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松平氏五千石の旗本領で代官の支配 って意味がわかり
松平氏五千石の旗本領で代官の支配 って意味がわかりません わかりやすく教えてください(´・_・`)
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- oska
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>松平氏五千石の旗本領で代官の支配 って意味がわかりません 江戸時代。将軍直系の部下には「旗本・御家人」がいました。 江戸時代には、旗本・御家人の正式な区別は存在しまん。 一般的には、将軍に謁見出来るのが旗本。出来ないのが御家人と認識されています。 江戸時代は、特別な事情が無い限り「米」で給料が支給されました。 旗本・御家人は、この「米」を売却して「お金」に替えていたのです。 単位としては、1石(約250キロ)=1両です。 ※明治時代のメートル方が入る前の基準。 質問の松平氏は、5000石ですから「年収5000両」ですね。 石高が大きいと、直接「米」を支給するのではなく「領地」を与えます。 5000石の収穫高が見込める土地を、その旗本に与えるのです。 旗本は、住んでいる屋敷以外に住居等を建てる事が許されていません。 住居と領地が近い場合は、直接領地を支配・管理をする事が出来ますよね。 が、離れていると「信用できる家臣に任せる(委任)」必要があります。 任された家臣は、その領地に単身若しくは家族で赴任します。 この赴任先が、代官所です。赴任者は、代官と呼ばれます。 代官は、代官所で「領地内の政治」を行います。 今で言うと、都道府県庁業務+警察+裁判所の仕事など幅広い業務を行っていました。 つまり、代官支配地ですね。 代官は、任期が終わると帰任します。 ※幕府が安定すると、世襲代官も現れます。先祖代々、〇〇代官所代官とかね。^^; 余談ですが・・・。 「天領」は、幕府の支配地ではありません。 ※天=天子。領=領地。 江戸時代の天領は、「皇室の領地」を意味していました。 幕府が支配していた領地は、「幕府直轄地」「幕府領」と呼ばれていました。 明治新政府が「幕府直轄領を没収」したので、「天領」と呼び名が変わったに過ぎません。
松平五千石の旗本領というのは、松平という旗本に年貢を納める地域だという意味です。 代官支配というのは、その年貢を実際に徴集しているのが勘定奉行支配下の武家だ、という意味です。 五千石というのは、五千石の収穫がある土地という言う意味です。 この五千石を四公六民で分け合います。 領主の手取りは二千石ということになります。 この二千石を集めるのが代官の主要な業務です。 本来は旗本の領地であれば旗本の家臣がその任にあたります。 家臣の給与は旗本の負担です。 ただ旗本の場合には大名のように纏まった地域ではないケースの方が大半です。 あっちの村、こっちの村から集めて二千石ということです。 村によっては逆に二人の旗本や三人の旗本へ年貢を納めることがあります。 これを実際にやるには、一人の旗本の家臣では手に余ります。 そこで一括して幕府が勘定奉行支配下の武家を任命して派遣するようになりました。 村の方も名主(庄屋)を頂点とする村方三役という自治組織を作って対応しました。 この自治組織の人達が村内から年貢を集めて、窓口である代官へ渡しました。 この代官経由で旗本の手元に年貢が送られてきました。 旗本は、江戸に居ながらにして何もせずに年貢という収入を手に入れることが出来ました。 なぜこんな二重行政のようなことになったかといいますと、幕府即ち将軍家の年貢があります。 この将軍家に年貢を納める土地を天領と呼びました。 幕臣である御家人は領地ではなく幕府から直接給与を貰っていました。 将軍家の費用だけではなく、家臣である御家人の給与もこの天領からの年貢で賄われていました。 この天領と旗本領がジグソーパズルのように入り乱れるようになってきてしまいました。 関東地方の場合には更に大名領との組み合わせになっていました。 よく大名が昇格して△万石から〇万石になるなどということがありますが、旧来の領国が広がるのではなく、離れた場所の土地を新たに付け加えるという方式がとられました。 関東地方にある川越藩などは大名領でありながら纏まった土地はありませんでした。 村民の意向にかかわらずこの領主が変わりますので、放っておきますと訳がわからくなってしまいます。 この為に、幕府の機関である勘定奉行所が一括管理して実務担当者を派遣したのが代官と呼ばれる人達です。 大名領でも同じような事が起きていました。 このために大名家から派遣される代官がいました。 蛇足 TVの時代劇などで悪代官というのが登場しますが、実際の代官は勘定奉行所のお役人です。 一から十まで勘定奉行の許認可が必要でした。 自由裁量権はごく僅かなものでした。 小説などで有名な国定忠治の事件の際にも、代官が不作で困っている農民に数俵の米の払いだしを願い出ていましたが、江戸の勘定奉行所が認めませんでした。 モタモタしている間に忠治が豪農を襲って米を奪って農民にバラマキました。 一躍義賊英雄となりました。 そうは言っても、現在もお役人の贈収賄は絶えませんから悪いことをしていた代官もいました。 黄門様にお出まし頂かなくても訴えらて即刻首になっていました。 農民の自治組織が発達していましたから、出先の役人である代官などお構いなしにすぐに奉行所へ訴えました。
お礼
ありがとうございました
- ithi
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736000 さん、おはようございます。 松平氏5000石の旗本領ということですから、その松平氏は大身ですから、少なくとも寄合以上の家格がある上級旗本です。 こういう大身旗本の知行所と呼ばれる領地支配機構の一員だと思いますから、この代官は旗本松平氏の家臣ということになります。 知行地には役所というべき陣屋が構えられていました。 もう少し小さな旗本だと、費用を小さくするため、大庄屋などに代官の代行させたりしました。 詳細は下記のURLを参照ください。 旗本 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC
- goncici
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代官は「領主の代理」の役職です。 なので、直接領地に住めない場合代官を派遣して治めたのです。 幕府直轄の領地「天領」は代官が統治していました。 石見銀山の井戸平左衛門「芋代官」が一例です。
お礼
ありがとうございます!!!とてもわかりやすいです!