西行長がいる平壌を攻め、文禄2年1月、明軍4万・朝鮮軍1万の軍勢に包囲された平壌の小西・宗軍は撤退。 漢城に撤退した日本軍の戦局は一進一退で兵糧は細り日本兵の士気も低下した。 そのため、小西行長は和議を申し入れ、交渉の結果、4月18日に漢城から撤退した。 以上が、文禄の役の大まかな流れです。 仮に明が援軍を出さなかったとしても、朝鮮半島内の一揆攻勢は益々激しさを増し、日本を離れた地で現地の民政を抑えていくことはまず不可能だったと思います。 朝鮮半島人の性格・信条は、日本人とは根本的に異なっていることは、現代の反日意識の強さが物語っており、明らかなことです。 朝鮮には手を出さないのが一番です。 かつて「合併は厄介を増すばかりでなんの効果もない」として、日韓併合に反対意見を持っていた伊藤博文の気持ちが理解できるのです。

matamatadayo
質問者

お礼

なるほど。大変参考になりました。ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9604)
回答No.4

matamatadayo さん、こんばんは。 基本的には秀吉が死んだためです。朝鮮水軍の攻撃による損害も無視はできないでしょう。 挑戦を攻撃するにあたっては賛成する大名はあまりいなかったから、最大の推進者である秀吉がいなくなれば、そうなるに決まっていました。

matamatadayo
質問者

お礼

なるほど。ありがとうございました。

  • teppou
  • ベストアンサー率46% (356/766)
回答No.3

 この間の戦争につしても言えることですが、他国を占領し異民族を統治すると言うことについて、何の考えも持ってなかったからと思われます。  秀吉は、戦国時代を終わらせましたが、秀吉の手法は内戦であったから成り立ったのだと思います。  言葉も文化も違う異民族を、武力で圧倒しただけでは、統治者として君臨することはできません。  統治できなければ、出兵した大名には、何の利益もありません。それどころか、いつまでも戦乱が続き、食料や日常生活に必要な物の調達は、困難を極めたのではないでしょうか。  秀吉が、戦地に滞在していれば、何かうまい手法を見出したかもしれませんが、そういう状況ではありませんでした。  だいたい、各大名は朝鮮に出兵したくはなかったのです。皆早く日本に引き揚げたかったのです。  そんなこんなが、根底にあったと思われます。

matamatadayo
質問者

お礼

なるほど。ありがとうございました。

回答No.2

実はどちらも撤兵を進言したのは徳川家康です 最初の時は現地からの状況(戦況が不利になりつつある事、後継者最有力だった羽柴秀勝が戦死した事など)で家康が秀吉に撤兵を進言 秀吉もこれを受け入れた 2回目は秀吉の死によってもはや朝鮮で戦う理由がなくなったためです 石田三成は徹底抗戦すべきだと主張したが 家康は「太閤殿下が亡くなったのだからここは一旦兵を引き休戦すべきである」と主張 これに前田利家、上杉景勝らが同意して結局撤兵となりました それから 秀吉は遺言で、自分が死んだら朝鮮から兵を引け と言い残していたらしいです なので家康としたら遺言を実行しただけでしょう 建前上はですが

matamatadayo
質問者

お礼

なるほど。大変参考になりました。ありがとうございました。

  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.1

>約10日間であっという間に朝鮮を制圧した豊臣軍はなぜ撤退したのでしょうか? 複合的な要素・優先順位と影響度があると思いますが・・・ ◇文禄の役(1592~1596年)、慶長の役(1597~1598年)と2回、長期に大量派遣したが持久消耗戦になりつつあり、戦闘地域も徐々に南朝鮮から北上できなくなっていた。 さらに、正面戦闘で優位に戦っても籠城戦や退却し、日本軍の手薄になったら奪回を繰り返すような李斯朝鮮軍と支援する明軍の前に、徐々に苦戦、足踏み状態が続いていた。 ◇秀吉の心身の衰えの中、秀頼への禅譲を確かにするためには国内安定が不可欠。 秀吉の5大老への遺言状1598年8月5日、同年8月13日没<秀吉63歳、秀頼6歳> ◇明軍の戦闘能力の高さと派遣軍の長い歴戦での徒労感や補給不安からの厭戦ムードの強まり。 ◇海戦<李舜臣の率いる亀甲船の活躍>での苦戦と敗戦で制海権を失いつつある中で撤退を急がないと増兵や補給も交代や撤退が不能になり、派遣軍を朝鮮に捨て去る危惧。 ◇豊臣政権内の対立、徳川の発言力増大もあり、豊臣体制や秀頼の将来統治に不安を抱く淀君の意向・懇願もあったのでは・・・

matamatadayo
質問者

お礼

清軍ではなく明軍でしたね。失礼しました。 全ての要素が重なった為でしょうかね。 明が援軍を出さなかったらどうなっていたでしょうか? ありがとうございました

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