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人は時時刻刻死んでいるという言説について
先日のテレビで養老孟司さんが、人というのは川の流れと同じで、過去の自分はどんどん死んでいるので死ぬというのは大したことではないという意味のことを話していましたが、仏教のほうでも時時刻刻臨終という言説を広めていた坊さんがいたという話を聞いたことがあります。現在の仏教でそういうことを言っている関係者はいるのでしょうか。
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- 雪中庵(@psytex)
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- stmim
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養老孟司さんが言っているのは時間論の話ではないです。生物学的な話です。人間の体では代謝が起きているので、食品などを食べて体に取り入れそれが体の一部となり、一方では老廃物が排泄されるので、物質的には人間の体は1年間で90%入れ替わるという話。人体で起きている取り込みと排泄のその様子は上流から水が来て下流に流れていく川のようであるということ。人間は物質的にはどんどん変わっていくのだから、部分的に死んでいくようなもの。確かに人間の体では毎日多くの細胞が死んでいます。皮膚の細胞は死んで垢やフケになって剥がれ落ちます。 ところで肝心の仏教のほうの話ですが、その話については聞いたことないです。 その言説を広めていた人のオリジナルな考え方なんでしょうかね。
お礼
養老さんの話は、物質的に同一な自分というようなものはないという意味で、死ぬというのも特別なものではないという死生観だったと思います。養老さんが時間のことを言っていたとは私も思いません。方丈記の冒頭の記述自身が現代の生物学の代謝の概念に重なるので、仏教の考え方が結構現代にも通用するはずだと思っているのですが・・・
- koosaka
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鴨長明の「方丈記」の冒頭に……、 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」 ……とあり、ひじょうに有名で、たぶんあなたも読んだことがあるでしょう。 時間を、川の流れにたとえて述べています。 そこから時間は「流れる」と私たちは考えています。 でも、川の流れならば、その流れの初めと、終わりに物差しを当てて、単位時間あたりにどのくらいの距離を移動したか、測定できますが、時間の場合、始めがあって、終わりとの間に、物差しを当てようにも、始めがあった時は終わりがなく、終わりがあった時は始めがなく、測定ができません。 そして川の流れが、流れとして私たちに認識できるのは、対岸の不動の岸辺があるからで、その対比によって、「流れ」と言っているので、もし、これが太平洋の真ん中だったら、それを「流れ」とは言えません。 私たちは時間が「流れる」ものと考えていますが、それは鴨長明が「方丈記」で言っていることと似たものとして時間をイメージしているからです。 また、時計の文字盤の上を針が移動して、数字の1から2へ移動するのを1時間と私たちは考えていますが、ベルグソンは、それは時間ではなくて、空間である、といいました。 時間の空間化。 ベルグソンは「時間と自由」で、人間の知性は運動するもの、変化するもの、持続するものは知ることができない、知ることができるのは直観だけである、といいました。 人間の知性はそのものを外側から観察することによって得られるもの、それに対して直観はそのものの内部に入って、それを知ろうとするもの、両者はそのような違いがある、といいました。 ベルグソンは時間を「純粋持続」といいました。 「純粋」とは、質的なもの、ということで、量的ではないということです。 時間は「質的な差異」であり、「量的な差異」ではない、ということ。 時計の時間は量的であり、「量的差異」ですから、本当の時間ではあり得ない、と。 あなたは時間は変化ではないか、変化がなければ時間もない、といいますが、ベルグソンが言うように人間の知性は変化を知ることができません。 変化は量的でなく、質的です。 変化は移動でなく、交替です。 距離の移動ではなく、あるものが別のものに交替すること、それが変化。 そして変化は「流れ」ではありません。 ただの交替ですから。 私たちは「時間は流れる」という言い方をしますが、果たして時間は「流れる」ものなのでしょうか? 私はそれに疑問を持っています。 かつて古代ギリシャのアリストテレスは、その「自然学」で、時間について、「時間とは運動を分割してそれを数えることである。時間は運動の数である」といいました。 運動と時間は違う、運動を基礎において、その上でその運動を分割して数えることが時間だ、と言っていることになります。 だとすると、運動は「流れる」としても、時間は「流れない」と考えるべきではないか、と私は思います。 時間は、尺度であり、物差しです。 「流れる」運動を分割してそれを数えること、それを測ること、その尺度、物差しが時間です。 そして尺度・物差しは「流れ」てはなりません。 そんなことをしたら、ゴム紐で長さを測るようなものです。 時間は不動でなければなりません。 良く時間を水晶発振の振動数だとか、セシウム周波数だとか、光の速度とか、原子時計があるとか、そう言う人がいますが、いずれもそれはそれが時間と言っているのではなく、時間の基準・尺度・物差し、と言っているにすぎません。 現在の私たちは地球が自転するのを1日とし、それを24分割したのを1時間といい、地球が太陽の周りを公転するのを1年と言っていますが、それも同じ、太陽系の天体の動きは季節に左右されず、規則的だから、たまたまそれに基準を、尺度を取っているので、それが時間というわけではありません。 時間は「流れる」というのは、私たちの「先入観」「思い込み」です。 時間は「流れ」ません。というより、「流れ」てはいけないのです。
お礼
お話をありがたく承りました。勉強させていただきます。
- koosaka
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時間あるいは時制というものを出来事と一緒だと考えれば、そうなるかもしれませんが、分けて考えるべきとしたら、養老孟司の言っていることは間違いです。 たとえば、昨日いう時間があり、今日という時間があり、それは別なのだから、昨日の私と今日の私は違う私、という考えになり、昨日の私が死んで、今日の私が生まれているのだから、私たちは日々死んでは生まれている、という考えになりますが、でも、時間がどうあれ、昨日の私と今日の私は連続していて、同じ私だという考えもあります。つまり、時間あるいは時制とは別に私がある、という考えです。 私自身は、時間・時制とは別に物事や出来事が存在し、それを私たちが認識するのに、時間・時制があって、それを通して物事・出来事を見ていると考えています。 物事・出来事を前後的に因果的に結び付け、整理整頓するために時間・時制という「形式」あるいは観念が必要だと考えています。 そして私たちは時間と出来事を一緒にするから、仏教の「諸行無常」という考え方も出てくるのだと思います。 つまり、時間が変化し、流れるから、物事・出来事は一緒に変化し、一緒に流れる、と考えることになります。 出来事の流れと、時間の流れが一緒だと考えることになります。 でも、そうでしょうか? たとえば、私たちは過去の遺物とか記録を見て、過去の時間があった、という考えをしますが、でも、過去の遺物は現在、目の前に存在します。 それを「過去に存在した」と、過去形で語るから、私たちは過去の時間が存在するように錯覚しているのです。 また、博物館で、古い壺をみて、それを過去の時間がある証拠だと思いやすいですが、それは横の壁に「この壺は今から25oo年前に遺跡から発掘されたものです」と書いてあるから、過去に存在したと思うので、もしそうでなかったら、その壺は現在、目の前に存在します。 いずれにしろ、過去という時間には何ものも存在しません。 時間・時制とは別に遺物があり、壺があるだけです。 時間・時制と物事・出来事は区別して考えなければなりません。 聖アウグスティヌスは言っています「過去は過ぎ去ったので存在しない、未来はまだやって来ないので存在しない、現在はたちまち過ぎるから存在しない、時間は存在しない」と。さらに「過去の現在、未来の現在、現在の現在がある。時間は現在である」と。 このことは時間というのは幻影だ、と言っているのと変わらない、ということなのではないでしょうか? 物事・出来事は存在するけれども、時間は存在しない、実在ではない、と言っているのではないでしょうか? あなたも、仏教も、その時間が存在し、物事・出来事と時間は一緒と考えているのではないでしょうか?
お礼
物事の動き自身が時間ということではないでしょうか。変化があるから時間がある。変化がなければ時間はないということなのかなと思います。
お礼
物理学と人間の意識の関係は重要で興味深い問題なのでしょうが、浅学非才の私にはちょっと手が出ません。養老さんの話は私のような凡夫にとって死ぬということがむやみに恐れるほど特別なものではないということを改めて考えさせてくれているように思います。現代の仏教関係者がそういうことをあまり言わないのが不思議なように思われます。