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縄文住居と弥生住居。
縄文住居と弥生住居の違いは何ですか。 紀元前のある時期、後世、弥生人と呼ばれる人びとが日本列島にやって来て、縄文土器とは明らかに異なる土器を作りました。 弥生人は、住居も作ったはずですが、縄文人が作ってきた“縄文住居”とは、どんな違いがあるのですか。 鉄や水田稲作の技術をもつ弥生人は、同じような竪穴住居を作っても、縄文人が作った“縄文住居”とはどこか違っているのでは、と思っています。 弥生人が初めて北九州へやって来て、定住し始めたころの住居がどんなものだったかは、ある程度分かっているのですか。 よろしくお願いします。
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一口に縄文時代と言っても前期、中期、後期と言った時期の違いや、地域の違いによって住居の構造には細部で違いがみられます。 全く同様に一口に弥生時代と言っても前期、中期、後期と言った時期の違いや、地域の違いによって住居の構造には細部で違いがみられます。 ですから縄文時代の住居の特徴とは何かという事も、弥生時代の住居の特徴とは何かという事も一概に言う事は出来ませんので、縄文住居と弥生住居という分け方で違いを比べる事にあまり意味は無いと思います。 地域と時期によって違いも様々ですから一概に言う事は出来ませんが、大雑把な傾向であれば下記のURLのページに多少の説明が掲載されていますから参考にして下さい。 【参考URL】 竪穴式住居 - Wikipedia > 2.2 構造 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85#.E6.A7.8B.E9.80.A0 又、地域としては神奈川県内の例に限られている様ですが、上記他にも縄文時代の住居の構造と弥生時代の住居の構造のそれぞれに関して開設されているサイトを見つけましたので、合わせてリンクを貼っておきます。 【参考URL】 かながわ考古学財団 考古資料館 > 常設展示室 > 2. 縄文時代 > 縄文時代の遺構 > 縄文時代の住居 http://www.kaf2.org/josetsu/jomon/jomon_iko/jomon_house かながわ考古学財団 考古資料館 > 常設展示室 > 3. 弥生時代 > 弥生時代の遺構 > 弥生時代の住居 http://www.kaf2.org/josetsu/yayoi/yayoi_iko/yayoi_house
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- SPS700
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#1です。何時もいいご質問をなさる kouki-koureisya さんですね。 いえ、ご質問が悪いのではありません。僕が言いたかったのは、稲作の前後は、肉食の前後で江戸から明治にかけて人口の侵入も住居の急変も見られないように、縄文から弥生へも住居が変わらなかったのではないか、と申しました。 食べ物の変化で頭蓋骨の形が変わるのは、鈴木尚の『日本人の骨』(下記)などで触れられていますので、稲を作り米を食べ始めたので縄文人の骨格が変わった、とも考えられるのでは、と思っただけです。 https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/3/4161220.html
お礼
これは、これは!とても嬉しい返信です。 いい質問をしようと心がけていますが、思いついたことを自分でよく調べもせずに、すぐ質問して、人任せにしてしまいます。 骨については、また勉強してみます。 太平洋戦時のアメリカのスローガンについては、びっくりするような資料を教えて下さったので、今もよく覚えています。
>縄文住居と弥生住居 この様な用語は寡聞にして知りません。 造語でしょうか >紀元前のある時期、後世、弥生人と呼ばれる人びとが日本列島にやって来て、縄文土器とは明らかに異なる土器を作りました。 断定されておられますが、どのような根拠でしょうか. 参考 弥生人 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/弥生人 (抜粋) 世界大百科事典によると、弥生人には、大陸から渡来し縄文人と交流して新文化を形成した人びと(大陸系弥生人)、縄文人が新文化を受け入れて弥生人となった人びと(縄文系弥生人)、そして両者の混血で生まれた人びと、およびその子孫たち(混血系弥生人)が含まれるとされている。 (中略) そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。 2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。 これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。 水稲には中国大陸から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から朝鮮半島南部を経由して日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。 >弥生人が初めて北九州へやって来て 北九州地方が初めてということにはなっていません。 古代の住居形式に関するご質問かと思います。 縄文時代、弥生時代という区分は上記引用にもありますようにあくまでも考古学上の便宜上の区分です。 住居など生活文化に関する区分には使用されていません。 住居は住居の形式で区分されているだけです。 屋根は屋根としての区分があります。 住居は草木を素材としていましたので、腐敗が進行し易く現物が発掘されるケースは極めて稀です。 考古学といいますのは、あくまでも物を基準とした学問です。 文字史料を基準とした歴史学とは根本的に異なります。 相互補完関係にはあります。 住居跡の遺跡に残されているのは、柱の穴が大半です。 穴のの中に稀に柱が腐食し残されたものが発掘される程度です。 各地の遺跡公園や絵に復元されているのは、あくまでもそこで発掘された柱穴から建築学的に推定されたものです。 この推定の際に役だったのが登呂遺跡で洪水で流されてそのまま泥に埋まったと思われる住居の残骸がもたらした情報です。 三内丸山遺跡の列柱のように、地上部がどのようになっていたのかが全く不明のものもあります。 現在も列柱を立てて横桟を渡しただけの状態にしてあります。 吉野ヶ里遺跡の物見櫓もあくまでも推定です。 従いまして現在区分されているのは、住居の床の形状の違いによるものだけです。 参考 竪穴式住居 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/竪穴式住居 (抜粋) 日本においては、地面を掘り窪めた穴の平面形状は、時代と地域によって異なっている。 縄文時代前期では、概ね方形、台形、楕円形で、6本の主柱をもち、壁面周辺に支柱穴とも推察されるピットが並んでいる状況が見られる。 また、前期には東北・北陸地方を中心に超大型住居が現れる。 炉は、地床炉(ぢしょうろ)が多いが石組炉もあり、保有率は時代が下るに従って増加する傾向にある。 中期では円形および楕円形が多く、4本から5本の柱をもつものが主流であり、地床炉や石囲炉、また炉体土器を伴う炉が見られ、中期後葉の東北地方南部では複式炉をともなう住居が現れ、中部地方とくに長野県などでは石敷の住居も現れる。 後期になると、地域によっては「柄鏡型」とよばれる入り口部分を外側に張り出した住居が出現する。円形のものも続き、方形に近い住居跡も復活する。晩期になると、柄鏡部分がつぶれて短くなる構造に変化する。 弥生時代については、初期段階で東日本と西日本で大きく異なるが、後期には全体的に同形式に収まる傾向を示す。 円形のものが主流であるが、弥生時代の後期(2世紀から3世紀頃)頃から隅が丸い四角い形をした竪穴式住居(隅丸方形・長方形住居)が現われ始めている。 埼玉県熊谷市と行田市にまたがる池守・池上遺跡は、弥生時代中期初頭の遺跡で、住居の平面形状は隅丸方形か隅丸長方形である。最大の大きさのものは長軸10.6メートル×短軸7.2メートルで、面積は約72平方メートルで、他の住居の約2倍ないし4倍の大きさである。 神奈川県横浜市都筑区大棚町大塚遺跡(おおつかいせき)の住居は、弥生時代後期の竪穴住居で隅丸長方形(すみまるちょうほうけい)である。 住居の大きさは最大9.4メートル×6.7メートルで、面積62.98平方メートルあり、多くの例が20平方メートルから30平方メートル前後の規模であるので、その2倍の大きさである。 このように、弥生時代後期の東国では全般的に住居が小型化し、著しい規模の差が認められなくなる。 地上部が推定されるのは、銅鐸の線画や土器です。 これらの視覚的なものは残念ながら、古代のものが発掘されていません。 蛇足 時代区分と言いますのは、考古学であれ歴史学であれあくまでも目安です。 線引きではありません。目安です。 区分の目安は学問分野によって異なりますので御注意下さい。 縄文、弥生というのもあくまでも日本列島内のみで使用されている用語です。 弥生人が渡来したという言い方もおかしな言い方となります。 この時期に日本列島へ渡来した人を弥生人と呼ぶ、というだけのことです。 秦の始皇帝を弥生人とお考えになられますか。 卑弥呼を弥生人とお考えになられますか。 石器時代、青銅器時代、鉄器時代という区分がなぜ日本列島内の事象について使われないのかお考えになられたことはありませんでしょうか。 〇〇時代だから、その地方は均一であるという前提も成り立ちませんので御注意願います。 この地方にはこのような遺跡や遺物が多くみられる、という程度です。 これも発掘が進めば多寡が変化してきます。 最新の分析機器や測定技術が投入されている学問です。 いつでも、従来の定説がひっくり返ります。 古い固定観念が通用しない学問分野です。 考古学ファンにとってはこれが最大の楽しみです。 最近話題の宇宙線についても、これを応用してピラミッドを透視できるのではないのかと期待されています。
お礼
ご高説承りました。
- SPS700
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物と人とを分ける必要がある、と思います。「昭和博物館」に保存してある家屋は、平成のテレビドラマに出てくる住宅とは違いますが、平成人が日本に来て昭和人と入れ替わった訳ではありません。 和服と洋服、和食と洋食、それに由来する骨格の変化、などの差から見ると、粘土の壷に縄模様を付けるか付けないかは、アンドロイドとiPhoneぐらいのことかもしれないと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問が拙かったです。 紀元前5世紀ごろから朝鮮半島や大陸から北九州へやってきた“弥生人”は、例えば菜畑遺跡、板付遺跡に見られるように水田を作るという土木工事をやっています。 鉄器を持っていたのかも知れません。 そんな彼らが作った住居は、北九州に住んでいたそれまでの縄文人が作った住居とは、どこか違うのでしょうか、という疑問です。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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普通「縄文住居」「弥生住居」という言い方はしません。 両時代とも「竪穴式住居」です。 弥生時代に食料庫として「高床式倉庫」が登場したわけであって、あくまでも住居ではありません。 平安時代あたりまで庶民は「竪穴式住居」でした。 東北などの地方では室町時代まで作られていたようです。 北海道のアイヌの住居「チセ」も竪穴式住居の一種で江戸時代まで作られていました。 住居の違いは地域によって異なっていますので、時代での違いは無いところもありますし、よくわかっていないこともあります。←穴しか残っていないので。。。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「穴しか残っていない」のですが、その“穴”に注目すれば、何らかの違いがあるのでしょうか。 質問が拙かったです。 紀元前5世紀ごろから朝鮮半島や大陸から北九州へやってきた“弥生人”は、例えば菜畑遺跡、板付遺跡に見られるように水田を作るという土木工事をやっています。 鉄器を持っていたのかも知れません。 そんな彼らが作った住居は、北九州に住んでいたそれまでの縄文人が作った住居とは、どこか違うのでしょうか、という疑問です。 >普通「縄文住居」「弥生住居」という言い方はしません。 >両時代とも「竪穴式住居」です。 分かりました。 質問のタイトルとして簡略化した用語を用いました。 何かの論文や記事のタイトルにも使われていたものですから…。
お礼
ご回答ありがとうございます。 地域や時期によって差が出てくることは当然です。 時代区分で言えば、縄文後期・晩期から弥生早期・前期です。 同じ竪穴住居であっても、縄文人が建てた家(質問では縄文住居と略)と弥生人が立てた家(弥生住居)とでは何か違いがあるのでしょうか。 土器を取り上げても、弥生土器は、縄文土器とは違う焼き方をしています。 これは、技術的に大きな違いだと思います。 質問が拙かったです。 日本列島にやって来た弥生人が、もともと、どんな生活をしていたのか、どんな家に住んでいたのか知りませんが、その経験を活かして作った住居は、北九州に住んでいたそれまでの縄文人が作った住居とは、どこか違うのでしょうか、というピンポイントの疑問です。