中国本土での歴戦の中隊長であり、戦後は歴史家として著名な藤原彰・元陸軍大尉は、次のように書き遺しています。
「戦死より戦病死(餓死)が多い。それが一局面の特殊な状況ではなく、戦場の全体にわたって発生したことが、この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質を見ることができる。悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。そのことを死者に代わって告発したい。」
ダイエーの創業者であった故中内功は、フィリピンでの一兵卒だった当時を回想して、
「戦場で怖かったのは敵の鉄砲ではない。一番恐ろしいのは隣の日本の兵隊だった。眠ると隣の日本兵に溢殺されるかと思って眠れない夜が何晩もあった」と語っています。
事実、中内が属していた振武集団参謀長角健之は、憲兵隊に現場銃殺権を与え、人肉を食っている現行犯だけでなく、食った実証が明白な者、人肉を携行する者を取り締まったと証言しています。(特集文芸春秋「日本陸海軍の総決算」)