- ベストアンサー
ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?
中村 元訳「ブッダのことば」 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」 さて、質問です。 「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」も字句通りに読んで、これが解脱の効果の一つなのだと思います。釈迦の時代には、こうした考えをもてることも公言できることも並大抵の事でなかったのかも知れません。 一方、今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。少なくとも私はそうです。死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。学者や僧侶でなくてもよいのですがブッダの思想に通じている方の説教をお訊きしておきたいです。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (9)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
釈尊の死後観を考える上で、明記しておかなければならない点は、当時のインド人にとっては、輪廻転生とは当たり前の話で、しかも、その輪廻転生というものを、我々の想像をはるかに超えて、非常に恐ろしいものであると考えていた点にあると思います。それですから、「かれはもはや再び世に生まれるということがない。」との釈尊の言葉は、当時のインド人の根底からの願望であったのです。現代人が描く輪廻転生というと、どちらかと言えば、また、人間に生まれ変わるという具合に、輪廻転生を楽天的に考える傾向にあると思います。しかし、当時のインド人は、非常に悲観的に考えていたわけです。禽獣のような、生きることそれ自体が、他の動物に殺されることの恐怖を、いのちの根底で絶えず感じていなけでばならず、始終、周りに気を配り、びくびくしながら生きざるを得ない。また、実際、他の動物の餌として、死ぬことにもなる。そのようなことが無限の間、続くということに対する恐怖の思いが、根強くあったのだと思います。 「以前に、他の幾多の生涯においてわたしの作った悪業は、いまこの世においてその報いを受けねばならぬ。しかし〔のちに〕他の〔生存をひき起こすべき〕根拠(素因)はもはや存在しない。」(サミティグッタ長老) 「苦しみは終わった。諸要素の集合よりなるこの身体―生まれることと死との輪廻にかかわる―は最後のものである。いまや迷いの生存を再びくり返すことはない。」(ヴァッダ長老) 「前世において、わたしは、母子や父兄や祖母として生まれました。わたしは〔事物の真相を〕ありのままに知ることなく、〔さとりの境地を〕見出さないで、輪廻しました。 〔しかるに〕わたしは、かの尊師にお目にかかりました。これは、〔わたしの〕最後の身であります。わたしは、生まれをくり返す輪廻を滅ぼしつくしました。いまは、もはやふたたび迷いの生存をつづけることはありません。」(マハーパジャーパティー尼) 「涙と、乳と、血と、始めも終わりもない輪廻を想い浮かべてください。生ける者どもが輪廻して、骸骨が積み上げられたのを思い浮かべてください。 涙と、乳と、血とを集めると、四つの大海となることを想い浮かべてください。〔一人の人の〕一劫のあいだの骨を集めると、ヴィプラ山にも等しい大いさとなることを思い浮かべてください。 不老(解脱)が存在するのに、なぜ、あなたは、老いるはずのもろもろの欲望を求める要がありましょうか。すべての生まれは、どこでも死と病いに捕らえられています。 これは不老である。これは不死である。これは老い死ぬことのない境地である。憂いなきものである。敵なく、圧迫なく、過ちなく、恐怖なく、悩みがない。」(スメーダー尼) 「くり返し、一つの生存から他の生存へと、〔生まれかわりつつ〕己が身を尊重し、生死のうちをへめぐりながら、己が身を超えることができない。」(シースーパチャーラー尼) 以上は、養母であったマハーパジャーパティー尼等の釈尊の直弟子の告白である、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』からの引用ですが、これらを見ても、当時の出家修行者が輪廻的生存を如何に恐れていたか、そして、「不死の境地」としての解脱に達したことを、言い換えれば、もはや、この世に二度と生を受けることがなくなったことを、如何に喜んでいたかが、手にとるように私たちのこころに迫ってきます。 また、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は、『スッタニパータ』にやや遅れてかと思いますが、編集されたもので、ここでは釈尊のような神格化の問題が一切なく、釈尊の教えを知る上で、第一級の文献となっています。 原始仏典に説かれる、『不死の境地』、『不滅の境位』とは、故中村元氏よれば、自らの三世の生命流転のありさまを如実に覚知することができる境地であると語っています。「この世とかの世とをともに捨て去る」という、一切の執着を止滅した中道の境地である、『不死の境地』こそが修行の目的であり、自らの過去世をも知りうる三明の悟りは、その解脱の境地から、必然的に悟ることになるものなのでしょう。 このため最初期の仏教修行者は解脱を求めて、尼僧さえも、虎や大蛇の出没する岩山や岩窟、あるいは寒林(死体埋葬所)で、ひたすら禅定の修行を行っていたのです。ジャイナ教の苦行僧には、今日においても二十年以上、横臥せず生きている人がいますが(睡眠は立った姿勢でとる)、『テーラーガーター』を見ると、解脱が得られるまでは、決して、横臥せず、三明の明知を得るために禅定の修行に打ち込んだ長老の告白もあります。これは、裏を返せば、如何に輪廻に対する恐怖があったかということです。サーリプッタも、教団結成以前は、釈尊の禅定の指導を仰ぎながら、一人、岩窟で禅定を修していたことが知られます。 『スッタニパータ』の最古層である『アッタカ篇』には苦行を奨励(もちろん、ジャイナ教のような、ただいたずらに、自らの身体を痛めつけるというものではありませんが)していますが、最初期の仏教の修行というものは、今日、我々が仏教に求める、正しい生き方とか、こころの安定というようなものではなく、解脱を求めての、ある意味いのちがけの修行であったろうと思います。虎や大蛇も強敵でしたが、追いはぎ等の人間達も、特に尼僧にあっては、恐ろしい存在であったと思います。また、蚊にさされても、解脱の目的にために、痒みに耐え、ひたすら禅定を修しなければならなった苦しみが、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』に語られています。 中村元氏によれば、「かれはもはや再び世に生まれるということがない。」という、「不死の境地」とは、文字通り、解脱をすれば、二度と生を受けることではなく、生命の絶対自由の境地のことであり、自らの欲するところ、また生を受け、しかし、自らの業が業として形成されないところの境地でもあろうと語っていますが、この辺は、どうなのでしょうか?
その他の回答 (8)
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
<<>>よって「今、いかに生きるかが問題であって、来世があるか無いかは問題にならない。」でしょ。とこれは同感です。「よって」もヘチマもありません。理由なんぞ要らない自明のことです。>> なかなか「今どう生きるか」に目を向けられる人も少ないですよね… <<これは、むしろ私らがmaggaさん達に吐く言葉です。>> 「達」ですか?? 理性を重んずるテーラワーダ仏教徒達のことならばちょっと慎重に答えなければなりませんねw <<本当は、「それを承知していて、何故安直な天国という褒美や地獄という脅迫を与えないといけないのか、他に有効な説教はないのか」、これを訊きたいくらいです。>> 仏教では解らないことは解らないとおくことをすすめています。 厳密にいえば輪廻は当然憶測の一つですね、この心というシステムの頑張っても止まらずに流れ続ける性質の原因を突き止め原因を止めない限りこの流れは止まらないだろうと、肉体が崩れてもそのシステムが止まらずに回転することも考えられる。という先に輪廻と言うことも「ありえる」と考える。否定することも出来ないし、知らないのだから絶対肯定することも出来ない。 まあ我々が感じることの出来ていないそんな生命もいるかもねw いたら幸せであれw と言った捉え方でしょうか。 我々は一切の生命に慈悲の念をつくることに挑戦していると思いますからね。生きとし生けるものが幸せでありますようにと。 生きること自体、自他に大きな苦しみを振り撒くことですから、輪廻があるとするなら問題ですね。出来るだけ迷惑をなくさなければならない。煩悩まみれより慈悲の心に、慈悲の心から悟りの心になってこの輪廻から脱出することが多くの生命の役に立つこと。そのように考えています。自分も他人も苦の減少生滅に導くために。 <<「それを承知していて、何故安直な天国という褒美や地獄という脅迫を与えないといけないのか、他に有効な説教はないのか」>> 解らない場所はわからないとおいておいて、理性で観ていけば、徹底的に理性的だと感じますよ。sono-higurashiさまのほかの質問を見て、サンガ出版「仏法」をオススメします。 ちなみに天界も梵天界も人間界も地獄も餓鬼もいたとしても皆生命でしょう。たいした違いは無いでしょう。同じ生命でしょう。 人生は思いとおりにならないし、六根も苦しみしかない、苦しみから苦しみに鞍替えしてその誤差に「楽」なんて名前を付けているだけで、人生は苦に満ちているでしょう。結局最後は死ぬだけでしょう。 それが生命だと思うのです。悲観的とかじゃなくて事実そうだと感じるのです。 どこに生まれたとしてても同じ生命でしょう。 天界に生まれたとしても次にどこに生まれるか解りませんでしょ。 ご褒美目指して何かをしても結局は無始なる輪廻の中にあっては同じことの繰り返しでしょう。 やはりこの中から抜け出すと決意して悟りを目指そうとなるのです。 …と言う始まり方もあるでしょうし、徹底的に理性的に事実確認のみでも問題なく出来ると言うか…お釈迦様自体は理性を賞賛していますね。 生きるとはなんだろうと。 輪廻についてはあまり考えるなともいっていると思います。 解らないこと、今現在データが無いことについていくら考えても終わることが無いですから、「今を観なさいよ」とも言ってます。 つまりヴィパッサナー(ありのままに観る)ですね。 <<21世紀の今日もベーダの宗教を未だにそのまま信じているのか。>> ヴェーダ?バラモン教ですね… <<絵空事の天国だの地獄だのに頼るのは説教力の欠如でないのか。「お巡りさんが来るよ」の大人版でないのか。>> パーリ語の仏法の超理性的なところに触れてみてください。 大乗しか知らなかった僕はびっくりした記憶があります。 説教力の欠如とはいえないと思います。 <<天国だの地獄だのという褒美や脅迫にしか反応しない、我々の知力がその程度なのか。>> ほとんどの人はそこに引っかかってしまう性質があるでしょうね。事実それを主とした宗教がほとんどでしょう。 仏教には脅しも褒美も押し付けも命令も無いと思いますね。 翻訳は訳者の判断で命令口調が多いですが。本来提案的なものが多いですし、ほとんどがお釈迦様の質問ですしね。聞く人の理性によって判断するのが主たるものと感じています。 反論質問もし放題ですし、反宗教的な宗教ですねw …宗教じゃないと言っても問題ないと思います。 <<maggaさんに楯突く筋合いのものでないことも理解できます。>> w <<ブッダの死後観(この後の文によると死後観でなく観だそうですが)と私のそれは異なることも分かりました。>> 一応語るが、結局のところ、ありのままに自ら観たらどうだろうと言うこと。ですかねw <<>>ただ「死後がないんだ、死んだらもう全部終わりなんだ。」といってしまえば、論理的には道徳が成り立たなくなる。虚無主義となってしまうと感じます。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。>> パーリ語の仏教は道徳が崩れる論理の成り立たないものには厳しく言ってます。ぼんやりとまあ良いじゃないという態度ではないのです。 誰か一人が本気で道徳を崩す成り立たない論理を信じてしまうと信じられないほどの苦しみを生みますからね。世間で言う頭の良い人がこの邪見におちいったら、しゃれにならないぐらいのことになることも想像できるでしょう。 論理的に道徳的に理性的に実証的にが仏教と感じています。 <<手っ取り早く社会の秩序を保つには死後の世界で脅かしつけるのも幾分か有効かもしれません。>> 各宗教の歴史を見れば有効でないことは事実でしょうね。 「論理的に筋が通らなければ」危険なものになることも多いと感じます。 <<そんな方法が21世紀の人間の何人に通用しますかね。中学生にでもなれば化けの皮が剥がれてしまいそうな気がします。>> 21世紀どころか、ずっと通用してないきがしますね。 <<ここでは解決策には関心をもっていないので絶望的に困難な問題には触れない事にします。>> 自ら高めた理性を持って、理性に訴えかける。反応した人は自分の理性を持って理性を高める。反応しない人はほっておくしかない。 確認確認。 いつも仏教は少数派ですねw <<ある条件下では虚無主義も人類の立派な、そしてまた必然の帰結の一つだと思いますが、これもここで触れる話題ではありません。「健全なる虚無」、「不健全なる健全」。こんなフレーズが浮かびました。>> 他者概念による勝手な評価・概念。時に大量殺人も善とされるものに仏教徒は興味は無いと思います。「死後全て無くなる終わる」となると「業の結果は出ない」となり因縁は成り立たない。因縁が成り立たなければ道徳が成り立たない。道徳が成り立たなければ何でもありになりますね。 「ある条件下」とは虚無主義でないこと。となるように感じますよ。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
相手が「泣く子」でもなく「地頭」でもなければ、議論は厭いません。管理者から許可を取って下されば議論に応じます。 この文面に異見をもたないような人間では横丁の隠居クラスの回答しか貰えなくなるでしょう。当方は与太郎・与太子組ですから、それでいいのかもしれませんが。 それにしても、「ブッダのことば」を読みながら、こういう遣り取りをしている私は、つくづく亡者だなぁと改めて自認せざるを得ません。 ANo.10へのお礼の序でに、と思っていましたが、「序で」が生じないかも知れないので、ご返事しておくことにしました。
- bonbonnier
- ベストアンサー率85% (6/7)
お礼ありがとうございます。その中で列記された御質問に対して、私の答える範囲内で、回答させていただきます。 >2 釈迦に帰依した人々が輪廻を信じていたとすれば以心伝心でしょうから、釈迦もまた、輪廻を信じていた>ことになります。何故、彼はそれについて無記であったとする説が流布するのでしょうか。幾分なりと彼の>教えを現代風にアレンジしたいという意識をもつ人達が存在するのでしょうか。 釈尊の無記の理由は、Ano.7に回答させていただきました。あくまでも、無記は、釈尊の仏弟子に対するものであるということが重要な視点であると思います。そこに、何故、釈尊が弟子の形而上学的問題に関する質問に対して、無記の態度を取った根本的理由があると思います。一方、外教の論師等との議論については、この態度を放棄して、議論において相手を屈服させています。当然、出家修行者と同じく無記の態度をとっていたのでは、自らの仏弟子にさせることは不可能と思われます。論争の相手と相当つっこんだ論議もあったのではないかと思われます。 しかし、この釈尊の無記の態度を武器に、釈尊は輪廻を説かなかったとする見解もあります。大きくは、平川彰氏、中村元氏のように、釈尊の教えを宗教的実践者のそれであると捉える学者と、増谷文雄氏、梅原猛氏のように、釈尊を哲学者とする二つに大きく分けられるように思います。前者であれば、釈尊は輪廻転生を信じ、これを説いたということになるでしょうし、後者であれば、輪廻を否定したとの見解になります。この辺は、それぞれの学者の個人における学問的良心の問題でしょうか。また、日本仏教の中で、浄土(真)宗は輪廻転生を否定するのがなかば公式見解ですので、この真宗宗学の観点から輪廻を否定する小川仏乗氏のような真宗系の学者の存在もあります。 下記のURLはインド哲学者の宮元啓一氏のもので、前者の立場を取っています。 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html >>3 当時は修行によってほんの一部の解脱者のみが輪廻から開放されました。今日では何の修行もなく煩悩の>>塊である私まで漏れなく輪廻から開放してくれます。科学の進歩のお陰です。輪廻から安直に開放されるこ>>とが個々人に、また社会に作用する影響は絶大なものだと考えます。此処で上手くそれを述べる準備はあり>>ませんが。 私は輪廻を信じていますので、この辺は、見解の分かれるところかも知れません。素粒子物理学等の進歩は、生命は炭素等の原子によってのみ構成されるとの、いままでの科学的常識に対して、それを曖昧化させる方向に進んでいるように思うのですが。 >>6 彼の地で何故、仏教には中興の祖が出現しなかったのでしょうか。ジャイナ教も仏教も下層階級の救済が>>焦点だったと聞きますが平等を謳うイスラム教に食われてしまったのは何故なのか。イスラム教が浸透し仏>>教が浸透しなかった理由に興味があります。これにも多分、極めて俗なる理由があるのだと睨んでいます。 仏教の潜在的弱点として中村元氏が二つの点をあげておられます。 (1)仏教の在家信者は最初期の仏教では中産階級が中心で、農民階層に広く浸透できなかったこと。この傾向は後に大乗仏教が興起しても、最後までその傾向が残ったこと。 (2)インドにおいては、中国、日本のように在家信者が、宗教的儀式(仏壇を安置し、日夜、礼拝する)を日常家庭に持ち込むことをしなかったこと。これは、仏の教えを次世代へ継承するという点についてむずかしい面があり、容易に他の宗教に変わりうる可能性を内包するものであったこと。 また、仏教の特色としては宥和的特性を上げられています。仏教は、西洋思想のように固定したドグマを立てて、それ以外の教えを異流義として徹底的に排斥することをせず、その時代区分、その地域の文化というものを尊重しながら、しかし、諸法非我という根本的な核は何ら変えることなく、法を広めようとしました。釈尊の布教の開始にあっては、バラモンを重んじる気風が強かったので、バラモンを否定することはせず、真のバラモンとはどのようなものかという態度をとりました。先に回答したように、バラモン教では「三明」という術語があり、これはバラモンにあっては三つのヴェーダ聖典の奥義に達することでしたが、釈尊はこれを自らの悟りの上から、「三明」の術語は尊重しつつも、しかし、その意味内容を仏教独自の意味に実質的に変えてしまい、法を広めました。「わたしこそ真のバラモンである」という布教の態度は、既成のバラモンと一切の摩擦を生じることなく、バラモンの階層に広く浸透していくことができたのです。 その時代の文化を最大限に尊重して法を説く仏教の宥和的性格は、異なる時代、異なる地域に仏教が広まる上に、なんら血を見ることはなかったのです。この宥和的性格は、広範な地域、異なった時代に法を広める上では正しいあり方でしたが、教えが変容しやすいという危険もありました。 カースト制度を維持しようとする既存の権力(バラモン)による復古の外的圧力もあったわけですが、仏教自身が限りなく密教化、ヒンドゥー教化していったのが根本原因であるといわれています。 原始経典のうちにも呪術的要素は説かれているのですが、民衆の宗教的要求に答える形で、陀羅尼の信仰が盛んになってきました。大乗仏教の空の教えを説く龍樹を祖とする中観派と、輪廻の主体としての阿頼椰識を標榜する唯識派の両派は並存していました、時代の経過とともに融合化し、やがてどちらも密教化していくことになりました。小乗仏教はいつの時代にあっても、大乗仏教より優勢だったようでしたが、この頃になると、小乗と大乗の区別もあいまいになり、どちらも限りなく密教化していきました。 この仏教の密教化(教説の変容)は、仏教の基本性格である固定のドグマ・信条を立てず、空無我の根本は押さえつつも、後は時代状況、地域性により説き方も変化させるというその宥和的特性が、遠因になっています。 陀羅尼の信仰は、現世利益を願う一般庶民に答えようとする仏教側の歩みでもあったのですが、仏教思想の根幹をも蝕むことになったのです。聖が限りなく俗に近づいていったということになります。密教も仏教の一種なのですが、その表面的な宗教儀式は、護摩を焚くなど火による儀礼の宗教であるヒンドゥー教と何ら変わるものではありません。密教の根本精神を忘れ、この表面的儀礼のみを重んじるようになると、密教はそのままヒンドゥー経に転化することが容易だったのです。 また、仏教が仏壇等の家庭における日常的儀式のなかったことに対して、日常的儀式を重んじるヒンドゥー教は、強力に次の世代へと継承されていくことになりました。 中興の祖としては、釈尊の空の教えを宣揚した龍樹が、中興の祖として位置づけられる立場であったと思うのですが、インド仏教においては、その空の思想を広く宣揚させることができなかった龍樹以降に問題があったと思います。 尚、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は岩波文庫で出されています。
お礼
重ね々々の懇切なご回答には恐縮します。余り素っ気無くては済まない気がして苦し紛れに余計なことを書いてしまったようです。私には勿体無いですが多くの方々が参考にして下さるのを期待しつつ有り難く読ませて頂きました。 ア) 釈尊の無記について、世上、多少の混乱がある理由がよく分かりました。釈尊の臨機応変に加え、評価する側の視点が宗教的実践者として観ているのか、哲学者として観ているのか、これが反映していることが分かりました。 イ) 私見では自然科学の成果は常に近似(値)に過ぎないですから、原子像も刻々変化しているとの認識は正しいのだと思います。 ウ) インドで仏教が頓挫した理由がよく分かりました。将来これに焦点を合わせた読書をするときがあれば、よき予備知識になってくれると思います。 エ) 『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は視野に入れておくことにします。本当に読むときが来るものやら来ないやら。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- bonbonnier
- ベストアンサー率85% (6/7)
釈尊の無記と、そこから導かれるところの禅定修行、その結果、到達したところの「不死の境地」という解脱、そこから、必然的に覚知するところとなった、自らの輪廻について、順序立てて、回答させていただきます。 釈尊が弟子に対して無記の態度を取ったのは、形而上学的問題に関する論議を避けて、人間存在の深奥を見通した<四種の真理>の説をもつべきことを教えているのです。 http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html 『「世界は常住なものであるという見解があるとき、ひとは清らかな行いを実習するであろう」というのは正しくない。また「世界は常住ならざるものであるという見解があるとき、ひとは清らかな行いを実習するであろう」というのも正しくない。世界は常住ならざるものであるという見解があっても、世界は常住ならざるものであるという見解があっても、しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。われはいま目のあたり、これを制圧することを説くのである』(『マッジマ・ニカーヤ』) 『「世界は常住である」というならば、それは思弁に陥ったもの、思弁の密林、思弁の難路・思弁ののたうち・思弁の束縛である。それは苦しみをともない、破滅をともない、悩みをともない、煩悶を伴う。世俗的なものを厭い離れること・欲情から離れること・煩悩を制し滅すること・心の平安・すぐれた英知・正しい覚り・やすらぎのためにならないのである。』(『マッジマ・ニカーヤ』) 『「世界は常住である」というならば、それは思弁に陥ったもの、思弁の密林、思弁の難路・思弁ののたうち・思弁の束縛である。それは苦しみをともない、破滅をともない、悩みをともない、煩悶を伴う。世俗的なものを厭い離れること・欲情から離れること・煩悩を制し滅すること・心の平安・すぐれた英知・正しい覚り・やすらぎのためにならないのである。』(『マッジマ・ニカーヤ』) 仏教とは哲学とは無縁などこまでも実践的性格のものです。釈尊は、『スッタニパータ』において、すべての煩悩を止滅させた清浄行の完成者に対して、次なる段階の禅定の修行として、「名称と色形を滅する」という禅定の境地に弟子たちを導くのです。(『スッタニパータ』1070-1076) ニルヴァーナとは哲学的見解では得ることはできず、禅定による名称と色形・識別作用の止滅(『スッタニパータ』)によってのみ得られるものだからです。 『ナンダよ。世の中で、真理に達した人たちは、〔哲学的〕見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者とはいわない。〔煩悩の魔〕軍を撃破し、苦悩なく、望むなく行う人々、かれらこそ聖者である、とわたくしはいう』(『スッタニパータ』) 原始仏典では、釈尊が、さまざまな仏教以外の人々、それも哲学論議に長けた者たちとの討論するさまを伝えていますが、仏教が人々に知られてゆくためには、バラモンや異教徒と討論する必要があり、たくさんのバラモンや多くの異教徒が釈尊のもとを訪れ討論し論争し、ついには釈尊の弟子となっています。哲学的な議論に関わる一切は釈尊一人が引き受け、弟子には清浄行の完成をさかんに説くのです。 このため、最初期の仏教では尼僧も三明の悟りでもある「不死の境地」の悟りを求め、虎や大蛇が出没することのある岩山、あるいは死体埋葬所や森林で、独り禅定の修行をしていたのです。 『しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。』(『スッタニパータ』964) なぜ釈尊が弟子たちに対して無記の態度を取ったのかは以上の理由からですが、同時に、釈尊の悟りの境地が、有・無などの対立を超えたものであり、概念的把握は成立しないからです。そのような問いは、「あなたはあなたのお母さんを殴ることをやめましたか」という問いと同じもので、中道の境地においては、全く意味を成さない問いです。 『友よ。わたくしは、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もある一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。』(『サンユッタ・ニカーヤ』) 『世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはありえない。』(『サンユッタ・ニカーヤ』)のです。「世界の終極」とは「色形の止滅」である涅槃であり、それは「識別(言語)作用の止滅(『スッタニパータ』)」した境地ですから、幼童における戯論でもある有無の二道に偏した問いは、問い自体にその意味がないのです。 釈尊の無記とは、形而上学的議論を否定することであり、禅定の実践に導くものなのです。今の問題とは何か?それは、煩悩の止滅・識別作用の止滅・色形の止滅なのです。それこそこそが、最大の目的であったわけであります。 それゆえ、最初期の仏教徒は、形而上学的議論を否定し、ひたすら禅定を修していたわけです。その解脱の境地において、三世の生命の流転を知ることになるのであり、いわば輪廻転生とは、副産物といえるものなのです。 この解脱の境地が、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』により、様々に語られているわけであります。 釈尊は『ウダーナ・ヴァルガ』に自らの涅槃の境地を「そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しない。水も無く、地もなく、火も風も侵入しないところ―そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」と、説いています。 また、修行完成者の涅槃の境地について、次のように語っています。 『大王よ、修行完成者はすがたの数量から解放せられ、あたかも大海のごとく深遠であり、無量であり、量り難いからであります。修行完成者が死後に存在するということは適合せず、修行完成者が死後に存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在しかつ存在しないということも適合せず、修行完成者が死後に存在するのでもなく、存在しないのでもないということも、適合しないのであります。』(『サンユッタ・ニカーヤ』) 『この対話からも知られるように、修行を完成した人(如来)は、絶対の境地に到達しているのであるが、それは絶対の境地であるが故に、有・無などの対立を超えたものである。深遠無量にしてはかりがたいものである。だからかれが死後に存在するとか、存在しないとかいう概念的把握は成立しないのである。われわれの認識能力はきわめて限られたものである。われわれが日常生活において常識的に把捉し理解しているのは、真の実在の一側面にすぎない。あるいは真実の実相とはよほど異なったものであるかも知れない。われわれにはそれがわからない。絶対の実在は、われわれの認識能力を超えたものである。だから修行完成者の到達する死後の世界を、無量不可測なる絶対者として仰ぐことは永遠の真実であるといわねばならぬ。』(仏教思想8解脱 解脱の思想(中村元)) ニグローダ・カッパという修行者が死んだときに、詩人であった仏弟子ヴァンギーザは彼の死後について釈尊に問いますが、これに対して釈尊は、「かれはこの世における名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長い間陥っていたどす黒い悪魔の流れを超えたのである。」(『スッタニパータ』344)と答えています。 また、釈尊は涅槃の境地を証得した修行完成者には、安楽死を容認しています。重い病に苦しんだヴァッカリ長老は、「おそれるな。おまえの死は罪に汚れていない」という釈尊の言葉を伝え聞いて自刃したのですが、釈尊は遠くからその様子を見届け、ヴァッカリは涅槃に入ったことを説いています。(『サンユッタ・ニカーヤ』22.87) このよな、釈尊の態度は、出家修行者の「不死の境地」というものが、如何に深遠なものであったかを如実に物語っています。 『スッタニパータ』874では、色形を滅した境地では、釈尊は多様な言語世界の名称が起こらない(空性)と明言します。これは、龍樹の『中論』18.5における「多様な言語世界の名称は空性の中に滅する」と符号します。聖者の境地である涅槃の境地を言語で表現しようとすれば、もはや、原始仏典に説かれる「不死の境地」、「不滅の境位」、龍樹の不生不滅不常不断不一不異不来不去の八不中道のように、否定の言辞をもってしか表現できない絶対の境地です。 ゆえに、霊魂の断・常を説く哲学的見解は、聖者にあっては幼童の戯論にも等しく、答える意味を成さない問いなのです。
お礼
私への回答はANo.4で十分で、ANo.7は事情通のための補足かな、と思いました。印刷してきちんと読んでみましたが理解できませんでした。ところがANo.8に無記は釈尊の仏弟子に対する限定した態度との意味合いの記述を発見して一度に見通しが良くなりました。 多分、釈尊の弟子に対する無記、禅定修行、解脱、輪廻、この流れが理解できたと思います。 弟子は哲学を学ぶのではありませんから、弟子に対しては無記で只管、禅定修行の機会を与える。一方、釈尊自身は異教徒と議論をする必要から対外部に向かっては無記ばかりではいなかった。こういう事情があったらしいと理解しました。スッタニバータを読むと、どうもブッダは輪廻転生を認めていそうなのに、しばしばこの件では無記との解説に出合うので腑に落ちずにいました。 これで、まぁまぁ当たらずと言えども遠からず程度の理解にはなっているのだと思います。懇切な解説のお陰です。 >>仏教とは哲学とは無縁などこまでも実践的性格のものです。 >>哲学的な議論に関わる一切は釈尊一人が引き受け、弟子には清浄行の完成をさかんに説く >>ニルヴァーナとは哲学的見解では得ることはできず >>釈尊の無記とは、形而上学的議論を否定することであり、禅定の実践に導くもの これらの意味が多分自分なりに掴めたと思います。 有り難うございました。ANo.8へのお礼は暫く時間を下さいませ。
- pojipoji
- ベストアンサー率32% (53/161)
語りえないものは沈黙するしかない。想像で語るならどんなに荒唐無稽なことでも語れるだろうし、教科書にこう書いてあるから歴史はこうだったという論も、後世の解釈により、過去の出来事を規定するという点で倒錯していると考えます。 死後というのは誰も判らない。仏教でいわれる、無記という立場を支持します。この無記のなかで、お釈迦様が無記とされたのは「人間」の死後ではなく「如来」の死後のことであるとされることがありますが、人間の死後であると考えます。お釈迦様は、あるともないともおっしゃっていないから在るのだというような論もありますが、それではそれを実証的に証明してから論理を進めていただきたいものです。 死後が在るのでも無いのでもなく議論が不毛であると考えます。とりわけ、前世の悪業の報いなどと喧伝し、差別を繰り返す温床となった輪廻転生説は、例えば身体障害を持つ人々がハンデキャップを持たれていることに正当な理由があるかのようなまやかしを与え、二重三重の意味で苦しめてきたと考えます。理由なく人を苦しめるものならそんなものは無いほうがよいと思います。 人間は常に現在を生きるものであり、その人が現に持つもの、その人の現在の生き様以外で判断することは出来ません。死後があるなどと考え、修養を怠るなら何度生まれてきても同じことだと考えます。と、わたしのお釈迦様は申されたと感じます。
お礼
読後感が不鮮明です。 輪廻転生について釈迦は無記だったのだから、死後をどう考えていたか判らず現代人との比較は不可能だという理解でよろしいですか。 輪廻転生説はない方がよいとのお考えは分かりました。同感です。その時代の科学との関連を無視できないので、過去の何処かしらまではあっても難じられないのでしょうが。 また、輪廻説の悪用、誤用があったのは全く困りものです。これも同感です。 以上が許容範囲に入っていればご返事は不要です。許容できないときは訂正を願います。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- takashi-99
- ベストアンサー率16% (44/263)
あなたの意識・認識のなさ自体が滑稽ですよ。ようはあなたは何もわかっていないということです。真実は昔も今も変わりません,絶対的なものだからです。現代人とおっしやいましたが,現代人ほど滑稽な偽善者はいないでしようね,あなたも含めて,信実を見極めないとだめですよ,因果の理法はおまけもおつりもありませんから。
お礼
安心しました。 >>生命は永遠でありその人の境涯により生まれ変わるというものです。 こういう理論のtakashi-99さんに、万が一にも褒められたらどうしようかと心配していました。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
<<今日では修行者であろうとなかろうと、欲望に関する貪りを除いてあろうとなかろうと、煩悩の汚れが消滅していようといまいと、大半の人がこんなことは口外しないほど当たり前になっているのだと想像します。>> 輪廻に対して「信じる」「信じない」の「信じない」を多くの人が保っている、と言うことでしょうか。 仏教では輪廻に対して「問題にならない」と言う態度もとっていたと思います。 もし来世がなくとも、心の汚れがあったら現世で苦しむ、心の汚れがなければ現世で苦しまない。もしあったら汚れがある人はそれに相応しい所に行くでしょう、汚れの無い人はそれに相応しい所に行くでしょう。 よって「今、いかに生きるかが問題であって、来世があるか無いかは問題にならない。」でしょ。と <<極楽、地獄、餓鬼、畜生、何処に再生するとも期待も恐怖も抱いてない人が多いでしょう。>> 「とにかく善く生きることで、今ここから幸福を味わいなさい」と言うこととおもっていますが、この心のエネルギーの回転を肉体が壊れた後も何らかの形で流れて行くと考えるのは私にとって妥当だと感じます。 ここまで理性的に語る仏陀が輪廻の世界観を語っていますね。 もしそれが事実だとするならちょっと本気で善く生きることについて、考えなければならないと感じますねwどちらにせよ善く生き、幸福を感じることは善い事と思いますが。 <<「決して再び母胎に宿ることがない」も「もはや再び世に生まれるという事がない」死後観だけに限定すると私のそれもブッタのそれも同じに見えてしまいます。が、そんな筈はあるまいとも思い直します。死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか>> 一応輪廻は語っているでしょう。生きることは多くの苦しみを生みますね。自分にも他者にも多くの苦を振りまいていますね。 「とまれ」と思ってもとまらないのです、たとえこの肉体が滅びようがまた生まれてしまうのであれば同じことでしょう。 悟って、自分の生まれる性質を観て、その原因をなくした状態を「決して再び母胎に宿ることがない」「もはや再び世に生まれるという事がない」と宣言なさっているのでしょう。 ただ「死後がないんだ、死んだらもう全部終わりなんだ。」といってしまえば、論理的には道徳が成り立たなくなる。虚無主義となってしまうと感じます。 この邪見に強く支配された人の中には、多くの残酷な行為さえ善意と称し行うことも可能となってしまいます。 仏教には一切このような性質はありません。 道徳は完全に守られていると感じます。論理的な穴を感じません。 ブッダの場合「死後観」と言うか「観」なのだと思います。 観たままの事実なのだろうと。 ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
お礼
読後感は色々とありますが大きなものに限って記します。 1 >>よって「今、いかに生きるかが問題であって、来世があるか無いかは問題にならない。」でしょ。と これは同感です。「よって」もヘチマもありません。理由なんぞ要らない自明のことです。これは、むしろ私らがmaggaさん達に吐く言葉です。自説を開陳したところで詮無いので、ほんの少しだけ記します。 本当は、「それを承知していて、何故安直な天国という褒美や地獄という脅迫を与えないといけないのか、他に有効な説教はないのか」、これを訊きたいくらいです。 ・ 21世紀の今日もベーダの宗教を未だにそのまま信じているのか。 ・ 絵空事の天国だの地獄だのに頼るのは説教力の欠如でないのか。「お巡りさんが来るよ」の大人版でないのか。 ・ 天国だの地獄だのという褒美や脅迫にしか反応しない、我々の知力がその程度なのか。 ・ 天国だの地獄だのを持ち出す説教者も、それに噛み付く人間も大人気なくて、「ほうほう、なるほど」、と拝聴しておくのが大人の態度というものなのか。 ともあれ、maggaさんに楯突く筋合いのものでないことも理解できます。また、ブッダの死後観(この後の文によると死後観でなく観だそうですが)と私のそれは異なることも分かりました。 2 >>ただ「死後がないんだ、死んだらもう全部終わりなんだ。」といってしまえば、論理的には道徳が成り立たなくなる。虚無主義となってしまうと感じます。 そうかもしれないし、そうでないかもしれません。手っ取り早く社会の秩序を保つには死後の世界で脅かしつけるのも幾分か有効かもしれません。しかし、そんな方法が21世紀の人間の何人に通用しますかね。中学生にでもなれば化けの皮が剥がれてしまいそうな気がします。 ではどうするか、ここでは解決策には関心をもっていないので絶望的に困難な問題には触れない事にします。また、ある条件下では虚無主義も人類の立派な、そしてまた必然の帰結の一つだと思いますが、これもここで触れる話題ではありません。「健全なる虚無」、「不健全なる健全」。こんなフレーズが浮かびました。 3 >>ブッダの場合「死後観」と言うか「観」なのだと思います。 これはこのまま納得できます。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
[死後観に限定するとき両者のそれは、どう違うのでしょうか。] 釈尊は天国「仏国土」も地獄も知った上で天国に生まれ変わる方法を説いているということですね。修行僧にはより高みを、つまり自身が魂を救う医者になるようにと説いているのですね。 中村 元訳「ブッダのことば」を逆に読めば、 1. 怒り多き人は死後地獄で苦しむ。蛇は嫉妬による怒りですね。 2. 諸々の邪まな見解にとらわれ、戒を保てず、見るはたらきを具えなければ死後地獄で苦しむ。 因果の理法により苦の転生を繰り返すということですね。 これでは人も救えませんね。自らは菩薩を目指し振り返って無明の中を生きる衆生の魂を救いなさいという教えですね。 死生観としても前向きですね。この世もあの世も一乗ということですね。 また、哲学としてもなかなか難しい教えです。これのみでいいのだというものではないのですね。昔の一般人には理解は難しいものでしたでしょうね。だから簡単な方便がはやって今に至っているのですね。現代でしたら進歩と調和を同時に考え行うということで理解できると思います。現代人のほうが釈尊の教えや死生観を理解できるのではないでしょうかね。
お礼
1 >>釈尊は天国「仏国土」も地獄も知った上で天国に生まれ変わる方法を説いている 私は天国「仏国土」も地獄も知りませんから、この点は大違いなのが分かりました。mmkyさんは、ブッダは輪廻説の保持者という立場でしょうか、今のところ私もそう睨んでいます。 2 >>修行僧にはより高みを、つまり自身が魂を救う医者になるようにと説いている 私は自分のことに精一杯で他者は傍観していますから、この点でも大違いなのが分かりました。 3 >>この世もあの世も一乗ということですね。 論理に従えば、あの世の存在を認めない人間は「この世もあの世も一乗」という理屈になります。よってこの点はブッダと私に違いがありません。 4 >>現代人のほうが釈尊の教えや死生観を理解できるのではないでしょうか 天国という褒美や地獄という脅迫、輪廻などを除き、字面の上だけなら釈尊の教えはほぼ理解できそうです。紀元前4~5世紀とあっては、流石のブッダもやれ天国だ、やれ地獄だと口にしていたのでしょうか。どうも、そうらしいです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- takashi-99
- ベストアンサー率16% (44/263)
釈迦が説いた8万法蔵といわれる無数の教えは全て隋他意でその真意は説いてはいません。釈迦の出世の本懐は菩提樹の下で瞑想し邪気を打ち破り悟った隋自意の「法華経」のみです。隋自意であるがゆえに難信難解といわれています。法華経の開経である無量義経・結経である涅槃経にも説かれています。生命は永遠でありその人の境涯により生まれ変わるというものです。また,法華経のみにより即身成仏ができると説かれておりそれまで不浄の女人が竜女のその身のままで即身成仏することが説かれ,仏とは我生命の中にのみあるということを説かれています。ただ,釈迦の法華経もその時代の衆生の機根により変化するため,釈迦在世・正法時代は釈迦の法華経,像法時代は天台大師の「摩訶止観」,末法時代は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経が唯一成仏できる法であることは疑いない事実であります。よく,本当は何も判っていないのに判ったような素振りを・解釈をして上には媚へつらい下には偉そうにする輩が充満していますね,末法の時代そういう輩が出てくるのは書かれています。そういう人のことを禿人(とくにん)・その心を臾心(ゆしん)といいますが,よく見極められて人生間違わないようにしてくださいね。それから事実・信実は太陽が一つのように・国に王が一人のようにただ一つだけであるということも知っておいてください。邪義・邪知にならないようにしてくださいね,理論の振り回しは何の意味もありませんから。
お礼
質問は「ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違い」です。これへのお答えなのか、これへのお答えでないのか判然としませんが、 >>生命は永遠でありその人の境涯により生まれ変わるというものです。 法華経には、こういう教義があることは分かりました。よって法華経の死後観と私のそれでは全然違う事が分かりました。 ブッダがこう言うのも法華経がこう言うのも理解できます。しかし、現代人が本気でこういうのは私にとっては滑稽です。同時に現代人のこういう発言に本気で噛み付くのも滑稽です。よって、お説は拝聴しておきます。 この欄も、お礼なのか、そうでないのか判然としないものにしておきます。
お礼
取り留めがありませんが思いつくままを記してお礼とします。 1 輪廻思想の恐怖が実に重圧であったのが分かりました。修行の動機に、これからの開放があったとすれば、副産物として宗教のそもそもの出発点は聖ではなく俗なるものにあるとの日頃の私の仮説の傍証になりそうです。俗と聖を包含しつつ完成していくように思います。 2 釈迦に帰依した人々が輪廻を信じていたとすれば以心伝心でしょうから、釈迦もまた、輪廻を信じていたことになります。何故、彼はそれについて無記であったとする説が流布するのでしょうか。幾分なりと彼の教えを現代風にアレンジしたいという意識をもつ人達が存在するのでしょうか。 3 当時は修行によってほんの一部の解脱者のみが輪廻から開放されました。今日では何の修行もなく煩悩の塊である私まで漏れなく輪廻から開放してくれます。科学の進歩のお陰です。輪廻から安直に開放されることが個々人に、また社会に作用する影響は絶大なものだと考えます。此処で上手くそれを述べる準備はありませんが。 5 バラモンは息子のみへの世襲だそうで、これが彼の地の極端な女性軽視、女性蔑視の重要な因子だとの説があります。よって女性の帰依者が多いのは宣なるかなと納得します。 6 彼の地で何故、仏教には中興の祖が出現しなかったのでしょうか。ジャイナ教も仏教も下層階級の救済が焦点だったと聞きますが平等を謳うイスラム教に食われてしまったのは何故なのか野次馬程度の興味があります。ヒンズー教の忌避という観点からはパキスタンやバングラディシュが仏教国になっていても不思議ではなかった筈なのに。イスラム教が浸透し仏教が浸透しなかった理由に興味があります。これにも多分、極めて俗なる理由があるのだと睨んでいます。 7 『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は記憶に留めておきます。 8 ANo.7の存在も承知していますが暫く時間を下さいませ。 字数制限から項目4を割愛しました。 先ずは取り急ぎお礼まで。