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スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章
- ドータカさんが仙人に質問し、仙人が答える対話が描かれています。
- 仙人は賢明であり、自己の安らぎを学ぶようにとアドバイスします。
- また、仙人は疑惑から解放されるようにドータカを導くと説明します。
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こんばんは nyanko編 (スッタニパータ改) 「センセーイ、センセーイ! このことをわたくしに教えてくださ~い。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びま~す。」 釈尊「この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」 「センセーイ わたしはその最上の安らぎを受けて歓喜しま~す。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えま~す!」 釈尊「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」 そこで、いきなり結論なのですが、 > このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか? いわゆる「自己啓発」本の”まえがき(序章)”ならば、よくできていると思います。 ですが、知りたいのは、本編かと思われます。 第一章 ニルヴァーナとは? 第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを! ・ ・ ・ ですが、[スッタニパータにおいて]これらが具体的に示されていないところに問題があるのだと思います。 このため、[哲学的]知性は感ぜられない。これが小見でございます。 どうも失礼致しましたm(_ _)m
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- NemurinekoNya
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すこし付け足し。 仏教を少しでも齧ったことのある人間が、 《唯仏与仏》 という魔法のワードを耳にすると、 「なるほど」 となってしまうんですわ。 これが刷り込まれているというか、何かわかったような気になってしまう。 私のような(オシエについて)疑い深い人間でも、 「《唯仏与仏》ね~。言葉では説明できませんし、そうかも知れませんね~」 となってしまう。 巧妙な魔術師の作る《幻・maya・マーヤ》にも似た《ことば》なんですよ。 まっ、私の場合、 「で、お前はその仏なんか?」 と続くのですが(笑い)。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ 《唯仏与仏》 ☆ とも違った立ち位置からものを言っているとも読めるんです。すなわち: ◆ 私自身は体現などしてはいませんがイメージとして理解できますのでわかるのですね。 まぁ こういうものなんですかねぇ 世の中は。理屈はなんとでもつけられるっていう。 哲学の泣き所? いや 分かりません。まだまだ これからです。
- NemurinekoNya
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例の《ゴーダマ・マジック》ですよ。 禅の坊さんとかが、 何だかわからない、奇妙奇天烈なことをおっしゃって、 相手を混乱させる、煙にまく・・・。 そして最後は《唯仏与仏》で結ぶ。 なら、最初から語るな!! 実は、 語る→騙(かた)る か? 「いまだそのサトリは《相対(相待)の世界》にある」と言えばいいのに・・・。 そうすれば、「《絶対(絶待)とは何か?」という建設的で踏み込んだ議論ができる。
お礼
そうなんですけれど。・・・ こんばんは。ご回答をありがとうございます。 つまり もうすでに長年の――ただし このところ空白の関係だったのですが――経過があります。 それを思うと 自分の不甲斐なさも手伝って 何だかかたちのない怒りが起こります。 とにもかくにも 一刻も早く ◇ 建設的で踏み込んだ議論ができる。 ☆ ようにと祈りつつ 願います。 ありがとうございます。
これまた紛らわしいですが 中山元の訳で。村ではなくて山です。 カントです。 とりあえず、カントの引用は引用で。 今日は誤字が多くてなんですが。
- NemurinekoNya
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ちょいとお邪魔します。 『老子』の本文中に、《虚無》という言葉は一度も使われていません。 ですから、中村元の話は??? 善については、 ──────────── 第八章 上善は水のごとし。水は万物を善く利し、しかも争わず。衆人の悪(にく)むところにおる。ゆえに、道にちかし。・・・ ──────────── 『老子』においてもっとも重要なタームは《道・tao》です。 ☆▼ 虚無とは、主観神性の深遠に呑みこまれ、人格を滅却することによって、この深淵において神性とひとつになったと感じる意識である。 ◇第一章に 「無心無欲にしてもってその妙を観る・・・」 とあるので、そう解釈できないこともないのでしょうが、 《虚無》は意識ではない。 そのような意識の状態を《虚無》というのならば、わからないこともないのですが、 『老子』本文中で《虚無》という言葉が使われていないのですから、これは拡大解釈でしょうね。 としゃしゃり出て、すぐに逃げる!!
お礼
ご回答をありがとうございます。 ひとりごとです。 もうちょっとでカントにだまされるとこだった。 カントって意外と――東洋の思想については でしょうか―― うっかりがあるんですね。 老子≒虚無。これに騙されるとこだった。 そう ◇ 《虚無》は意識ではない。 ☆ 《意識》って言っているところから ダメ。あたまの中の観念にとどまる。 ありがとうございました。
補足
話はちがいますが えむえむけいわいさんの議論を見ましたか? これは じんるいの連帯責任ではないのでしょうか? 逝かれポンチ状態。 そして ぼーずの責任も重い。
さすがにスルーでかまいません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 誤:主観神性の深淵に呑み込まれ、 正:主観が神性の深淵に呑み込まれ、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これで大丈夫なはずです。 今日は疲れているのだろう。 連続投稿すみませんでした。
また誤字・脱字です。 誤: 主観神性の深遠に呑みこまれ 正: 主観が神性の深遠に呑みこまれ ついでに、ヘーゲルを読んだことがないので、なにもいえませんが 「理性的なものが現実的であり、現実的なものが理性的なものである」 カントが理性を批判をしているのに、理性的なものが現実的なのだろうか。 哲学史の勉強がしたいところです。 そうしないと、ニーチェを信じているとかいってくる セルフなんとかさんに、また読んだこともないくせにと言われてしまうか。 彼の好きそうなニヒリズム全開の話になっているが、元気にしているかねえ。 またやってこられても私は困るけれど。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▼ 「理性的なものが現実的であり、現実的なものが理性的なものである」 ☆ 《自由》は・そして われの自由となんぢの自由とがひとしいという《平等》は 理性的なものであり 歴史を見れば・またおおむね個人の歴史を見れば やがて 現実的なものであると成る。 現実的なものは 理性的なものなのである。
誤字ありました。紛らわしいので訂正です。 誤:ここの文章が出てくるのは、老子ですけれど 正:ここの文章に出てくるのは、老子ですけれど
お礼
かざみどりくん えむえむけいわいさんの議論を見たか? 多少の慈悲を持ち合わせていたなら 何とかするのが 人間ってものぢゃないのかい? 先にこちらへ応答しました。ご回答をありがとうございます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 万物の終焉の三つの概念 人間の認識能力との関係において、万物の終焉という概念は三つに分類することができよう。 中略 二 神秘的な、すなわち超自然的な万物の終焉。これは終焉させる原因にかかわるものである。人間はこの終焉の原因については、 まったく理解することができないのである。 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 カント 中山元 訳 光文社古典新訳文庫 124ページ 神秘的な終焉の概念 こうして瞑想的な人間は神秘主義に陥るのである(理性は内在的な使用、すなわち実践的な使用に満足せずに、超越的な使用に走りたがる。それが理性の秘密である)。 この場合には理性は、みずからの本性についても、みずから意図することについても理解することがないので、感性的な世界に住みながら叡智の世界にも属する人間は、 この世界にとどまるべきであるにもかかわらず、その限界を超えて妄想するのである。 虚無を最高善とみなす老子の奇怪な体系はこうして生まれたのである。虚無とは、主観神性の深遠に呑みこまれ、人格を滅却することによって、この深淵において神性と ひとつになったと感じる意識である。 このような状態に入ろうとして、中国の哲人たちは暗い部屋に閉じこもり、眼を閉じて、その虚無なるものを思考し、感得しようとするのである。ここから汎神論(チベットやその他の民族の汎神論)と、汎神論を形而上学的に崇高なものとすることによって形成されたスピノザの哲学が生まれたのである。 どちらの理論も、人間の霊魂は神性から生まれたものであり、最終的には神性のうちに吸収されるという古代から伝えられた流出論に近いものである。 このような思想は、人間が最後に訪れる永遠の静寂を享受できるようになることを目指したものであり、これが彼らの考える万物の聖なる終焉なのである。 これは同時に、知性が消滅し、すべての思考そのものも終焉するという概念なのである。 130ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 放っておかれているので、 まあ、反応が無くてもいいのですが ここの文章が出てくるのは、老子ですけれど、 いわゆるニルヴァーナともいえるでしょうね。 たんに死ぬのではなくて、 消滅を望む。虚無を望むのですから。 ブラジュロンヌさんが、スッタニパータを知性が感じられないと評するのは、 知性や思考も消滅するからということになるかもですね。 虚無を最高善とするというのは、 悪は存在しないという思想と対立するでしょうし、 だからエクソシストのほうに投稿しようかと思ったけど、 ニルヴァーナのほうにしようかと。 しかし、なんというか汎神論の結果として虚無が出てくるなら ニルヴァーナというのはアニミズムの結論みたいなものなのだろうか。 火を吹き消す。 火はアグニのことだとすれば、思いっきりヴェーダを批判していると思っていたのに、 火はやがて消えて終わりということだろうか。 とりあえず、神秘主義者は虚無だとよくいいますよ、ということを引用文で示しておかないと マーヤーとか、世界は幻影とかいっても、なんのことだとなるので面倒ですか引用しておきました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▼ この場合には理性は、みずからの本性についても、みずから意図することについても理解することがない ☆ この《この場合》というのは ▼ 瞑想的な人間は神秘主義に陥るのである(理性は内在的な使用、すなわち実践的な使用に満足せずに、超越的な使用に走りたがる。それが理性の秘密である)。 ☆ という場合に限定して言っているのかなぁ。そうだろうなぁ。 つまり 理性がみづからの本性について みづからが意図することについては 理解しているはずだから。 あるいはつまり 意志は 何を意志しているか 何を実行しようとしているか これについて知っているから。 ▼ 感性的な世界に住みながら叡智の世界にも属する人間は、 / この世界にとどまるべきであるにもかかわらず、その限界を超えて妄想するのである。 ☆ ここが おかしい。そういうおかしい場合もあるけれど それは放っておけばよい。 そうではなく ちょうどヘーゲルが言うように《無限なものと有限のものとの矛盾 この矛盾に対してみづからの存在を――生きることを――持ちこたえることが出来るのが 人格ないしおのれの〈固有のとき〉の高さである》と カントに言ってやればよいのではないか。 ナーガールジュナも言うように 決していま・ここから――真理をといもとめる場合にも・真理を問い求める場合にこそ―― 離れていかない。 なぜなら 非経験の場は わが心なる非思考の庭に受け容れられてあたかも動態となるというかのように いま・ここなるわれをつらぬいて けっきょく世界大にひろがっているのだから 何もそのナゾをこちらから迎えに行く必要がないわけです。 ▼ この世界にとどまるべきであるにもかかわらず ☆ とまでは言っているのだから 批判するのはおかしい? ぢゃあ 《妄想》の問題などは 捨てなさい。 ▼ 虚無を最高善とみなす老子の奇怪な体系はこうして生まれたのである。 ☆ だから 捨てなさいって言ったぢゃん。理性のとどく範囲で おのれの脳の小宇宙の境界にまでたどりついたからと言って どうしてそれが《最高善》になるのだ? そうなると言うのなら 《奇怪な体系》になるけれど 老子は ほんとうにそう言ったのか? ▼ 虚無とは、主観神性の深遠に呑みこまれ、人格を滅却することによって、この深淵において神性とひとつになったと感じる意識である。 ☆ こんなことは どうでもよろしい。ただの観念のおあそび。 ▼ ここから汎神論(チベットやその他の民族の汎神論)と、汎神論を形而上学的に崇高なものとすることによって形成されたスピノザの哲学が生まれたのである。 ☆ へええ そうかい。スピノザ 泣くんぢゃないの? ▼ どちらの理論も、人間の霊魂は神性から生まれたものであり、最終的には神性のうちに吸収されるという古代から伝えられた流出論に近いものである。 ☆ こんなことを観念による推理で言っちゃってしまっても どうってことはない。あたまの体操にすらなるかどうか。《神性》をまづ定義しなくっちゃ。――あっ 定義していますか。それは 失礼しました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ いわゆるニルヴァーナともいえるでしょうね。 たんに死ぬのではなくて、 消滅を望む。虚無を望むのですから。 ブラジュロンヌさんが、スッタニパータを知性が感じられないと評するのは、 知性や思考も消滅するからということになるかもですね。 虚無を最高善とするというのは、 悪は存在しないという思想と対立するでしょうし、 だからエクソシストのほうに投稿しようかと思ったけど、 ニルヴァーナのほうにしようかと。 しかし、なんというか汎神論の結果として虚無が出てくるなら ニルヴァーナというのはアニミズムの結論みたいなものなのだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。ツッコミが成功したかに見えたけれど ダメだと思います。 いちばんの問題は ★ 虚無を最高善とする ☆ というところでしょうね。これは なるほど一見すると ★ 悪は存在しないという思想と対立するでしょう ☆ というふうに見えるけれども そうはならないですね。 問題は 《虚無を最高善とする》のが 人間だからです。人間の知解力や意志による経験行為でしかないからです。 人間の思惟にあってボヌム・スンムムというのは ただの観念です。想像力のなせるわざであり その産物としての観念です。これを超えていません。 至高善は 想定によらなければ 定義したことにはならないでしょう。人間がそのチカラによって規定しても 何にもならない。 ゆえに ★ 悪は存在しないという思想と対立する ☆ ことは けっきょくあり得ない。 もしそのように人間の持てる理性一般のチカラによる規定でしかないとすれば ★ しかし、なんというか汎神論の結果として虚無が出てくるなら / ニルヴァーナというのはアニミズムの結論みたいなものなのだろうか。 ☆ というひとつの結論にたどりつくと言っても おかしくはないでしょう。つまりそのときというのは ヨーガなどによるからだの修行をもふくめて 《人間のチカラによる知解と規定》という範囲にとどまる。 だから ここでわづかに逃げ道が用意されているとも言えます。秘義・奥義ないしそれを実践する秘儀としてのサクラメント これが 逃れ道です。《人間の理性を超えた場にたどりついている。ただし もうそれを言葉では表わしえない》という桃源郷なる《長征》の旅に出るっていう寸法です。いってらっしゃあーい。
- mmky
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>ということであれば つかぬことをうかがいますが そのニルワーナなる心のでしょうか あるいは 身心ともなる人間存在のでしょうか の状態とは いったい何であるか? どういうことなのか? をみなさんに何とか言葉で伝えようというお心つもりはないですか ○そうですね。涅槃寂静の境地の体現を目指して、皆努力したのですね。例えば、空海はその名前の由来のとおり、瞑想中に金星が口に入るほど巨大になり、その時、自身が体験した空と海を見て空海と名乗ったのですね。道元禅師も同じようなことを言っていますね。スッタニパータ的に言えば,仙人か尊者ですね。でもね、この悟りも釈尊の涅槃寂静の境地から比べれば低いですね。何故なら空と海、つまり、上と下と中央であるご自身がいまだ存在しているからですね。これをも離れるということは、宇宙ボールぐらいにならないといけませんね。釈尊の涅槃寂静の境地は、それぐらいのことなんですよ。私自身は体現などしてはいませんがイメージとして理解できますのでわかるのですね。内と外の逆転がイメージできればということですね。例えば、体育館の中に立っているあなたが、体育館はこのようなものだと感じることから離れて、体育館になればどのようにあなたが見えるかを感じることが出来るかということですね。釈尊の教えは非常に高度な哲学なんですね。内と外、二重否定など哲学としても高度過ぎるのかもしれません。でも、2500年前でもそれを理解した者はいたということは現代よりはるかに進んでいたんじゃないでしょうか。 それから、四苦「生老病死」の生は生きる苦しみと捉えているものが多いですけど、生きる中に四苦があるのですから、同じことを2度繰り返すような哲学者はいませんね。へっぽこな者なら季語を2度使ったりしますけどね。この「生」は「生まれる苦しみ」のことですね。十月十日も暗い腹の中にいるのですから恐怖ですね。だから、生まれた時に「おぎゃ」と泣くのですね。 要は、釈尊の教えを読むときは、あらゆる自身の束縛を解いて、釈尊の教えが正しいとして、それを自身がどのように捉えれば、同じ結論に至るかを考えるしかないのです。それ以外の答えは意味のないものにしかならないということなのです。それゆえ、知識に基づく解釈は道を外すのですね。 追伸まで
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 宇宙ボールぐらいにならないといけませんね。釈尊の涅槃寂静の境地は、それぐらいのことなんですよ。 ☆ えっ? そんな程度なんですか。おどろいたなぁ。ちっちゃい。ちっちゃい。だって親鸞は 無限ですよ。無限。 この経験世界を超えているという意味です。《非経験の場》。 《宇宙ぼーる》ぐらいで 何か言ったことになるのですか? ひゃあぁ こりゃぁおったまげた。道理でくだらんことばっかり言っているのですね。これは 納得。 ★ 私自身は体現などしてはいませんがイメージとして理解できますのでわかるのですね。 ☆ なあんだ。わたしは 体験していますし 体現していますよ。道理で 話が合わないわけだ。なっとく。 ★ 内と外の逆転がイメージできればということですね。 ☆ だから 低い。浅い。 非経験の場は 内と外とを超えているのです。よって 遍在です。あったりまえぢゃないですか。こんないろはのイすらを知らないのですね。あぁ 《イメージできる》だけってことなんですね。それぢゃ 無理でしょうね。 ★ 釈尊の教えは非常に高度な哲学なんですね。 ☆ これは ペテン師の常套文句ですね。中身がないから 輪郭だけを立派そうに言うわけです。 《高度な》わけないから 高度だというわけです。 わたしを見てください。バカ丸出しで こうやって 誰にも対等に自由に話をしています。相当高度な知恵の持ち主だからです。自由自在 臨機応変。なんでもごされ。ペテン師に見えるほどの言い回しで言うのが 高度なところ。 好対照ですね。 ★ この「生」は「生まれる苦しみ」のことですね。 ☆ あいた口がふさがらないというのは このことですね。、めちゃくちゃああああああああ! もう説明をするのも 力が入りません。どこか参考文献で確認してください。 ★ 十月十日も暗い腹の中にいるのですから恐怖ですね。だから、生まれた時に「おぎゃ」と泣くのですね。 ☆ 笑う気力も出ません。 ★ 要は、釈尊の教えを読むときは、あらゆる自身の束縛を解いて、釈尊の教えが正しいとして、それを自身がどのように捉えれば、同じ結論に至るかを考えるしかないのです。それ以外の答えは意味のないものにしかならないということなのです。それゆえ、知識に基づく解釈は道を外すのですね。 ☆ まぁ 素人だからということで ゆるされるんでしょうね。わるいことは言いません。外へ出かけて よそへ言って いまのようなことは言わないほうが いいですよ。お笑い種になってしまいます。二千年のあざわらいの種になってしまう。 老婆心ながら。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
○ドータカ尊者は、釈尊に、生きながら自身で涅槃を体現したいので、涅槃の境地を問うたわけですね。 釈尊は、自身が涅槃を体験したので、それを話したわけですね。 それが、 1068 師は答えた、 「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。 ですが、この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。 生きて涅槃に入るわけですから執着を完全になくさないように、「妄執をいだくな」と言っていますね。執着を完全になくすと「死体」になって死んで涅槃に入ってしまいますので、妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。 「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、」この部分はむつかしいですね。ここが涅槃の境地の味噌の部分ですね。 さて、ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから、即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。空間というのは悟りの上下、時間というのは過去・現在・未来のことですね。つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。 この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。 なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。 しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。 それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに
お礼
ご回答をありがとうございます。 ゴータマ弁護ないしスッタニパータ擁護のご回答内容です。 いくつか疑問があります。 1. ★ この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。 ☆ ということは このスッタニパータの編集者は 知らないということでしょうか? ドータカさんがさとりをどのように得たのか またその内容は何かについて 知らない。けれど 伝えられたままいわば実況中継をおこなった。 ――こういう理解をするのが 読者一般であるということでしょうか? 2. 分かる人は分かる。分からない者は 分からない。ということですね。 つまり ゴータマ氏もドータカ氏も ほかの人たちに――たとえ分からなくても――さとりの中身を言葉で伝えるという手間暇はかけなかった。そうはしなかった。 けれども たとえただちに分からなくても言葉で表わしておいてくれたら あとで分かるようになる場合もあります。でも そういう親切心は起こさなかった。ということでよいでしょうか? 3. ★ 妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。 ☆ だとしますと 例の四苦つまりその内の《生なる苦》については 解せなくなります。なんで生が苦であると言ったのか? 《生きる執着》こそが 生が苦であることの原因であり けっきょくそれが無明≒煩悩≒渇愛であると説いたのではなかったのですか? まさか二枚舌ではないと思うのですが。 4. ★ ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから ☆ この章で質問をしているのは マナワと呼ばれるおそらくバラモンたちです。中には ピンギヤさんは老人であるようですが けれどもマナワという言葉は 若い青年を意味するようです。ドータカさんも ゴータマの噂を聞いて初めてやって来たということですから まだ若い人であったと推測されるのですが どうでしょう? 5. ★ 即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。 ☆ そうは なかなか考えられないのではないでしょうか。 要するに世界のすべてのものごとというくらいの意味ではないのですか? あらゆる事象というほどの意味なのでは? 6. ★ つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。 ☆ いいえ。たとえば ナーガールジュナによれば 《真理》は この世のもろもろの事柄・ささいな物事を離れてはあり得ないという意味のことを言っています。煩悩即菩提です。娑婆即常寂光土です。即身成仏 即得往生です。なぜなら 一切衆生にブッダターがやどるゆえ。 《執着》がどうのこうのと言いだすことがマチガイなのです。ゴータマの欠陥です。明らかな事実です。 7. ★ この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。 / なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。 ☆ ぢゃあ そう言うえむえむけいわいさんは そのゴータマの程度のニルワーナには到達しておられるわけですね。唯仏与仏とも言いますから そうでなければ理解することが出来ないと考えられます。 ということであれば つかぬことをうかがいますが そのニルワーナなる心のでしょうか あるいは 身心ともなる人間存在のでしょうか の状態とは いったい何であるか? どういうことなのか? をみなさんに何とか言葉で伝えようというお心つもりはないですか? 思うに ブッダなる境地にあれば 相手が理解できないとしても 先ほども言いましたがあとになってその言葉による説明があれば 何度もそれを読んで 何とか知ることが出来るようになるかも知れません。そういう意味で 成道の中身を 公開・公表するというお考えはありませんか? 8. ★ しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。 / それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに ☆ あぁ。やっぱし 尋常でない人たちも こちらがお尋ねするだけ無駄だったようです。
お礼
いやぁ じつに言いたいところを 簡潔にこれ以上やさしくは語れないと思えるほど しかも全体として――つまり その対話が まだ入口であり前書きでしかないゆえ 本論へとどう展開されて行くかをも含めて全体として―― 明らかにしてもらっています。 ご回答をありがとうございます。 いや もう言うことなしです。 じっさい 本編はそうなるはずです。 ★ ~~~~~~~~~~~ 第一章 ニルヴァーナとは? 第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを! ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《執着・離れる・やすらぎ》の鍵語は 明らかにされたわけですから あとは どうすればよいか(第二章)とそしてそうすれば どういう状態になるのか(第一章)が説明されれば 完結です。 すでにほかのところで取り上げましたが 《執着→離れる→離れようとすることへの執着→離れる→・・・》という堂々めぐりの問題もあります。つまり 《執着を離れる》と意識した途端にその意識から離れなければならない。という意志行為を始めた途端に それ自体からも離れなければならない。・・・・という問題です。 ですから このドータカの質問としてまとめられたひとくだりは 序論であって まだ本論には入っていない。と言わねばならないはずです。 ★ このため、[哲学的]知性は感ぜられない。 ☆ と質問者も思います。ありがとうございました。