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供養しないと、幽霊が出ますか?
- 供養しないと幽霊が出るのか疑問に思う人もいますが、宗教の中での考え方によります。仏教では、生前の悟りを開くことが重要視され、物への執着は避けるべきとされています。
- 身内がなくなった場合、葬儀なしでお坊さんを呼ばなかった場合に、亡くなった身内が幽霊となって出るのかという疑問もあります。一部の記事では、墓を作らず遺骨も拾わないという考えも紹介されています。
- 生きている間を大切にする考え方を持つ人も多いですが、テレビ番組で遺骨が長い間仏壇に入れたままになっていたことが問題視され、亡くなった親が怒っていると報じられています。
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ばかばかしい 大切な家族が亡くなっても まだ自分のそばにいるのなら なお結構じゃありませんか 幽霊になって出てきて 何するんですか 「うらめしやー」とでもいうのですか ばかばかしい すべて、ニセ占い師が金儲けの為に考えたことで そんなものはありゃしません テレビに出ている占い師はみな偽物です それでもホールを一杯にする詐欺まがいの人もいますから こまったもんです こういう詐欺師のおかげで 石屋はお墓は作ってもらえるし お寺は檀家がふえるし たすかっているので何も言いません だから仏壇にいつまでも置いておくといけないなんて 言うのです (早く墓作って、お寺に持ってきてということです) 葬儀無しというのは考えものですが 自分の納得のいく式をすればいいのですよ なお献体は今、多すぎて断るわけもいかないので 大学等では困っているのが現状です
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- michael-m
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それは先祖に聞いてみないと判りませんね。 本来仏教に生死は無いんです。魂の修行が在るだけです。 仏教でも宗派によって考え方が違います。例えば浄土宗などでは死ねば即仏の世界に行けます。そうなると亡くなった人にお経を唱えるのも不合理な話で、結局お経は生きている人のためのものとなる。逆に亡くなった後もお経で救わなければ成仏できないと言う教えであれば、お経を唱えなければ怨まれるやも知れません。 逆に後者の教えを説く宗派のお坊さんが「お経は生きている人のための物、死んだ人に唱えたって何もならない」と言えば檀家から総攻撃を喰らうでしょうね。実際そうなってしまった人もいます。 仏教の全部じゃありませんが、魂の世界を喩えると光に似ています。 光は周波数によって変わることは理科で習ったはずです。波長が長いと赤くなり、更に長くなると暗くなって、最後には目に見えない赤外線になります。 逆に周波数が高くなると青から白っぽくなり、こちらもやがて目に見えない紫外線になります。 魂の世界で目に見えない部分が霊界と言う所であり、目に見える部分が現世、人間界です。 私達は人生により多くの経験と知識を得て自らの波長を短くしていくわけです。一段波長が短くなる際に死を迎えます。これを繰り返し、悟りを開くまで達すると仏陀になれるわけです。 私達の世界から目に見えない仏の世界に生まれ変わる事を解脱(げだつ)と言いますが、真の解脱は悟りを開く事を言い、それまでは修行と死を繰り返すわけです。 つまり人間であると言うのは魂の成長過程において目に見える可視光線の領域に存在しているに過ぎません。修行を積めばやがて可視光線から紫外線となり、この世に生まれる必要の無い段階に入ります。逆に悪行を繰り返せば周波数が長くなり、低いほうの目に見えない赤外線のような世界、つまり地獄に落ちるということです。 お経と言うのは人間の得るべき知識や経験などを文書にしたものです。 我々が全てを体験しなくても教科書を読めば知識として得られるのと同じく、お経は体験し得ない知識を得るものです。 だからお経を読むことでより大きな知識を得、それによって破傷を短くする度合いを上げようというのが仏教です。 お経は自分は読むことで「功徳」をえます。また人に読み聞かせる事によって大きな功徳を得ます。この読み聞かせの行為を「法施」といいます。今日を読み聞かせる事は聞いた相手も知識を得ることとなり、功徳を得ます。 してに功徳を与えた事は更に大きな自分に対する功徳になるわけです。 また人間は死んで仏の世界に生まれたからと言って終わりではありません。 これも宗派によって異なるのですが、魂は仏の世界に入っても悟りを得るための修行を繰り返します。 観音行とはこの修行の事を言います。 つまり亡くなった人に対する読経は次の段階に進んでいるであろう魂に対して読み聞かせをする事であり、それはとりもなおさず自分の功徳であるということです。 で、亡くなった人を供養しないから怒って来るというのはありえない話です。 人は死ぬと49日後に次の転生先が決まります。 これを周波数で喩えるなら、その人が可視光線の波長であれば人間界に転生し、悪行を行なえば地獄に転生するだけです。紫外線の領域の波長であれば仏界に転生すると言う事になります。 つまり自ずと転生先は決定されるわけですから、それによって怨むのはお門違いだし、更に言えばそれで怨むようであれば波長が無くなる、つまり地獄や畜生道に転生するということになってしまいます。 読経するのは功徳を積む事にはなるが、読経しないからと言って浮かばれないと言うのは自己責任だということです。 まァ逆に考えれば、そのように浮かばれない魂だから恨むと言う事も在るかもしれませんけど、よほどの意志の強さが無ければ、そんな簡単に怨みを晴らすほどの霊力を得る事は出来ません。 四十九日を過ぎれば次の転生先に行ってしまいます。
お礼
幽霊が出るとか、悪いことをすると地獄にいく、とか、 そういう話を子供のころから聞いていると、 お経は死者のためになくてはならないもの、と思ってしまいます。 悪いことが起ると、供養しなかったか、と責められる感じです。 こうやって責める人は、普段から自分の責任を他人に転嫁する傾向ですが。 光の見えない部分は、難しい話で、わからないですが、 人の心と思っていいですよね。間違っている解釈かしれないけれど・・・ 読経も、人のエネルギーをどこへ向けてるか?だと思います。 読経している時間に、困った人を助けるのに時間をかけている人もいます。 信心深い人が、自分の利益優先だと、それって何??と 思うことがあります。 やはり毎日の生き方が大切なんでしょうね。 姑と義理弟が、いつも数珠を持っていますが、 人をすごく憎んでいる方たちで、ギャップを感じます。 ふたりとも人間不信で、アルコール依存症です。 私に向かって「あなたがお嫁にきたから、悪いことが起る」といいます。 本人の心の問題だと思います。
- ElShaddai
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いちおう占い師やってます。 はっきり言ってしまうと供養だの墓だの葬式だのと言うのは宗教屋が信者から金を巻き上げるための方便です。あとは遺族の自己満足ですかね。 もともと仏教にしろキリスト教にしろ死者を弔えなどという教えはありません。 「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」とキリストも弟子に言っています。 そもそも成仏できるか否かは生前の本人の心がけ次第でしょう。 成仏できないから子孫に化けて出るなんて不届きな先祖は「地獄に落ちろ」と言って叩き返してやりましょう。(これは冗談ですが) 誤解しないで欲しいのはだからといってご先祖を敬わなくてもいいということではありません。 命日でも朝起きた時でも寝る前でも、自分が今日あるのはご先祖のおかげだと思えば自然に手を合わせて感謝したくなるはずです。 幽霊が出るからとか世間体が悪いからとかではなく、自分を生み出してくれた存在のありがたさに感謝すること、それこそが本当の供養だと思います。
お礼
いやぁ~、はっきりわかっているんですね。 私は妹に、ちゃんと御坊さん呼んで、葬儀をやれ、と命令されていますが、 なんでも人任せ、お金も出したくないけど、やることやってくれないと、 自分に災いが起るからだと思います。 姑も信心深い??ようですが、わりと人任せで、先祖の供養を長男の後妻さんに 強要していました。 普段は金がすべて、っていう人たちなのですが、 宗教にすがるというか、宗教さえやってれば、大丈夫、と思ってるようです。 極端に言うと、人を脅す人たちなのですが、 宗教やれば、なんでも許される、というように見えます。 私は親元にいるときは、生きている感じがしませんでしたが、 親元を離れたら、心が自由になり、生きていることに感謝するようになりました。 感謝は先祖ではなく、身近な人にしています。
- YUKIMUSHI
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テレビのはたまたまだとおもいます。 なくなった親族などに対して 亡くなったあとも恨みつらみをいう人は 心に良くないものがたまりそうですよね。 それが悪いものを呼ぶことがあるかもしれません。 とにかく生きている人間の思念ほど強い物はないと言われています。 (生き霊が一番怖いと言われてそだちました。もともと寺の家系です) 葬儀をしたとか坊さんをよんだ呼ばなかった程度で 幽霊がでるとかはありえないとおもいます。 遺骨を自宅においてても悪いことはないと思いますし 今は合祀というか 骨をお寺にお納めして まとめて供養してもらうこともふえました。 10年とかしたら粉にして大きな仏の形に固めて拝むところもあります。 宗派を問わないところも多くあります。 また なくなったら みんな仏様だから 生きてた時の罪も許せばこころ安らかに拝んであげられる または「ああ いきてた時は色々あったけど懐かしいな」って なつかしむことで充分供養になるとおもいますし 墓作らなきゃとか墓参らなきゃとか 「~しなきゃ」は呪縛にも似た言葉であまり好ましくかんじませんね 子どもの頃から お仏壇はあの世の窓だから ご先祖がこちらをみてるので きちんと挨拶して 報告をしなさいよ と言われていました。 頂き物も真っ先にお仏壇にお供えし(あったことないけど ひいばあちゃんはおまんじゅう好き?とかききながら) あとでお下がりをいただきます。 そういえば 話しかけると 仏さんの格が上がり 守る力がつよくなるとも言われてました。 (だから お願いごとはしてはいけないとも) でも 仏壇がなくても 思い出すだけでもいいと聞いています。 ふと 懐かしく思い出すこと。 これが供養につながるはずです。 宗教の根本は 明るく 今 ここに自分が存在するのは 先祖から脈々と続く命のおかげだと認識して 毎日感謝する気持ちが大事だと気づくことだと思うからです。 死ぬと確かに肉体は亡くなりますが あなたもその続く命の流れの一部なのですから しんだらはい終わり!という個別なものでもない気がしますよ。 こたえになってませんね すみません。
お礼
「死んだらはい終わり」というのは、生命というか、自分はなにもわからなくなる、 という意味です。残された人の心には思い出が残ります。 生霊の教えは、きっと、人を過剰に憎んだり、すべて自分の思い通りになると思うな、 ということだったのでしょうね。 両親の時代は、大きな葬式、個人の墓が当たり前で、 さらに物、金、見栄の世界で、今もそれを強要されますが、 私は子供のころから精神の世界に住んでいたので、親のすることが あまり好きではありませんでした。 なので、極端になりますが、あえて何もしないことで、 心が浮き彫りになってくると思います。 子供にも、何が大切なのか、わかってもらいたいですし。 罰が当たるから、みんながしてるから、ああしよう、こうしよう、とやるのは、 滑稽な姿ですよね。
- poppo3poppo3
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死者が化けて出ると言われるのは土俗宗教に多い考え方で、 本当の仏教では人は死ぬと仏になる長い旅路に出るため、化けて出ません。 ですのでお盆のようにご先祖様が帰ってくるという考えは本来の仏教にはなく、 日本に古くからあった信仰と融合したものと言われます。 また宗教の教義によって死者の帰還の事実のあるなしが変わる訳がありませんので、 「仏教では」「キリスト教では」は関係なく死者は化けて出るか出ないかの二択になります。 京極夏彦氏いわく、苦しい思いや後悔をして死んだ人が、今でも苦しんでいるだろう、死に切れない だろうと思うのはあくまで生きている側の見解で、死んでしまえば感情も怨恨も存在しない。 即ち化けて出るのではないかという恐怖や怒っているだろうという思いが生きている私達によりリアルに思えてくるほど気にかけている状況にあると、それはふとした物音や風の仕業で動く草などによってまさに実在するかのような形で私達に「感じられる」ようになる、これが幽霊であるといい、私もそう思います。 この文脈から考えると、お坊さんを呼んでお経を上げてもらう事で自分が納得することがなくなられた方の成仏に深く関係するということですね。遺骨もしかりです。 ちなみにそう書きましたが、私観では京極氏の考え方を応用するかたちで幽霊は私たちの中に存在する と思います。 私達が自分を自分と自覚している「自我」は、自分の中に莫大に存在する大小の経験メモリ(見た場面、聞いた景色、かいだ匂いなど記憶の断片)の海の中で、自分ならではのオリジナリティの強いメモリをつないだひとつの共通項にすぎないもので、それ以外に結び付けて他の人格を形成しうる要素もたくさんあり、多重人格などは現在の自分を否定して他の自我を紐つけして構成してしまう現象です。 このメモリの広大な海の中では、まったく自意識と関係なく存在する人格もありうり、それがリアルな存在として端聞きする情報を切欠に意識されるのが幽霊と思います。 いずれにせよ死者は先達でもあり、尊敬し敬うべき存在であるならば、自分で納得がいく状態で亡くなっ「ている状態」でいて欲しいですよね。そのために行うことがなんであれ供養であり、それで気が済めば幽霊は出ません。
お礼
うちにはお琴がありますが、ときどき勝手に音が鳴ります。 ピアノも同じ現象がないともいえないです。 これが、テレビとかになると、幽霊が弾いている、となるんですよね。 もし人を殺せば、その人が恨んで出てくるのではないか?という恐怖で、 幽霊を作り上げてしまう、ということですね。 私自身は、死んだ人はお経は聞けないし、 お経がないとあの世にいけないのかなぁと、子供のころから不思議でなりませんでした。 それと、お坊さんはどう見ても、普通の人でしたし。 「自我」も日ごろから感じることがあります。 他人あっての自分、ということです。 人が死ぬのは大変で、いろいろあるようですが、 あまりよくない印象を残ったものに植え付けたくはないですね。
- rimurokku
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仏教の教えでは、人が亡くなれば仏様になります。 仏様は、人の幸せを願う物で有り、生きている人に罰を与えたり恨みを残す事はありません。 幽霊になって出てきたり何かの悪さをすると感じるのは、生きている人間が作り出した物で有り、死んだ人は絶対に人に悪さはしませんし、出来ません。 自分の気持ちが許せなければ、世間一般のまつりごとをすれば気も済む事です。 しかし、それを気にしない人であれば、好きなようにすれば良い事です。
お礼
身内で、墓参りしないと、たたられる、病気になったのもそのせい、 私には悪霊がついている、という人がいます。(妹ですが・・・) 私から見ると、妹自身の問題だと思います。 態度が悪いので、人間関係がうまくいかず、イライラする毎日なので、 お金を使うことで発散し、借金だらけでまた苦しい・・・と私には見えますが、 本人は、墓参りしなかったから、悪霊のついている姉がいるから・・・といいます。 まさに、生きている人間が作り出していますね。 悪霊のついているらしい私は、穏やかに暮らしています。 これは心の在り方次第ですね。 生き方の問題です。 妹のような人が、いくらまつりごとをしても、 心はなかなか安らがないと思います。
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
>>亡くなった身内が、幽霊になって、出るでしょうか? ケースバイケースだと思います。死んだ方が「あの世」のあることを信じていて、この世への執着があまりなければ、長い間、幽霊になって出ることは無いでしょう。 ただ、通常は、死後49日程度は、地上にとどまることは許されているので、霊視できる方であれば、本人の葬式に、霊体となった本人が出席しているのを確認できたりします。 亡くなった本人は、「俺が居なくなって家族はどうなっているかな?」「会社はどうだろう?」と確認したくて、自宅や会社に出現することもあるようです。 もちろん、霊感が無い方なら、幽霊は視えませんので、出ていても、出ていないのと同じですけどね。 そして、「生きている間がすべて」と思っていたりすると、自分が死んだとは認識できず、「変な薬を投入されて、長い夢の世界にいるのだ!」「みんなが俺を死んだものとして騙そうとしている!」とか言い張る方も多いようです。
お礼
死んだ人の気持ちがわかる方ですか? 生き方たように死ぬ、と聞いたことがあります。 「みんなが俺をだまそうとしている」という死に方は、生き方が相当悪いのではないかと 思いました。 死にたくない、死ぬのが怖い、人が死んでも自分だけは死なない、という人のほうが、 執着があるような気がします。欲求不満な人が多いかも? 生きている間がすべて、という人は、この世に満足してると思います。 回答者さんのいってることは、すべて反対のように思えてなりません。
- AVENGER
- ベストアンサー率21% (2219/10376)
>身内がなくなったとき、葬儀なしで、お坊さんを呼ばなかったら 医大に献体希望していて、葬儀なしを希望している人は幽霊になってしまいますね。 人間、死んだら終わりですよ。 ちなみに私のいとこは坊さんですし、親は献体を希望しています。葬儀は不要と言ってます。 別にいとこを呼ぶつもりはありませんし、親の意思を尊重しています。 (献体すると、医大で毎年慰霊祭のようなことをしてくれます)
お礼
お寺の子が、お盆になると、自宅に幽霊がたくさん寄ってくるのがわかる、といってました。 (子供が聞いてきたので、うそか本当かわかりませんが) 献体はすごいですね。 私も死んだら終わり、と思ってるのですが、 献体は考えたことがありません。 何かのきっかけで、強くそう思ったとき、実行するかどうかですね。 お坊さんは別に呼ばなくていいですよね。 田舎なので、組のお通夜の長い長いお経を何度も経験し、お坊さんと聞くと、 拒否反応が出ます。 見送る人の心があればいいですよね。
お礼
考えてみれば、カメラを向けると、幽霊が声を出したり、 白い影が走ったり、ギシギシ音がするんですよね。 悪霊払いは、あれは嘘っぽいですね。 占い師の宣伝になると思いました。 お骨を置いたまま・・・のところも、 お寺と墓業者が儲かる、と思いました。 私も、やっぱりしなくちゃいけないかな、と心配になりましたから。 中古住宅に幽霊が・・・というのも、 土地買って新築じゃないと怖い・・・と 思う人も出てくると思いました。 献体、多すぎて困っているのですね。 知りませんでした!!