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ブッダは誰のために法を説いた?
ブッダが生きていた頃、目の前にいた人々に対してでしょうか? 2500年後に、つまらなく生きている私にも、まったく平等に説いてくれたものなのでしょうか? 特別な人にだけ説いたのでしょうか? ブッダは、私に直接、説いてくれたと思っていいのでしょうか? どうにもなりません。 真摯なご回答、お待ちしております。
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- ks5518
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>ブッダが生きていた頃、目の前にいた人々に対してでしょうか? >2500年後に、つまらなく生きている私にも、まったく平等に説いてくれたものなのでしょうか? >特別な人にだけ説いたのでしょうか? >ブッダは、私に直接、説いてくれたと思っていいのでしょうか? あなたの質問にある“ブッダ”とは釈尊の事だと考え回答いたします。 先ず、仏は2つの目的で法を説いています。 1.在世を含めた末法晩年にわたる一切衆生のため。⇒あなたに向かって説いていると思っても良いです。しかし、それをあなたが理解できればですが。 2.末法に至って現れる“上行菩薩”のため。⇒これはあなたではありません。末法における秘法を解き明かすために説いています。 ■仏教の根本を説いてしまえば、釈尊の説いた経典は釈尊が悟った内容ではあるが、実は釈尊自身もある法の修行により成道したことを明かされています。これを、始成正覚といいます。釈尊は過去世において、師匠に折伏をされて仏になったのです。
- yuniko99
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聞く所によればブッダは地位も家族も富も何もかも放り出して 真理を求めて苦行したり瞑想したり人生をかけて答えを求め 知り得たことを末法までも届くように説いたとか 弥勒菩薩が36億7000万年後に来るんでしたっけ? これは途中で話に尾ひれがついたかもしれませんが 本を読むときに その作者を友として読むということを故人は言っています 貴方もブッダをご自分の師匠として話を読んでいいのではないでしょうか ブッダもその経?をその言葉を解するありとあらゆる一切衆生に説いたのだと思います。 いやその教えを聞いて救われる一切衆生、猫も蟻もと説いたのではないでしょうか 安心して自分に言われてると思っていいと思いますよ^^ どうぞご自愛下さい。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
解答No.2のkrya1938です。 一人の求道者である、釈尊自身も自己という存在問題との対決でしたよね。 自己との対決は自己の条件となっている森羅万象,万人万物にへの自己の答えでしょう。 そうでなければ自己の解決にはなりませんものね。 そして多くの求道者はその答えと実現にどこまで自己を見ることができるか、釈尊の答えと実現がどこまで包括してくれるか。でしょう。 釈尊としては、自己に対決してその対決の中身である他者にどれだけ自己の答えと実現が通るか。だからそういう誠実な態度で周囲に来てくれた他者のお導きをしてこられておられるのでしょう。 私は仏教者ではないが、同じヒンドゥ哲理を40年ほど在家で精進勉強しております。Self-Realization Fellowshipという団体です。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
1593okada様、こんばんは。 >「ブッダが生きていた頃、目の前にいた人々に対してでしょうか? 」 ブッダの説いた「法」とは、、、例えば「1+1=2」かと。 それを「誰のために説いた」とは、ナンセンスでしょう。 (・・・強いて言えば、「人類的な発見」とか? ・・・いやいや「真理」だ、とか。)
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
その質問は宗教上のブッダの話でしょうか?そうなると宗派によっていろいろ考え方がありそうです。 歴史的な話なら目の前の弟子に対して話したのだと思います。 経典で具体的な弟子の名前、例えば「アーナンダよ・・・」と語りかけていますから。 弟子との間の問答が後の時代に経典になったのです。
- ways
- ベストアンサー率31% (79/253)
仏様、神様は人を選ばずに手を差し伸べてくださいます。 仏様の教えを、人間の言葉に翻訳するブッダも、誰彼となく、教えを説いてくれました。特に、教えを必要とする、求めてくる人達に。 そして、人に説いた教えを聞いた人が、他の人に伝えることができます。そうして、あらゆる人が救われます。 「人のため」は「自分のため」になります。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
ブッダの言葉(理法)は、遍く衆生に対して説かれたものであると聴きます。目の前の人を通して、その奥にいる無数の人々(衆生)に向けて語られたものと受け取って良いのではないでしょうか。 従って、自分自身に向けて説かれたと受け取るのは少し違うのですが、しかし同時に、そのように自分の事として受け取ることは、決して悪い事ではないとも思えます。
- chie65536(@chie65535)
- ベストアンサー率44% (8741/19839)
>ブッダがなにも話さなかったというのは、何か記録があるのですか? あります。 弟子が「どうやったら悟りを開けるのか?悟りを開く方法を教えて欲しい」と懇願した所、ブッダは「お前は、今まで、私の何を見て来たのか。人から教わったのでは悟りは開けない。今までの私を見ていたのなら、悟りを開く方法は判る筈だ」と言って、一切、何も語らなかった、と言う内容の記録が、経典の一部として後世に残されています。
- Towa_Herschel
- ベストアンサー率9% (6/63)
衆生、全ての人間に対してですな。 因みに釈迦の説いたものの中に縁起がある。端的に言えば因果です。 当たり前のことですが、原因があって、縁という不確定要素が加わって 結果が生じるということです。 質問者がつまらなく生きている結果にも原因があるし、それを変革 しないと、今後も同じ事を言い続けることになる。どこで断ち切るか、 それは質問者次第です。 中日の山本昌も言っていますよ。運を引き寄せるには、結局普段の自分の行い 次第だ。運が自分の方に向いてきても準備ができていなければそれを無駄にする。 そんな感じのことを言っていました。まあ、言うは易く行うは難しですが。 因みに、このカテゴリには投稿すること自体が目的の狂人が少なくない。 まともな書き込みが何%あるかどうかと言うところなので正直参考にしない方がいい。
- moha91
- ベストアンサー率58% (125/212)
質問に対する直接的な回答としては、 娑婆世界に生きる一切の衆生(過去現世未来を含めて)のために法を説いた、と伝えられている となると考えます。 まず「と伝えられている」と注釈を入れなければならないのは、仏教学の大前提として、釈迦牟尼の活躍していた時代のインド哲学では、文字でその教学を伝える、という文化が無かったため、釈迦の教えを直接その当時に書き記したものというのは存在しないためです。 釈迦滅度後に、その釈迦に集う宗教集団は他の教学と同様に釈迦の教えを口伝で伝えていきました。しかしながら仏教集団が勢力を拡大し、集団が大きくなると口伝だけではその教えを伝えきれなくなり、且つ解釈によって分集団ができるようになってきました。そのため教団としてはその教えを文字として記録し各集団の統一を図ると共に、教勢拡大のための手段とするため、文字としての釈迦の教えの記録=経典を作ることになったのです。これは実に釈迦滅後約1世紀後のことになります。 以上の事から、経典は釈迦が直接記録したものでは無く、その弟子達が口伝として伝わってきたものを書き記した形(「如是我聞」というフレーズが各経典の最初に頻出するのはこのためです)となりました。そのため、仏教学上は釈迦が直接そう言った、とすることができず、伝聞によるものであると注釈を入れなければならないのです。 次に教えの内容ですが、釈迦の教えの源の部分は伝統的なインド哲学と同様に、人が輪廻から解放され解脱を得るためにはどうすれば良いのか、というところから出発していると考えてよいと思います。この目的は、人はどのように生きるべきか、という普遍的な命題ですので、誰か特定の人々を指すわけではありません。また仏教の中心教義は、あらゆるものは相対的であり(諸行無常、諸法無我)人として生きることの苦しみ(一切皆苦)とその解放(涅槃寂静)を説いています。 仏教の目的は何かというのを理解せずとも、人として生きる目的を説いた、ということを理解すれば、自ずと回答は明白と考えます。 また乱暴な解釈をすると、解脱に達するまでの方法論によって仏教内の宗派がわかれていると考えればよいでしょう。例えば上座部仏教などは、教えは一切衆生に説かれているが、その中の行の実践者のみが解脱を得ることができる、としています。一方、日本の大衆部仏教である浄土真宗は、阿弥陀仏さえ信じていれば修行する必要も無く極悪人ですら成仏できる、という教えです。 要は教えを乞う機会としては一切衆生に与えられているが、実際に解脱がどのように可能かは考え方に多様性がある、ということになります。
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