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にんげんの前史から後史へ(!?)
歴史を展望してみたい。第三弾。 § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり) § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら れる。 それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る 音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。 このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関 係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。 人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。 チカラ関係としての社会力学の兆し始め。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工 的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと して出来たもの。 身分関係。その世襲制度。 特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階 建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する 場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係 およびその社会構造がかたちづくられる。 (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての 流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。 ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。 階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。 ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。 マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。 このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか? 中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。 日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。 一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。 しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。 ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。 もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。 宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。 一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。
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- kurinal
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>「そうですか。そうでしょうね。現代に到っては。 現代人は 例外なく そうなのでしょうね。」 なんだったかなあ。それこそB級映画だったかもしれないですけど、 「♪それ以上は、覚悟せよ!!」とか。 (アメリカ) >「有名になど、なるものではない」 (日本)
- kohichiro
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ブラジュロンヌさん、世界史前史のおさらいご苦労様です。 日本人が先頭にたって世界史後史を創っていこうと仰るその志やよし、と私も賛同いたします。 確かに日本人は先進国でも国民の宗教離れと特権階級の極小化、大多数の中産階級化と平等化と戦争離れが際立って進んでいる国民です。なので指導者層、特にトップの政治家がそれにきづいて世界をリードする気概をもってくれれば、アメリカなどもこちらが指導できるようになるはずです。まあ、好戦のへたれあべさんが居る間はだめですがね。 それと、今世界がうまくいっていないのは、やはり先進国が財産を独り占めしすぎているということが大きいでしょう。これを平準化することが戦争特にテロリストの撲滅には必須なのです。想念ばかりが先走りしても、やはり日々のパンがなければひとは穏やかにはなれないと思いますよ。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ブラジュロンヌさん、世界史前史のおさらいご苦労様です。 ☆ いえいえ。なんとか一歩をすすめたい気持ちです。 ★ 日本人が先頭にたって世界史後史を創っていこうと仰るその志やよし、と私も賛同いたします。 ☆ あぁ それはよかった。この種の質問は 初めてではなかったのですが 今回は 力強いお声をいただきました。 ★ 確かに日本人は先進国でも国民の宗教離れと特権階級の極小化、大多数の中産階級化と平等化と戦争離れが際立って進んでいる国民です。 ☆ そうだと思います。そうですね 中間層の充実した確かさでしょうか この点にも触れるのがよかったですね。 ★ なので指導者層、特にトップの政治家がそれにきづいて世界をリードする気概をもってくれれば、アメリカなどもこちらが指導できるようになるはずです。まあ、好戦のへたれあべさんが居る間はだめですがね。 ☆ 大いに期待します。特に若い世代の人びとに 期待しています。 ★ それと、今世界がうまくいっていないのは、やはり先進国が財産を独り占めしすぎているということが大きいでしょう。これを平準化することが戦争特にテロリストの撲滅には必須なのです。想念ばかりが先走りしても、やはり日々のパンがなければひとは穏やかにはなれないと思いますよ。 ☆ おそらくその通りでしょう。恒産無くして恒心無し。 特に 日本の援助の仕方が推奨されるらしい。 ほかの国のそれは ただただお金や物をあたえるというやり方が多いらしい。日本は 仕事をおしえる。自助自立の方向へ持って行く。 へんな競争をすることもないでしょうが 中国に対しては 開発援助の先輩として しっかりとした姿を見せていけるようにしたいものです。 いつぞやの質問のスローガン:もっと自由に もっともっと自由に もっともっともっと自由に!
- 畑 茂夫(@Flareon)
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質問主文もお礼も読んだ。 しかし言語能力が高い私には、他人の言葉を理解しないと言う癖がある。 見る限り君の志は実に高い、考え方に背骨がある。 しかしその志アマテラスから拝領した誉は有るか。 死刑囚にうわさに溺れて、自らを卑下していないか。 それでいて、いやしい人間について語っていないか。 神が祝福する誉れある人間、西洋に溺れてこの哲学的組み立てができないまま、人間同士の尊厳のみを誉としていないか。 君に足らないところを責めるつもりはない。 私は自らが満ちるため、君に何を言われようと猿回しをする。
お礼
★ 私は自らが満ちるため、君に何を言われようと猿回しをする。 ☆ だと 独りだけでさとったブッダだということになります。 いつまで経っても ☆☆ 鬼に金棒 孫悟空に如意棒 ☆ が得られません。自分では得たつもりになっていたとしても。 《ガミガミ役》を嫌っているようだけれど 自分でそう成って行っている。のではないだろうか。 いつ あなたは 一歩前へあゆもうとするのか? ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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B様、こんばんは。 間違い無く「世界史的な存在としての、」と思います。 《一人ひとりとしてのわたし》
お礼
こんにちは。 そうですか。そうでしょうね。現代に到っては。 現代人は 例外なく そうなのでしょうね。 ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
証言しよう。 何か素敵な、私は生きていると言う幸福に対して。 ジラーチちゃんいわく。 いいやそれは死だ。 説明するにしても死だ。 君はこれで葛藤があるんでないかい。 アマテラスさんは使えない神ではないよ。 処刑されたアホと違って、現代で私が生き証人になる。
お礼
次のように言っています。: ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~ § 3 [・・・] 日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。 一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決してそれを実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり これについて ★ ~~~~~~~~~~~ ジラーチちゃんいわく。 いいやそれは死だ。 説明するにしても死だ。 君はこれで葛藤があるんでないかい。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですかね。タトヘで言えば。 まづ言うべきは 問題は姿勢なんだと思うわけです。心構えと言ってもよい。 《葛藤がある》という問題とは 違う。 《葛藤》として示しているのではない。 たとえ葛藤があったとしても そのこと自体を問題としているのではなく けっきょく全体として――そのひと個人の全体として・また世界の全体として――どう生きて来てどう前へすすんで行くか。という姿を・そういう姿の問題として 問うている。 その問う姿勢〔になるだけ〕ですでに 死を克服している。もしくは 克服するかどうかは もうどうでもよいと思う地点に立っている。はずです。 微妙に違うと思う。 こうやって 姿勢を示しそこから人びとが心構えをかたちづくって いま・ここなる地点に立った姿を見せて前へすすむとき ★ 現代で私が生き証人になる。 ☆ というような証拠や証人は これから先の将来の話である。 いまは 要らない。(あってもよいし よい内容のものは参考にするのだけれど それはいま欲しいというものではない)。 もっと言えば いま・ここから歩みを始めると言っても・そして歩み始めても じつはむしろそれが成功するかどうかの保証はない。どうなるか分からない。 たとえ ★ アマテラスさんは使えない神ではないよ。 ☆ だとしても そういう手段や手法は 使わない。一歩前へまづすすむことが 先である。 あやまち得る姿でもある。それでいい。その不確かさや不安を そのような神で取り除こうとは思わない。《使える神》を持ち出すことはしない。《使えない神》を――もし神にすがるとしたなら――むしろ持ち出す。願いを託す。 なぜなら 《使えない神》は 自分のことだから。《わたし》みづからのことだから。 そこで初めて――そういう問題についてどうしても触れるとすれば――《わたし》は 死を超えている。死を・死の問題を 死の問題としては 扱わない。そこにおける姿勢の違いがあると思われる。その姿勢に 歩み方の違いがある。 そしてそれは: ★ 何か素敵な、私は生きていると言う幸福 ☆ といった――おそらく前提としての――捉え方 ここからして違っているように思われる。 つまり 《幸福と不幸 素敵な幸福と足泥(なづ)むぬかるみを行く不幸》といった見方を問題としてはいない。つまりその見方を示すこと自体が 問題なのではないということ。 ヌカルミやシガラミを問題にするとしても すでに前へ歩む姿勢においてそうしている。姿勢の問題が先である。 その姿勢が得られているとしても その姿勢によってすでにうしろにあるそれまで辿って来た過去に対して 証人になることが問題なのではない。すでに一歩踏み出しているというその姿勢が――なおも続いて動態なのであるから―― 問題になる。 ご回答をありがとうございます。
お礼
☆☆ ふるいにんげんは ほろびる。 ☆ が――われながら――おもしろい。 ご回答をありがとうございます。