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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:豊臣秀次はなぜ高野山へ行ったのですか)

豊臣秀次の高野山への訪問の理由

このQ&Aのポイント
  • 豊臣秀次は伏見に到着したが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆(半介)の邸宅に留め置かれた。
  • 上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」と告げられた秀次は、すぐに剃髪染衣(ていはつぜんえ)の姿となり、伏見を出立した。
  • 高野山で秀次は切腹することになった。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fujic-1990
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回答No.2

> なぜ高野山に行け、と指示されたのでしょうか  秀頼に関白職を継がせるために、秀次がじゃまになったからでしょう。  確実に秀頼を関白にするためには、関白職を空席にする必要があると秀吉は思い込んだものと思います。  高野山は空海が始めた真言宗の霊地で、俗世間とは別の世界と認識されていたようです。だから敵味方関係なく供養塔のようなものが建てられています。  つまり、高野山へ登って剃髪すれば、俗世間的には死んだのと同じと見做されていたわけです。  死んだ人間には、当然ですが相続権はありません。  だから、高野山へ登ればOKと考えていたものの、「高野山へ登る」とは命以外の全てを奪うこと(非情な措置)なので、会えば情が湧く。泣かれればかわいそうになって、高野山へ行けとは言えなくなるかもしれない、それはまずい、と秀吉は考えたのではないでしょうか。  で登城も拝謁も認めない、という態度に出ました。  どんな弁明も聞いてもらえないと悟った秀次は高野山へ登りました。剃髪してから上ったのだとすれば、ホントに俗世間と縁を切ったという事実を秀吉の忠臣たちに見せておく必要を感じたのでしょう。  そこまでやって高野山へ登りました。しかし、秀吉の「忠臣」某が「それでは不足だ」と考えたのではないでしょうか。  日本には「還俗」という制度があります。実際、最後の足利将軍は出家していたのに還俗して将軍職に就いたものです。あれをまたやられたら、陰でコソコソと影響力を行使されたら、豊臣が分裂して秀頼が困る。  で、方法は推測しかできませんが、豊臣家分裂の禍根を断つために、秀次自ら切腹するようにしむけた、秀次はその策に乗ってしまった、ということではなかったのかと思います。

noname#220222
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 高野山へ行け、とは 出家しろ、という意味だったんですね。

その他の回答 (2)

回答No.3

そりゃあんた 追放されたからですよ 秀次は子供の居なかった秀吉の後継者だったのに 秀吉に秀頼が生まれてしまったものだから秀次は邪魔者になったのです だから謀反の罪を着せて高野山へ追放したのです 実は秀吉は当初 秀次が出家して坊主(つまり僧)になれば命は助けるつもりだったようです そのため高野山に登らせたのでしょう しかし気が変わったようで 結局切腹させられてしまいます

noname#220222
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 高野山へ行け、とは出家しろという意味だったのですね。

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

秀次は子供のない秀吉の後継者として関白職を継いだ人で、領地の近江八幡ではその政治手腕を発揮し、現在にも残る街作りを行う等の能力を持った人でした。しかし秀頼が生まれたのが悲劇でした。秀次を除かないと後継争いが必ず起きると心配した秀吉が難癖をつけて殺そうとしたのです。気の毒な人でした。高野山へ登った秀次はそんな事情をよく分かっていたことでしょう。覚悟を決めた行動でした。秀長が生きていればこんな悲劇は起きなかったでしょうにね。秀長亡き後の秀吉は千利休を殺し、朝鮮出兵を行なうなど常軌を逸した行動が目立つようになりましたね。その責めを一身に背負った石田三成も気の毒でした。そして漁夫の利を得たのが家康だったのです。ちなみに徳川の天下は北政所の意向でもあったようですね。北政所子飼いの福島正則、加藤清正、それに小早川秀秋が味方しなければ関ヶ原は西軍のワンサイドゲームだったでしょう。

noname#220222
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

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