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イエスは自分が神であると大嘘をついた?
- イエスなる人間は自分が神であると大嘘をついた。
- その虚構は人類史上最大の哲学となった。
- 神であり人である人間が十字架上にはりつけとなった。
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こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ 口幅ったい言い分になりますが ねむりねこさんのご見解は なお前史のにおいがいたします。どでげす? ~~~~~~ わたしの聖書や仏典の読み方は、自由主義神学的な立場なものなので。だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。 性分ですから、これはしょーがない。 前史、プレヒストリーですわな~。キリスト教型グノーシスの域を脱していない。 《蛇》、大好きなんです。ミルトンのサタン、大好きなんです。失楽園のサタンの中に人間を見てしまう。。。。 たぶん、悪鬼・悪霊の頭ベルゼバブのファミリーなんですよ、眠り猫は(笑い) ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ 後史に入りかけている。つまり 二千年――ないし 神にとっては千年が一日なら 二日――ののち そろそろ というところではないのでしょうか? ~~~~~~ さぁ~。アガペーとエロスなんて言っている間は、まだまだなんじゃないですか。 でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。 何かの本で読んだ記憶があるのですけれども、違うのかな~。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ できれば経典の原文を添えて説明があることがのぞましいと思います。 ~~~~~~ これは、わたし独自の考えです。ブディストは、こんなことを絶対に言っていない、と思います。ただ、復活と再生(再び生まれる、再び生きる)の宗教的意味を抜きにして、現象として復活を再生ととらえれば、こうした考え方もできるということを披露したまでです。ひとつ理屈をコネてみせた。 わたし自身、これがどんなに無茶なものであるか、よく知っています。また、キリスト教の《復活》と仏教などの《再生》を同一視するつもりは毛頭ありません。 しかし《復活》という概念は明らかに《再生》という概念に含まれますよね、包含される。《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。 そこで、一つ質問。 ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか? ダニエル書では 「また地の下に眠りをる者の中 衆多くの者 目を醒まさん その中に永生に生を得るあり また恥辱を蒙りて限りなく恥じる者あるべし」 ダニエル書 12ー2 とあります。 「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。 ここのところはどうなっているのでしょうか。 イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった? そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう? これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。
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- NemurinekoNya
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こんにちはです。 今回はわたしのカオス部分を前面に出したので、あまり真剣に考えられても困るのですが。。。。 理論的整合性などまったく考えていませんし、思いつくままにただ書き散らしただけなので。 ただ、イエスの死とゴータマの死に対してつづった福音書と仏伝の間に多少の共通の類型が見られること、そして、このことに基づいて、法華経の如来寿量品を手掛かりにイエスの十字架(の意味)に新たなスポットライトを当てることが可能なのではないか、と言いたかっただけです。 イエスの十字架は神イエスの人類への愛アガペーであり、bragelonneさんのいうところの《大嘘》、法華経の《方便》と考えれば、 イエスの十字架 = 方便 + 神への愛・エロス = 神イエスの愛・アガペー + 神への愛・エロス と置き換えることもできます。 ここでのエロスは、プラトンの饗宴でソクラテスが述べたエロスの意味です。 つまり、イエスの十字架は「神の恵みであるとともに、その恵みの意味を知れ、自身で探れ」という我々へのメッセージ、福音なのではないか。そうした解釈もありえるのではないか、と言いたかったわけです。 ひどくbragelonneさんを混乱させる結果になってしまいました。反省、反省。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ という意味は どのように ★ アムリタを飲む ☆ のでしょうか? という問いが残るのではないか。 ~~~~~~ キリスト者はキリストの教えによってでしょう。違うんですか? キリスト者に「ブッダの教えによってアムリタを飲め」なんて無茶なことを、わたしは、言いませんよ。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ そのとき ですから ★ アムリタを飲み、不死になった。 ☆ ということが すでに成就していると はっきり言ったか? じっさいに成就していると語り切ったか? そしてその成就が 組織宗教には関係なく 信仰についても どの神をいだこうともそれには関係なく この世界の人びとに成り立っていると明らかに述べたか?――これが 争われると考えます。 ~~~~~~ もう嫌だなぁ~、アムリタを飲まなくても、ブディストは、色々な意味で不死なんですって。姿形を変えて、何度でも何度でも復活する。イエスさまに言われる前から、ブディストは、自身を含め、すべての生きものが復活を信じている、確信している。でなければ、その人はブディストと定義できない。そして、 復活の質的転換、それが無余涅槃や菩提、つまり、仏になること。 なので、 輪廻を説いただけで十分。復活を口にする必要はない。それはアプリオリのことである。そして、それはどのような神をいただこうが同じである、というになりはしまいか。 むしろ、イエスのようにゴータマに復活してもらったら困る。そして、ゴータマが復活しなかったということが、復活の(質的変換が可能であるという)真の証。そこに、ブディストはゴータマの、永遠不変の相としての復活の姿を見るのである。 言葉遊びに過ぎますでしょうか。
お礼
ええ。自由論文ないし随筆でまいりましょう。 ねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 でも質問者としては 理論中の理論ですから 気を抜くわけには行きません。 (1) ★ ここでのエロスは、プラトンの饗宴でソクラテスが述べたエロスの意味です。 ☆ 次に確認のために引用します。 ▼(ヰキぺ:饗宴) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4 § 構成 2.ソクラテスの演説 - ソクラテスは自分の説ではなく、マンネンティア出身の婦人ディオティマに聞いた説として、愛の教説を語る。 愛(エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち愛は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。 これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。 このような生産的な性質をもつ愛には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。 愛は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。 愛がもとめるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。 美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の愛である。(以上、ディオティマの説) ~~~~~~~~ ☆ おおむね よくもわるくもイデアとしての《宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)》との一体をめざすものと思われます。 (2) ★ つまり、イエスの十字架は「神の恵みであるとともに、その恵みの意味を知れ、自身で探れ」という我々へのメッセージ、福音なのではないか。そうした解釈もありえるのではないか、と言いたかったわけです。 ☆ で この質問としましては もうすでに《この神のめぐみは キリストの神ではない別の名の神のもとであっても 無い神のもとであっても それらが《非経験の場》として想定される内容に合致するかぎりで あたえられており そなわっており すでにハタラキを表わしている》と イエスは語った。 ○ めぐみの上にめぐみを われわれにあたえた。(ヨハネ福音一章) のであると。すでに一つ目のめぐみが エレミヤ書31:31以降のくだりです。《人びとよ きみたちの過去のあやまちについて われ(ヤハヱー)は関知せず。また 人びとに われ(=神)のことを知れと言っておしえることはなくなる。》と。イエスの誕生と死とで これが 成った。 二つ目のめぐみは? 《あたらしい天とあたらしい地》の成ること。ふるき人を脱ぎ あたらしきわれを着ること。 前史を終え 後史をはじめるということ。その意味で われわれの身と心とでのよみがえり。かな(?) 口幅ったい言い分になりますが ねむりねこさんのご見解は なお前史のにおいがいたします。どでげす? (3) ★ ~~~~ キリスト者はキリストの教えによって〔* アムリタを飲むということ〕でしょう。違うんですか? キリスト者に「ブッダの教えによってアムリタを飲め」なんて無茶なことを、わたしは、言いませんよ。 ~~~~~ ☆ ですから イエスは 死を死んだのち復活したとして大嘘をそのまま引き継ぐかぎりでは 人びとよ われわれは それぞれすでに アムリタを飲んでいるのだ。だいじょうぶイ。と語った。 後史に入りかけている。つまり 二千年――ないし 神にとっては千年が一日なら 二日――ののち そろそろ というところではないのでしょうか? (4) ★ ~~~~~ もう嫌だなぁ~、アムリタを飲まなくても、ブディストは、色々な意味で不死なんですって。姿形を変えて、何度でも何度でも復活する。イエスさまに言われる前から、ブディストは、自身を含め、すべての生きものが復活を信じている、確信している。でなければ、その人はブディストと定義できない。そして、 復活の質的転換、それが無余涅槃や菩提、つまり、仏になること。 なので、 輪廻を説いただけで十分。復活を口にする必要はない。それはアプリオリのことである。そして、それはどのような神をいただこうが同じである、というになりはしまいか。 むしろ、イエスのようにゴータマに復活してもらったら困る。そして、ゴータマが復活しなかったということが、復活の(質的変換が可能であるという)真の証。そこに、ブディストはゴータマの、永遠不変の相としての復活の姿を見るのである。 言葉遊びに過ぎますでしょうか。 ~~~~~~~~ ☆ ということを――わたし自身は これまでまなんだ限りでは ブディズム全般から――読み取れませんでした。と白状しているというのが この質問の姿勢でもあります。 でしたら このあたらしい福音を大々的に何度でもまた地の果てまでも つたえて行くべきです。 できれば経典の原文を添えて説明があることがのぞましいと思います。 そして ブディストたちのあいだで 自由な話し合いをもってさらに展開していくということになりましょう。ほかの信仰者たちとの話し合いも とうぜんのごとく 持たれましょうし。 (5) ちなみに その復活のすがたが成就するには――理論上はすでに成っていると思われますが 実地に実現するには―― 《きっかけ》は必要ですか? わたしの考えでは キリストの名を受け容れるひとの場合には 要りません。 それでも ほかの名の神によって《身と心が涸れない泉と成る》ことと《その姿であたらしい人への復活》を目指す人のばあいには――わたしの片寄った見方では―― 十字架上のイエスがそのキッカケになるのではないかと 推し測っています。 (6) そうですね。 これで だいたいの見取り図が いっしょに描けたのではないでしょうか? これを深めて行く作業が 待っていましょうか?
- NemurinekoNya
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あっ、もっといいことを思いついちゃった。 《泉》や《水》は、仏教の《甘露》・アムリタですよ、アムリタ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%82%BF アムリタを飲むと不死になるんですよ。インドの神々はこのアムリタを飲み、不死になった。 涅槃界は、パーリ語仏典で甘露界とも呼ばれている。 そして、アムリタと阿弥陀如来は、深い関係がある。阿弥陀如来根本陀羅尼(別名十甘露呪)では、 「阿弥陀仏の無限(アミタ)の慈悲を甘露(アムリタ)とたとえ。。。。」 (中村元編 大乗仏典 筑摩書房) ているんですよ。 仏教らしからぬ他力型の阿弥陀信仰とキリスト教。 法然の罪の意識とキリスト教の原罪思想。 な~んてね。
お礼
ええ。 図式として たぶんそうなのでしょうね。 という意味は どのように ★ アムリタを飲む ☆ のでしょうか? という問いが残るのではないか。 ★ 不死 ☆ つまり《復活》とそして《闇を晴らす光とみづからが成る》こととは 同じと言ってもよいかと思います。たぶん 段階があると思うのですが 総じて同じと見てよいとします。 そのとき ですから ★ アムリタを飲み、不死になった。 ☆ ということが すでに成就していると はっきり言ったか? じっさいに成就していると語り切ったか? そしてその成就が 組織宗教には関係なく 信仰についても どの神をいだこうともそれには関係なく この世界の人びとに成り立っていると明らかに述べたか?――これが 争われると考えます。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ ★ (α’)ゴータマは自らの寿命を伸ばすことができたが ☆ というとき イエスにあっては裁きを受けてはりつけの刑に処せられているその状態が 違うと思われますが この違いにはこだわらないこととします。 ~~~~~~ 悪魔の「そろそろよろしいのではないですか。ここらで、お隠れになってもよろしいんじゃないですか」という誘いがあったでしょう、ゴータマ・ブッダ。 ゴータマの「俺、寿命を伸ばせるのだけれど。。。」という問い掛けに対して、悪魔に心を支配されたアーナンダは答えなかった。これはユダの裏切り、あるいは、人によるイエスの裁きに相当する。この結果、ゴータマは死ぬことになった。つまり、イエスの十字架による刑死とブッダの自然死は、死の形の相違にすぎない。重要なのは、人の裁き・判断によって、イエスとゴータマが死んだという事実とその死の意味ではなかろうか。 どちらも、人間のために死ななければならなかったのだ。 死の形ではなく、人間のために死ぬということを重視するべきではなかろうか。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ (1) 《泉の水が川と成って わが心に 流れ出す》といったふうに・あるいは《わが心は 涸れない泉となる》というふうに ゴータマ・ブッダは 言いましたか? ~~~~~~ すいません、この言葉の出典がどこなのか思い出せないので、イエスの言葉から ヨハネによる福音書 第三章 4:13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 4:14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 この水 → 渇愛、物質的欲望 わたしが与える水 → ゴータマ・ブッダの与えた教法 永遠の命 → 涅槃 至る水 → ゴータマの教法 or 如来蔵 なんてどうでしょう。 ちなみに、この個所は、かつて、パーリ語仏典のアーナンダが賤しい娘から水を求めた個所との近親性が確か19世紀にヨーロッパで議論になった箇所です。つまり、仏典からのパクり疑惑がもたれた(笑い)。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ ☆☆ われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らした かも分かりませんが 《闇そのものを光に変えた》でしょうか? みづからの心の中の闇は 明知へと変えた。でしょうか? では 人びとの心の燈心に火をともしたでしょうか? ~~~~~~ 闇 → 無明 光 → 自性清浄心 or 光り輝く心 の図式でクリアーできるのではないか。 心の燈心 → 自灯明 でいかがでしょうか。 もっとも、自灯明の灯明は、本来、《島》を意味するので、少し塩梅が悪いのですが。 ゴータマの教え、ブッダが涅槃したという事実が、人々の心の燈心に火をともしたんじゃないですか。輪廻の軛から解き放たれることを証明した。 でも、涅槃は、ロウソクの火が消えることの意味か、ポリポリ。ゴータマ自身の火を人々に分け与える、布施する、廻向するのが涅槃と考えればいいか。 ☆☆☆☆☆☆ こんなことを真面目に考えているわけではないですよ。 ただ、法華経の如来寿量品を手掛かりにして《イエスの十字架》の意味を考えることも可能になるのではと。 イエスという存在の出現によって、神と人間との関係が正常に戻ったことが示された。(実は、前から正常な関係ではあったが、人々は失われたと考えていただけ。) そして、イエスはその関係・絆が再び失われないようにするため、死ななければならなかった。死んでしまったイエスを思慕し、神を忘れないようにするために。そして、この世にいつまでも存在して、人々が神で人であるイエスを頼りにしないために。 よ~するに、イエスの十字架 = 方便 + 神へのエロス論です。 いかがでしょう? ☆☆☆☆☆☆ 復活は、さすがに仏教的にまずい。 ですが、死んでしまったゴータマ、大乗では新たなブッダとして生まれ変わっていますし。それを復活とみなすことも可能なのではなかろうかと。 これはさすがに屁理屈にすぎるか、ポリポリ。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (1) ★ ~~~ 重要なのは、人の裁き・判断によって、イエスとゴータマが死んだという事実とその死の意味ではなかろうか。 どちらも、人間のために死ななければならなかったのだ。 死の形ではなく、人間のために死ぬということを重視するべきではなかろうか。 ~~~~~ ☆ あぁ。なるほど。そういう事情がありましたか。 ただ どうでしょうね。イエスは人間の貌(かお)とキリストという神の貌とを同時に持つと考えます。 その意味は ゴータマは ブッダでもあるのですが あくまで人間ゴータマ・ブッダという・言ってみれば〔とうぜんなのですが〕ひとえ(一重)の存在だと思うのです。 十字架のさかづきを飲むイエスは 人間の貌として大声で泣き さかづきを去らせてくれと神にねがいました。最後は みこころのままにと 身も心もゆだねましたが。 しかも キリストとしての神の貌にあっては のぞんでこの死地に就いたわけです。むろん 人びとからの排除という圧力を受けまた裁きを受けるというように 決して自死ないし自殺行為ではないかたちを取った上でです。そうですが 自分の命を捨てることも〔ふたたび〕得ることも出来ると言ってもいます。 明らかに――話のかぎりでは――ふたえ(二重)の性格のもとに コトがはこばれています。 おそらく それでこそ――二重の貌として存在するという仕組みであってこそ―― 《ひとの心の燈心をともすことができる》のであろうと思われます。 つまりはたぶん 《寿命を延ばせる》ということと微妙に事態がちがうように思います。それだと 延命と言いますか 寿命の自由自在な調整といったことが 人びとよ きみたちも出来るよと言ったかたちではないかと。《心の燈心をともす》のと微妙に違っているような。 この論点は 次にも継ぐことになります。 (2) ★ ~~~~ この水 → 渇愛、物質的欲望 わたしが与える水 → ゴータマ・ブッダの与えた教法 永遠の命 → 涅槃 至る水 → ゴータマの教法 or 如来蔵 なんてどうでしょう。 ~~~~~~ ☆ 微妙と言いますか 《教法・如来蔵》のその実際のハタラキがどうであるかがよく分からないのですが 何度も――たとえによってですが―― ふたつのコトを分けています。つまり 《オシエが光として闇を照らす》ということと《人の心の燈心そのものを火としてともし 言わば光そのものとなる。ゆえに 闇そのものを光に変える》ということとは別だと見ています。 後者を ブッダは言っていないのでは? という見方に立ちます。 たしかに如来蔵ないし清浄心であるなら すでにわが心そのものが――闇ではなく――光となっていると言えるかと思いますが ひとつに はっきりそう言っているかどうかの問題であり もうひとつに そうなる(仏性が現実にハタラキを持つ)には 何らかのきっかけが必要であるのではないか この問題があると思います。 すでに闇はなく光である――ただしこの世界全体としては・その中にあって闇をも見ている――ということが なんらのきっかけもなく(もしくは 十字架上の死とそのあとの〔物語としての〕復活をきっかけとして) 実現している。とイエスは 旧約からの聖書全体とともに 語った。 そういう意味での《即身成仏》です。 微妙にブッダないしブディズム全般は これとは違うように思われます。どこかに小さな狭い溝がある。ように思えます。これは 感じです。というのは 直接にはっきりと《心が涸れない泉になる》と言っていないとしたら そうだという意味です。 次も同じ主題がつづきます。 (3) ★ ~~~ 光 → 自性清浄心 or 光り輝く心 の図式でクリアーできるのではないか。 ~~~~~ ☆ それに プラスきっかけが要るのでは? ★ ~~~ 心の燈心 → 自灯明 でいかがでしょうか。 ~~~~ ☆ 《灯明》と捉えて考えるとしても 微妙に違いを感じるところというのは 自灯明の場合は むしろ人間がみづからの意志と知性や感性とで《おのれの燈心をともす》と言っているように聞こえます。(《自分を島とせよ》という場合には よけい自力の問題になっていると考えられます)。 趣旨説明欄の(ε)の言うように 《闇を照らすこと》と《闇を晴らすこと》との違いが残るように思われます。 さらに考えるなら ★ 輪廻の軛から解き放たれることを証明した。 ☆ かも知れないけれど ★ ゴータマの教え、ブッダが涅槃したという事実が、人々の心の燈心に火をともしたんじゃないですか。 ☆ と はっきり言えるかどうか? この一点で どうもあいまいなままではないか? という心配です。自分でそれぞれ灯明になれと言ったかも知れないけれど オシエや涅槃の実現が心の燈心をともしたかどうか? そういうのぞみを持たせた。とは言えるのでしょうね。 (4) ★ ~~~~ そして、イエスはその関係・絆が再び失われないようにするため、死ななければならなかった。死んでしまったイエスを思慕し、神を忘れないようにするために。そして、この世にいつまでも存在して、人々が神で人であるイエスを頼りにしないために。 よ~するに、イエスの十字架 = 方便 + 神へのエロス論です。 いかがでしょう? ~~~~~~ ☆ たぶんイエスの・歴史における出現の意味は ひとえに《心の燈心がすでにともっている》と知らせること――その根拠は無根拠であるということ・強いて言えば 十字架上のわたしを思えというきっかけを見せた――であると考えます。 無根拠という意味は 神はひとつだということ。全体という意味で ひとつ。それは 類型としての一般概念と見立てた《梵我一如》の構図が あらゆる神に――そして《無い神》にも――当てはまるということ。 この理論を語ったこと。ここに歴史的な登場の意味があると思います。 宗教は要らない。信仰は 類型としてひとつ。そのチカラは 心の燈心の火であり 涸れない泉の水であると。それは すでにともされており 水は流れているよと。 こういったことを ブッダは言ったかどうか。それが 避けて通れない主題であり論点であろうと考えます。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 今回はめずらしく、カオティック眠り猫の心の声でございます。 十字架の意味を考えず、これをただ生理的な死とし、神を仏と置き換えれば、ゴータマ・ブッダとその死の問題に早変わりだわな。 これは、法華経の如来寿量品と同じロジック・構図になりはしまいか。そして、《大嘘》は《方便》に早変わり!! (α’)ゴータマは自らの寿命を伸ばすことができたが、それでは自分が人間とは無縁な存在であるということになってしまう。(だから、死んでみせた) (β’)だから、ゴータマは仏として去った。もし、ゴータマがただの人間であったならば、それまでの彼の活動を含めて、すべて殊勝な目立ちやがりやのやったこと。 (ζ’) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく ゴータマはみづからが仏なる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (η’) それは 人間にできることではない。永遠のブッダ・その(分)霊である応身仏ゴータマのみがよく成し得る。と示した。 (θ’) しかもこれらすべては 《方便》である。一編の虚構である。 な~んてね。 でも、ここは、中観的なロジックではなく、岩本裕訳・法華経の如来寿量品偈の美しい日本語訳詩をもとに、詩型にした方が良かったのでは。 その方が哲学を芸術の一つのカタチとしてとらえるbragelonneさんの本意にかなっているのではないかと(笑い)。 それを僕にやれとは言わないでくださいよ。僕には芸術的才能、とくに文学的な才能はまったくないもので。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ (α’)ゴータマは自らの寿命を伸ばすことができたが ☆ というとき イエスにあっては裁きを受けてはりつけの刑に処せられているその状態が 違うと思われますが この違いにはこだわらないこととします。 そうしますと ★ (ζ’) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく ゴータマはみづからが仏なる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 ☆ このひとつの項目にのみ こだわりを残すように思います。 (1) 《泉の水が川と成って わが心に 流れ出す》といったふうに・あるいは《わが心は 涸れない泉となる》というふうに ゴータマ・ブッダは 言いましたか? (2) つまり ☆☆ われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らした かも分かりませんが 《闇そのものを光に変えた》でしょうか? みづからの心の中の闇は 明知へと変えた。でしょうか? では 人びとの心の燈心に火をともしたでしょうか? (3) ですから このうたがいにマチガイがなければ ☆☆ (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 のは イエスのみだと まだ思えるのですが どうでしょう? (4) 《さとり ないし すくい》の一般類型としての《梵我一如》 これは 《闇を照らす光》として 世界史上いくつか現われた。 では 闇そのものを光に変えた。そしてそうすることを 万人に成しうるようにさせた。のは どうもイエスひとりであるように わたしには写ります。 狭隘さを指摘いただければ さいわいです。 つまり キリスト・イエスは そのように心の燈心をともしますよとみづからが言っているというそれだけのことなのですが。 おとぎ話の世界に足を踏み入れている議論ではありますが。
- SakuraiMisato
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そういう虚偽の目的は何だったのでしょうかねぇ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ただし 微妙に誤解があると考えます。 ★ 虚偽の目的 ☆ ではなく 《大嘘をつく》ことを手段とする ということです。 《目的》は 趣旨説明欄に書いているとおりです。《わたし》の心の燈心をともすことです。
なるほど。この点に関してはこれ以上議論しても無意味でしょうか。 この点で私からの結論を繰り返すと、 クリスチャンは自分の罪と格闘してきた。 神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることができる。 となります。 その他の論題についても恐らく平行線でしょうか。しかし、 御子イエスはある時点で「生まれた」。 ゆえに、御子は御父なる神から創造された者。 ということになります。心のどこかに留めておいてください。
お礼
応えは要らないという意味でしょうか? 念のために: 1. 《罪との闘い》をわざわざ置くのは ご自由です。 2. それを 人間のチカラのみで勝利にみちびくと思うのは たぶんマチガイでしょう。 3. 《はじめにことばがあった》と言っているのに ★ 御子イエスはある時点で「生まれた」。 ☆ というふうに《ある時点》を持ち出すのは いかがなものでしょう? 今回のご回答内容は ぜんぶきれいさっぱり忘れます。
補足
つぎのような聖句があるにはあります。 ▼ (箴言8:22- ) ~~~~ 8章 22節: 主は、その道の初めにわたし(=知恵)を造られた。 いにしえの御業になお、先立って。 23: 永遠の昔、わたしは祝別されていた。 太初、大地に先立って。 24: わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。 25: 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが わたしは生み出されていた。 ~~~~~~~~~~~ ☆ ここは 《ことば(ロゴス)》ではなく 《知恵(ホフマー・ホクマー)》(箴言8:1)です。
- SakuraiMisato
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イエスには『ノーベル平和賞』を贈れな…!?
お礼
どうでしょうねぇ。
No.22です。 ご指摘のとおり、ローマ1:17のように、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。 そして、改めて言うのですが、その信仰は行いによって証明されなければならないのです。これが先回挙げたヤコブ2:17。それは、かのアブラハムでさえもそうでした。 「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」ヤコブ2:22 そして、アブラハムの時と同じように、その行ないが本当に神とキリストの目にかなっているかどうか、つまり是認を得られるかは、私たち人間ではなく、神がお定めになる基準に基づいているのです。それを教えているのが、先回挙げたマタイ7:21です。自称クリスチャンすべてが是認を得られるのではありません。 ですから、イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と勧めました。「神の義」にご注目。神の是認を得るには、この神の義に達する必要があります。 その実例が、ローマ10:1-3にあり、パウロは当時神殿で奉仕していたユダヤ人についてこう言いました。 「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」 ですから、「神の義」という神の定める基準に達するのでなければ、神からの是認は得られません。自分が勝手に定めた「自分の義」をもっては是認を得られません。 しかし、私が捌くのではありません。聖書によって示されている神の義の基準に基づいて人々は裁かれるのです。しかし、そのような不利な裁きに陥らないよう、人々は「狭い門」をくぐるように精力的に励まなければならないことを私は指摘しているだけです。それを怠り、かの審判の日に有罪の裁きを受けることがないようにするためです。聞く耳のある人は聞きなさい。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (1) ★ そして、改めて言うのですが、その信仰は行いによって証明されなければならないのです。これが先回挙げたヤコブ2:17。それは、かのアブラハムでさえもそうでした。 ☆ それは 人によります。あるいはつまり 神の気ままによります。決まっていません。あるいはつまり われわれ人間が決めるものではありません。 (2) ★ 「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」ヤコブ2:22 ☆ つまり ▼ (ヤコブ書 2:21-26) ~~~~ 21: 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。 22: アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。 23: 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 24: これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。 25: 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。 26: 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。 ~~~~~~~~~~ ☆ 弱ったなぁと言わなければならない聖句ですね。 二点あります。 (2-1) 《信仰だけによるのではなく おこないをともなってこそ義とされる》 これは 人びとからそう見なされるという意味に解するのが よいと思われます。 言いかえると おこないを伴なわない場合には その人の信仰をうたがう人がいるということを意味します。 そして それだけのことです。言いかえると 信仰によってあゆむ。ゆえに 必要に応じておこないをも伴なわせることが出来る。です。 だけれども そういうことを 他人(ひと)が言うことではないはずです。裁こうとすることになるからです。 (2-2) おこないが伴なうというのは やはり人によります。人それぞれです。アブラハムはアブラハムなりにおこないを伴ないました。 というよりも これは あくまで神による試練であって そうではなく信仰を得てからの 日常生活における実践という意味では 別にもんだいはない。こう言うべきだと考えます。社会生活をまともにいとなんでいること これが 《おこない》だからです。 なぜなら もうすでに《神を知れと言っておしえることはなくなっている》からです。 ▼ (ヤコブ2:26)・・・行いを伴わない信仰は死んだものです。 ☆ これは 抽象的すぎます。《おこない》という言葉の意味するところとしてです。アブラハムの事例としてなら それは ふつうの一般的なおこないではなく わざわざ神がその信仰を練り上げるためにあたえた試練ですから 《おこない》と言っても 特殊だと見るべきでしょう。 やれやれ ヤコブは人騒がせなり。 (3) あとは 聖書から聖句を引っ張り出して来て おのれの物知りぶりをひけらかしている。としか映りません。 その《おこない》こそが 《自分の義を求めている》のではないですか? ★ 聞く耳のある人は聞きなさい。 ☆ ではなく そうではなく 自分がどのように聞いたか それを互いに伝えあって 信仰を深める。という段取りであるはずです。なんでそんなに声高にさけばねばならないのでしょう? 神のはかりごとに どこか欠陥があるというのでしょうか? それとも 神の世界の進め方が 遅いといった不平不満なのでしょうか? それとも 何でしょう?
No.21です。 最も重要だと思われる点だけ取り上げます。 >☆ 個々の罪が残っていることは 共通の理解に立てました。〔はじめから そう言って来ています。⇒上記(1)〕。 >それと同時に 今度は 違和感をおぼえることは わざわざ《格闘しなければならない》と言っていることです。その必要はありません。 要するに、贖罪後は、神と「無条件で」和解が成立する、という見解でしょうか? あるいは、それにはやはり「条件」がありますか? その条件には、もちろん、信仰が必要であることは明らかだと思います。さらに、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」とヤコブ2:17で言われています。 それゆえ、イエスはマタイ7:21で、「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」」と言いました。それゆえに、マタイ7:13で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とも言われたのです。 キリストの贖罪によって「神との和解」への道が開けました。しかし、それによって「神からの是認」が自動的に得られるのではありません。では、どうすれば、その是認が得られるのでしょうか? 神が示す義の基準に達するにはどうすればいいのでしょうか? 実際、アダムはその義の基準から逸脱したためにエデンから追放されたのです。 改めて質問します。贖罪後なら、すべての人が、エレミヤ31章のような状態に達することができるとお考えですか? あるいは、それに該当する人には何か条件がありますか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 (1) ★ 要するに、贖罪後は、神と「無条件で」和解が成立する、という見解でしょうか? ☆ わたしという人間の口から言う言葉としては その答えは 《無条件に》です。 神は この意味合いでは 無根拠のことです。不合理極まりないチカラです。 (2) ★ その条件には、もちろん、信仰が必要であることは明らかだと思います。 ☆ イエスの生誕のとき真っ先に知らせを受けたのは 羊飼いの少年たちです。無条件にです。 風は 気ままに吹くのです。 (3) ★ さらに、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」とヤコブ2:17で言われています。 ☆ 毎日の生活を家族や会社や地域の人びととまじめにいとなんで行くこと これが 《おこない》です。 (4) (2)および(3)において ★ それゆえ、イエスはマタイ7:21で、「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」」と言いました。 ☆ となります。 (5) ★ それゆえに、マタイ7:13で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とも言われたのです。 ☆ だいじょうぶ。門は開いています。みちびくのは あなたではなくまた人間ではなく ・・・ですから。 まさか あなたが 右と左とに人びとを捌こうというのではないでしょうよ。だったら 心配ご無用。 (6) ★ キリストの贖罪によって「神との和解」への道が開けました。 ☆ これが マチガイ。(1)でも《贖罪後》と言うようにそうでしたが これつまり《贖罪によって》という見方は あさってのほうを向いているという意味でのマチガイではありませんが 神との和解は 天地の創造の初めから出来ています。それが 神のみこころです。あったりまえぢゃん。 (7) ★ しかし、それによって「神からの是認」が自動的に得られるのではありません。 ☆ ぢゃあ何ですかい あなたが是認の捌きをつかさどっているとでも言うのですか? あわれもうと思う人間をあわれんでくれます。いつくしもうと思う人間をいつくしんでくれます。心配ご無用。 (8) ★ では、どうすれば、その是認が得られるのでしょうか? 神が示す義の基準に達するにはどうすればいいのでしょうか? ☆ だから 何で人間であるあなたが それを決めようとするのですか? (9) ★ 実際、アダムはその義の基準から逸脱したためにエデンから追放されたのです。 ☆ そんなことは とっくの昔に神はお見通しであるに決まっているぢゃないですか。 冒険の旅にでも出かけなさいと言って エデンの園から追い出されたのです。はじめっから 旅をさせようとしていたに決まってるぢゃないですか。何をいまさら ぶつぶつつぶやくのですか。 (10) ★ 改めて質問します。贖罪後なら、すべての人が、エレミヤ31章のような状態に達することができるとお考えですか? あるいは、それに該当する人には何か条件がありますか? ☆ エレミヤは その声を聞いたのです。たしかにエレミヤの耳には 聞こえたのです。それが すべてです。要らんことをぶつぶつ言っているときでも場合でもありません。 何なら それよりさらによい言葉をあなたが聞けばいいのです。そういう問題です。ぜひその言葉をわれわれに知らせてください。 ふたたび。 ▼ (パウロ:ローマ書1:17) ~~~ 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。 「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4) と書いてあるとおりです。 ~~~~~~~~~~~
No.20です。 (結論)クリスチャンは自分の罪と格闘してきた。 神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることができる。 >★ 「罪はない、罪はなくなった」という考えは >☆ どこにも言っていません。 これは、No.16のお礼の(3)の、「>もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。・・・」という見解を受けての回答でした。聖書には、使徒たちが自分たち自身の内にある罪を自覚し、それと闘っていたこと、また、他のクリスチャンにもそのように奮闘することを激励していたことが記録されています。 > ☆ すなわち > ▼ (7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 > ☆ と書いてあるではありませんか。 いずれもパウロは罪との苦闘を現在形で書いています。実際に、彼はローマ人への手紙を書いた時点で実際に罪と格闘していました。 元来、罪人となった人間は罪との闘いにおいては無力であり、絶望的な状態にありました。しかし、キリストの贖罪によって、神との和解が可能になり、神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることが可能となったのです。このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。 >・・・つまり いわゆる原罪は――個々の罪とはちがって―― イエスのときにチャラになった。こういう意味です。 なるほど。確かに、アダムに代わって、イエスがアダムの子孫を買い戻した、請け戻したという意味においてはそう言えなくもありません。しかし、依然、「個々の罪」は残っていて、それと格闘しなければなりません。 >現在は どういう位置にあるか? ここまで示すべきでしょう。 大変良い質問だと思います。キリスト以降、現在までは「キリストの花嫁」を選定する期間でした。「キリストの花嫁」とは、前回挙げた啓示20:4-6に示されているキリストと共に支配する者たちのことです。彼らについては、別に啓示14:1-5で「子羊(イエス)と共に立つ14万4000人の者」として示されています。そして、彼ら全員が選ばれ集められ終えた時、「子羊の結婚」が行なわれます。これは、啓示19:6-9に記されています。その後に、前回にも挙げた啓示19:11-21のハルマゲドンに至るのです。ですから、今までの約2000年間は、キリストと共に王また祭司として支配する者たちを選定する期間でした。 ◎いずれにしても、大変重要な点は、キリストの贖罪によって、「神は 人びとの罪について もう覚えることはないと言った(No.20のお礼から引用)」という状態が、「自動的に」つまり、「何の訓練もなしに」または、「何の苦労、苦闘もなく」成立するのか?という点だろうと思います。一例を挙げましょう。 「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」ローマ8:17 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブ1:2-4 他に例を挙げればきりがありません。クリスチャンはみな自らの罪と、さらには迫害などの試練と格闘しなければなりませんでした。それは神からの訓練であり、それを忍耐する時に人格は精錬されて、結果、完全な人になって神の栄光を帯びるようになるのです。したがって、贖罪だけで、自動的にエレミヤ31章の状態が成立することはありません。神からの訓練により、罪と格闘して、勝利を収めた者だけが、そのような状態に達することができるのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (1) ★ 聖書には、使徒たちが自分たち自身の内にある罪を自覚し、それと闘っていたこと、また、他のクリスチャンにもそのように奮闘することを激励していたことが記録されています。 ☆ そのような罪のことをわたしが見ていないというのは 言いがかりです。たとえば 同じその箇所で次のように述べています。 ☆☆ (No.16お礼欄) それほど人びとのあいだでは 自由意志の弱さがいやというほど思い知らされていた。その情況を創世記・エデンの園の話に反映させた。これだけのことです。 (2) ★ ~~~~ 元来、罪人となった人間は罪との闘いにおいては無力であり、絶望的な状態にありました。しかし、キリストの贖罪によって、神との和解が可能になり、神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることが可能となったのです。このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。 ~~~~~ ☆ 二点でマチガイです。 (2-1) ひとつは たとえ旧約の時代であっても 罪をめぐって《絶望的な状態にある》などとする見方は いただけません。 見なさい。 ▼ (ローマ書1:17) ~~~ 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。 「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4) と書いてあるとおりです。 ▼ (同書4:3-12) ~~~~ 聖書には何と書いてありますか。 「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」 (創世記15:6) とあります。 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」 (詩編31:1-2) では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ このような聖句を あなたはないがしろにしていますか? 高ぶりの心で罪がどうだこうだと言っていますか? どうですか? (2-2) ★ このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。 ☆ したがって (2-1)では すでにアブラハムの頃から 信仰が罪とその苦悩を凌駕しているということを忘れてはいけないということを述べました。 それと同時に これまでにも指摘して来ましたが どうも両極に議論が振れてしまいがちであるということです。 《罪の意識にくるしむ》か《罪のない状態》かという二極のことしか見ようとしていない。これではいけません。しかも もし神の国の外交官であるなら むしろ罪にくるしんでいる人びとにこそ声をかけるようにしなければなりません。それは あくまで信仰が罪を――現にある・起こっている罪を――覆い包んでやわらがしめられるという道です。そのことを言えないとすれば あなたはまだ和解を得させられていない。こう判断せざるを得ない情況ではあります。 しかも 自分の述べる理論こそが 聖書の心だと言おうとしています。 高ぶりのこころを 風の吹くさまに しづめましょう。 (2-3) 以上のような意味を ▼ (ローマ書7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 ☆ は持ちます。 (2-4) 同じ主題ですので 次の段落の次のくだりについても ここで触れます。 ★ しかし、依然、「個々の罪」は残っていて、それと格闘しなければなりません。 ☆ 個々の罪が残っていることは 共通の理解に立てました。〔はじめから そう言って来ています。⇒上記(1)〕。 それと同時に 今度は 違和感をおぼえることは わざわざ《格闘しなければならない》と言っていることです。その必要はありません。人におうじて その罪に応じて 《格闘》がおこるかも知れなくても 問題は 和解のほうです。すでにあたえられているということ このことのほうをきちんと外交活動の中で中心となる主題としてつたえなくてはいけません。そのつとめにあゆんでください。 (3) ★ ・・・ですから、今までの約2000年間は、キリストと共に王また祭司として支配する者たちを選定する期間でした。 ☆ そうしますと エレミヤ預言(ヘブル書8章)の内容と競合しますね? ★ 王また祭司として支配する者たち / 啓示14:1-5で「子羊(イエス)と共に立つ14万4000人の者」 ☆ というように限定することは どちらかひとつしか真実はない。ことになりますね? エレミヤは すべての人びとについて 罪はおぼえられることはなく また神の名を知れと言っておしえることもない こう言っているのですから。 あるいは こうでしょうか? つまり 《それら祭司ら指導し支配する者ら》が選定されたその途端に もう《少数者による指導や支配》はなくなる――こういうことでしょうか? それなら エレミヤとの整合性がありますが どうもそうではないのでしょう? 王や祭司に任じられた途端にその職を解かれるということは 考えられませんから。 現代・現在についての説明を受けては このような反応になります。 (4) エレミヤ預言は 《人びとに対して 「何の訓練もなしに」または、「何の苦労、苦闘もなく」成立するのか?》 (4-1) ▼ キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」ローマ8:17 ☆ この場合の《苦しみ》とは たとえば次の内容を指しています。 ▼ (ガラテア書5:24) キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 ☆ つまり 罪に悩むといった筋とは別です。これこそむしろ試練であり 《訓練》です。 (4-2) ▼ 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブ1:2-4 ☆ これは 道徳規範のごとくであって あまり重視しなくてよいと考えます。上の試練に遭っていれば おのづとその境地は出来上がって行きます。 (5) ★ 贖罪だけで、自動的にエレミヤ31章の状態が成立することはありません。 ☆ これが 根本的なマチガイだとわたしが見るところです。 《贖罪》は 付け足しです。エデンの園の物語でヘビを出してしまったから そのつじつま合わせだけの問題です。 問題は キリスト・イエスから――聖霊をつうじて――《めぐみの上にめぐみを受けた》(ヨハネ福音1:16)そのことです。 ○ 人の内から生きた水が湧き出る に焦点を当てます。当てるべきです。 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~ 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の 内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。 ~~~~~~~~~~~~ * 《聖書に書いてあるとおり》の出典 ~~~~ ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~ わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~ 主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。 ~~~~~~~~~~~~~ そうして《罪》や《訓練》うんぬんと言うより ▼ (ローマ書1:17) 「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4) ☆ に拠るべきです。
お礼
話はさらにやはり佳境に入ってまいりました。(この時間 ちょっと昼寝をしていました)。 ご回答をありがとうございます。 (1) ★ だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。 ☆ まったく同じ文章で同じことを わたくしも言います。そう思っています。 そしてただしその思いを突き抜ける志向性の起こることをも感じています。 そのふつうの思いだけで終えるなという心の明けを感じます。 それだけです。そういうあやういつり橋をわたっています。 それも 人間の思想の一端をになうことがありうると思ってのことです。 (2) ★ でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。 ☆ もしアガペーを感じるかと言われれば それは たとえばいまさっき述べたように 何だか知らない心の伸びが どこかに感じられるといったこと それなのかなぁというところです。 たぶんこの志向性は――つまりあるいは 世界との関係におけるそのわが心のヱクトルのようなウゴキは―― エロスと言ってもそれほどマチガイではないように思われます。 言いたいことは たぶん 概念・イデアは わが《非思考の庭》はそれらを超えている。です。 知性や感性が 概念やイデアで《非思考の庭》を捉えるというよりは 非思考の庭のほうが 人間のふつうの生活および社会のことがらを捉える。(そのあと ふつうの世界観として 経験合理性にもとづく文章をのべなくてはいけませんが。つまり ヒラメキを解釈して定まった判断として明らかにせねばなりません)。 (3) ★ 《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。 ☆ えっ? そんなに複雑ですか? いえ 分かって言っているのでもなく 《ふるい人を脱ぎ あたらしい人を着る》 これだけだとも思っているのですが。 ★ その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。 ☆ いまの身と心 身体と精神 このような自然本性のヒトが すっかり《霊の身体》に成り替わる。霊の身体にも 身と心とがあるのだと思います。あたらしい自然本性としてよみがえるのだと思います。 そのとき復活・再生と言うのですから 《わたし》はそれぞれにおいて保たれる。こうも思います。 あたらしい天とあたらしい地とともに あたらしく成るのだと予感されます。 (4) いまは 《予感》を持ったその上で 具体的に社会にあって何が出来るか。これを問い求めて行けばよい。人間観や存在論をさらにあたらしくし深めて行くこと。 そのように実際 誰もが生きているし 実践していると思います。 わづかに その《予感》の点でわたしのような風変り人間が出しゃばって 歴史の方向をああぢゃこうぢゃと言うという情況になっているのだと見ます。 (5) ★ ~~~ そこで、一つ質問。 ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか? ~~~~ ☆ わたしの答えは わからない です。もっと露骨に《知りません》と言いたいところです。 黙示というのは 啓示と同じことだという見方もあるようですが 必ずしも経験合理性において意味が通じるというものではない。と言うより ぜんぜん理解が出来ないか 定まらない。と思います。 ほんとうに《分からない》 これが答えなのですが? ですから 復活については パウロに拠るべきだと考えます。 あるいは その人自身の独自のヒラメキによる解釈が これからは出されて来るのではないでしょうか。 肉の身体(身と心)があるなら 霊の身体(あたらしい身と心から成るあたらしい自然本性)もある。これだけで――この予感だけで―― いまは進んでもよいと考えます。 (6) いちばん分かり易い考えを披露します。ずばり復活のことではないのですが それでも こうです。 いまふつう寿命は 百歳だと見るとすれば その点ではずばり再生が成るとするなら 平均寿命が二百歳になるということ。です。これも 復活の内に入るのではないかと思っています。 ズッコケますか? それ以上は延びなくてもよい。二百年は 人間にとってもうすでに永遠です。不死です。 (7) ★ ~~~ 「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。 ここのところはどうなっているのでしょうか。 イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった? ~~~~ ☆ エレミヤによるなら そのようにイエスの出現によって変わったとなると思います。 ★ そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう? ☆ ここは 例の予定説にかんする扱い方を応用します。たとえ《永遠に〔恥ぢる〕》のだとしても それは 人間には分からない。誰がそうなるのかは 人間に知らされてはいない。無理である。こう言って 話を打ち切ります。 ★ これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。 ☆ そうですね。 おまえのカオスとノモスとエロスその他その他全部をひっくるめて 心の真実をのべよと言われれば ○ 最後の審判は どうでもよい。 これです。聖書の記事を無視します。という意味です。 なぜなら 《永遠の現在》としての《非思考の庭》 これのわが動態を思うのみ。だからです。 たぶん最後の審判も このわが《永遠の今》にひっかかっていることでしょう。でも どうでもよい。心底から そう思います。