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縄文時代と弥生時代
小学校の歴史の時間では「縄文時代」と「弥生時代」の違いを熱心に習います。 「ゆとり教育」になって教科書はペラペラになって、誰が「室町幕府」を作ったのかも書いていないのに、逆にこの「違い」は一時間ディスカッションしたりしています。 もちろん結果は「稲作」により、「権力」と「富」でき「争い」が起こったから「縄文」が良いとなるわけですが、こんな授業をする意味はどこにあるのでしょうか??すごく偏っているような気がしてなりません。 私自身もそう習いましたし、家庭教師の教え子はもっとひどかったので…(ほとんどの学校がそんな授業していなかったらすみません)
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>こんな授業をする意味はどこにあるのでしょうか??すごく偏っているような気がしてなりません。 中学校で社会科を教えています。ご相談の件ですが、小学校の場合、歴史の学習は人物中心に行うので、子供たちは構造的な歴史認識ができていません。そのようななかで「縄文時代」と「弥生時代」の違いをについて、自分で調べ、調べたことを基にして立論することは、大いに結構なことです。 しかしながら、『「権力」と「富」でき「争い」が起こったから「縄文」が良い』という価値観を植えつけるものであれば、却って弊害をもたらします。 おそらく、そのディスカッションはディベートで行われているんじゃないかと思いますが、論理的認識を育てることが目的なので、価値観を植えつけるようにならないよう、気をつける必要があります。
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- Fuu1962
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#3です。 わたしがあまり歴史に詳しくないことと、書き方が乱暴だったことで、なかなかうまくすり合わないのですが、できるだけ論点はずれないようにしたつもりです。 わたしの言いたいことをもう一度書きます。 縄文時代を原始共産制社会と定義づけるのは、決して偏った考えではなく、今日の歴史学の到達だと考えるのはわたしの歴史認識のなさの現れでしょうか? だって稲作はそれだけ画期的なできごとであったはずです。 ですから、それを縄文時代の方が良かったなどというのは、ナンセンス極まりないのです。 ディベートは結論よりもその討論するおもしろさがポイントです。それは小学生であってもそれなりの討論の仕方、結論の出し方があるはずで、そしてそこにあなたの気にする教師の教え方だってあるはずです。 そこで回答は「教師が、偏っているのではなく歴史について間違っている」といたします。 (この点は、先の回答でもまったく同じに考えていました。) あなたの言う >縄文を「原始共産主義」と位置付けたうえで、「縄文」と「弥生」の違いの授業を大切だというならば、それはすでにマルクス主義的な授業ではないでしょうか? ということこそ、何か決めつけているような気がするのですが。 わたしも探しては見たのですが、何か参考になるホームページを教えてください。 下記参考URLは別に参考になるものではありませんが、「ここまでは見てみましたよ」ということで載せておきます。 まだまだインターネットで全部調べるには無理があるなと感じました。 ただ、今回の問題は教科書の問題か教え方の問題かもう一度考えましょう。もちろんどちらも大問題ではあるのですが、とりあえず今回は教科書の問題はちょっと置いておきましょう。つまり、 >誰が「室町幕府」を作ったのかも書いていない ということを問題にしたければ、もう一度質問してくださいということです。 その上で、そういう教科書を共通の歴史認識として、縄文時代と弥生時代の違い、わたしの言うところの稲作という画期的できごとをどう教えていくのかということではないでしょうか? わたしの気持ちは伝わっているでしょうか?
お礼
ありがとうございます。 つまり「稲作」は画期的なできごとなので、ほかの事項は犠牲にしてでも、しっかり時間を取って学ぶべきことなので、「縄文」と「弥生」の違いは大切である。と言いたいわけですね。それなら本問の主旨と一致しますし、納得のいく回答ですが…最初の回答でこの意図を読める人はいないでしょうね。(これまでの歴史はすべて階級闘争の歴史であり、奴隷制・封建制・資本主義・社会主義と歴史が発展していく姿が大事、だったのでは…?これはマルクス主義そのものですが…あ!マルクス主義=偏っていると考えている私が偏っているんですね!どーもすんません!) 『縄文時代を原始共産制社会と定義づけるのは、決して偏った考えではなく、今日の歴史学の到達だと考えるのはわたしの歴史認識のなさの現れでしょうか?』そう定義づけるのは結構なのですが、その上で「縄文が良い」と誘導する授業ならばそれは「偏った」考えではないか?と言っているのです(=共産主義が良い、でしょ?)。それは、教師が間違っている、とおっしゃているのでしょうが、これが実際に多くの小学校で行われているのが実情なのではないでしょうか?(そうでないならいいんですが…) 『ただ、今回の問題は教科書の問題か教え方の問題かもう一度考えましょう。もちろんどちらも大問題ではあるのですが、とりあえず今回は教科書の問題はちょっと置いておきましょう。』私の質問では、この二つは切り離せない問題であると思います。歴史の重要性のバランスと、教育の偏向について質問しているわけですから。教え方の問題にも教科書の問題にも直結します。(もちろん「稲作」は大事だと思いますよ!ただ、バランス的に今の授業はどうかと…) 最後にあなたの回答をまとめさせていただくと、 (1)「縄文」「弥生」の授業は他の歴史的重要事項を削除しても学ぶべきことである。 (2)そのうえで「縄文が良い」とするのは偏りではなく教師の間違いである。 ですね。つまり、「縄文と弥生の違い」は大変重要であるが、今現在の小学校で行われている授業は間違いである。…としていいんでしょうか?これなら納得の回答です。 最後の最後…別にあなたを攻撃しているわけでなく、こういう話をするのが好きなだけなので…気を悪くしないでくださいね。てわけで、またの回答をお待ちしています。
- Fuu1962
- ベストアンサー率29% (426/1425)
縄文時代と弥生時代の違いは大切だと思います。 しかし、#1の方が書いたように、もしも共産党の先生がそのように教えているのなら、その先生は除名だと思います。 たしかに縄文時代は原始共産制に位置づけられますが、「共産」という語句がついているだけで喜んではいけません。その後に、奴隷制・封建制・資本主義・社会主義と歴史が発展していく姿にこそ注目すべきなのです。 武士が鎌倉幕府を開いたときに封建制が始まった訳ですからそれから江戸幕府が終わるまでは「ジュッパヒトカラゲ」でもかまわないと思います。 それが、今の歴史の常識ではないのでしょうか? 最近は、ディベートが流行っているようでそれ自体はいいんですが、「「争い」が起こったから「縄文」が良い」などの結論で安心するようでは愚の骨頂というものです。 なぜなら、「これまでの歴史はすべて階級闘争の歴史である」のですから。 そういう問題はすぐに告発しましょう! (どこへ?)
お礼
ありがとうございます。 ただ、私は「縄文」と「弥生」の違いをあまりに重要視する教育に意味があるのか?ということと、これは偏った思想教育(もちろんあってはならない)ではないのか?という2点を質問しているわけです。(論点がずれています) あなたのように縄文を「原始共産主義」と位置付けたうえで、「縄文」と「弥生」の違いの授業を大切だというならば、それはすでにマルクス主義的な授業ではないでしょうか?そういう考えをもたれることは大いに結構ですが、小学生にマルクス主義的授業を行うことは許されざる行為でしょう。 『最近は、ディベートが流行っているようでそれ自体はいいんですが、「「争い」が起こったから「縄文」が良い」などの結論で安心するようでは愚の骨頂というものです。』とありますが 、小学生のディベートでは限界でしょう。除名される先生もかわいそうですね。 <「奴隷制・封建制・資本主義・社会主義と歴史が発展していく姿」、、「これまでの歴史はすべて階級闘争の歴史である」>そんな単純なものではないと思いますが。(マルクス大先生のおっしゃってることでしょうが…) あなたはマルクス主義を小学生にすりこむことは正しいとお思いですか?そうでないなら、あなたの回答は「縄文」と「弥生」の違いの授業を否定することになりますね。新たな回答をお待ちしています。
- hkt_o
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伝統的に教育の世界は旧社会党系、共産党系の教授が多く、革新の気風があります。そうした大学の先生方が育てた教師が小学校で教えているので、弥生時代を批判し縄文時代(原始共産制が成立した時代、とされる)を礼賛することになるのです。 いわゆる反戦平和教育や、階級闘争史観にも通じており、根深い問題です。 ただ、ひとつ注意すべきことは、こうした教育が許されてきた背景にはPTAの支持があるということです。伝統的にPTAは旧社会党の支持基盤となっており、現在は民主党の支持層となっています。gibson45さんが先生を批判するのは自由なのですが、なかなかその意見は通らないだろうと予想します。他の保護者の多くは、おそらく縄文時代礼賛の主張に賛同されるだろうからです。
お礼
ありがとうございます。 PTAの支持もからんできているわけですね。 ただ、一つ疑問に思うことは「PTAの意思」と「多数の保護者の意思」というのは一致しているものでしょうか?そんなに皆単純ではないような気がします。実際、現代の人間は「富」「権力」なしには生きられませんから。 ただ、これから他国と競争していくなかで、こうした自国の足を引っ張るような教育がなされていることに危機感を感じずにはいられません。
お礼
ありがとうございます。 そのとおりだと思います。 確かにディベート形式でした。ただ、聞く話によるとあきらかな教師の誘導があります。正しい歴史認識するためには「功」と「罪」の両面を教える必要があります。豊かになったのはいうまでもないし、縄文にも争いはあったわけです。 「ゆとり教育」になってずいぶん必要なことが省かれたような気がします。逆に教科書がわかりにくくなったような…なのに何故「縄文」と「弥生」の違いにだけこれほど執着する必要があるのでしょうか?