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「善悪の彼岸」(ニーチェ著)について質問です。
序言 『幾千年に及ぶキリスト教的・教会的な圧迫に対する戦いは―キリスト教は「大衆」向きのプラトーン主義だから―、ヨーロッパにおいて、かつて地上に現存しなかったような華麗な精神の緊張を創りだした。≪中略≫この弓の張りを弛めようとする試みがすでに二度も大規模に行われた。一度目はジェズイット主義によって、二度目は民主主義的啓蒙によって。』 にある大規模な試みの二つ目の民主主義的啓蒙はフランス革命などの時期を示しているんでしょうか? 一つ目については勉強不足で全く見当がつきません。どなたか教えてください、宜しくお願いします。 手元にあるのは岩波文庫のものです
専門家の回答 ( 1 )
- 専門家吉田 修(@osamucom0409) 産業カウンセラー
こんにちは。 読ませていただきました。 メンタルの専門家として登録している者ですが、こっちが本来の専門なんで…。 さて、この解釈ですが、フランクフルト学派の『啓蒙の弁証法』には大体以下のような解釈があります。 近代啓蒙的理性とは、脱神話化を目指していたわけです。 脱神話化とは創造の主権を神ではなく人間に取り戻すことを意味します。 これは神の創造の神話による与えられた世界の認識に対して、理性によって世界を認識することにより、創造の主体を神から人間に取り戻すことを意味するのであって、ルネッサンス的な人間中心の理想を思想において実践したといえるわけです。 しかし、この理性的な有り方自体が大衆化され画一化していくと、各人が創造主としてふるまうのではなく、創造されたものをもって創造的であるかのように各人が振る舞い出すことになるということをニーチェは見ていたんですね。 これでは神話的世界と同様なものになってしまうわけです。 これをニーチェは発見してしまったわけですね。 具体的には18世紀的な世界像を念頭に置いていたのでしょう。 しかし、『啓蒙の弁証法』はそもそも啓蒙的理性の運命としてこのことは避けられないのだということを述べているわけです。 『啓蒙の弁証法』はこのようなニーチェ解釈によってニーチェを捉えているわけです。 概略的で申し訳ないのですが、『善悪の彼岸』では、近代的理性の目的と現実との乖離を暴き出し、その後のニーチェの主著となるべく構想された『力への意思』は近代的理性を乗り越えるべく『悲劇の誕生』で語られたデオニソス的力の復権を試みつつ、理性の可能性を問い直すということが行われようとしたわけです。 このニーチェの思想は、のちの近代論に大きな影響を与えましたし、時代が追いかけるテーマに即して様々なニーチェ像が出されてきました。 ハイデガーは、実存主義の代表者でありつつ、形而上学の破壊者であり完成者としてのニーチェを描き出しましたし、フランスのポストモダンの人たちは近代の破壊者としてのニーチェを描いていますし、フランクフルト学派は近代理性批判としての近代の超克を試みた思想家ととらえています。 面白いですよねー、私たちは創造の主権を神と争っていたにもかかわらず、この主権を獲得してしまった途端に、自らが神話的にふるまってしまうという、創造の呪いを受けてしまっているのではないだろうか。 そして、創造的であろうとすることは神のごとく何者にも因らない者として存在することであり、永遠の絶対的孤独を受け入れるということになりますね。 これは本来の人の姿なのかという疑問も残りますし、果たして人は耐えうるのか。 これはニーチェの一貫したテーマとしての「理性による非理性の克服は有り得るのか」という問いに通じますし、ニーチェの発狂の象徴的意味とはここにあるのだと思います。 お尋ねの件は、歴史的事実についてのものだったと思いますが、思想的事実のようなものを書いてみました。
吉田 修(@osamucom0409) プロフィール
産業カウンセラー(日本産業カウンセラー協会) 吉田修(株式会社Dream・Giver) ■ご質問者・みなさまへ■ コーチング最新メソッドを使い、自分でできる、気持ちの切り替え方法をご提案しま...
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