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悪は 善と同じように存在していますか?
1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。 2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。 3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。 4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。 5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか? 6. 回答は ふたつに分かれると思います。 6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。 6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。 どうでしょう。
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カントは「人倫の形而上学の基礎付け」の冒頭で、「われわれが無制限に善と認めるものとしては、この世界の内にも外にも、ただ善なる意志しか考えられない」と言っているように、善と悪の概念は経験に由来するものではなく、経験に先立ってある、先天的、ア・プリオリな概念。 たとえて言えば、ソクラテスのいう「善のイデア」とか、プラトンのいう「イデア」とか、もともと人間に「善のイデア」があるのと同じように「悪のイデア」もある、いいかえるとたいがいの概念というのは「二項対立」から出来上がっていて、行為そのものは善でも悪でもないけれども、その「二項対立」の概念を行為に適用して、行為を善なる行為と悪なる行為に区分している。 ちょうど、私たちが言語によって、世界を分割し、さまざまものが存在すると言っているのと同じように。 「良しと見なしたことを広く善と呼ぶとします」 ・・・・・・というのは、ただの循環、なぜなら「良い」とは「善」なのですから、広く善と呼ぶ必要がない、良いと善は同じだから、何も言っていないトートロジーに過ぎない。 「この善なるものごとは存在します」 ・・・・・善なる概念が、先天的に存在し、それをものごとに当てはめて、ものごと、あるいは行為を善と悪に区分しているのだから、ものごとが存在し、概念は後からというべき。 ものごと、あるいは行為は、善でもなく悪でもない、ニュートラル。 だから「善なるものごとが存在する」という言い方は誤解を招きやすい表現。 むしろ、善・悪の概念が存在し、ものごとはそれとは独立に存在する、と言った方が誤解を免れる。 その独立に存在するものごとに、善・悪の概念を適用して判断している、区別している、と考えた方がいい。 したがって以下で述べているのは、その善・悪の概念を現実、あるいは経験に適用している事例。 善・悪の概念は物事、あるいは現実から帰納法的に導き出されるものではないので・・・・・ 「何らかの危機にあって助かったというとき、そのわれわれの存続は善だと呼ぶ」という前に、すでに善・悪の判断が先行している。先・判断がある。 つまり、助かることは良いことだという一般通念が念頭にあって、危機にあって助かることは良いことだと言っている。 要するに、良いことは良いことだ、という循環がある。 一般通念にしたがうことが良い、と言っているにすぎない。 あるいは、こう言った方が良いかもしれないが、すでにあなたの頭の中に、これこれは良いこと、これこれは悪いこと、という先・判断があって、それをものごとに、行為に適用して、私は一般通念にしたがいますよ、という自己の信念を表明している。 だから、6-1と、6-2で質問する前に、すでにあなたは答えを持っている。 答えを持っているけど、それを伏せて、他人に質問している。 あなたが答えを持っているのだから、他人に質問する必要はないと思いますが? 善・悪の概念は先天的だから、善が存在すれば、悪も存在しなければならない。 善だけ存在して悪が存在しなかったら、そもそも善も存在しない、「二項対立」の概念は一方がなかったら、もう一方もない。
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- kurinal
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B様、こんばんは。 だから、現代福祉では「自立・自律」が重視されるのですね。 (・・・ことに、「自律」)
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だから《悪》は 善と同じようには存在していないと? 自律を重視すると言っても 自律ができるようにたすけることをおこなうんでしょうね。 ご回答をありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
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ある人、あるいはある集団にとって善であっても、 立場が異なれば悪となる、そのようなものを「存在する」 と言ってよいのだろうか? 単にそれを評価する人間の脳内の価値判断の問題であって。
補足
そうしますと: ☆☆ 3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。 ☆ について 善だと見ないし 悪と見なされる場合がある。――ということでしょうか? ご回答をありがとうございます。
- barabarakon
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あなたの主張をまとめると、 あなた以外のあなたより頭のいい人はすべて「落ちぶれている。」 どんな人が優しく理をたてて話しかけても、「しっかりしろ。なっとらん」といちゃもんをつける。 あなたにとっては、いちゃもんをつけるのが善である。 ゆきやまゆにこ(患者)やおこりざる(ライダー爺さん)たち、には自分から「降りて言って救済をしている」つもりで『偉そう』にする。 えらそうにするのが善であるという。偉そうというのはえらくないんですよ!おじいさん! あんたの いちゃもん・偉そブリだけとっても、相当の「悪」です。 あんたのそぶりは、醜い。 また、あなたの悪臭は段違いでくさい玉ねぎと納豆を混ぜて死体の中で腐らせたような匂いです。 死臭に近い、みっともない「ルンペンの垢」のような異臭です。 あなたは、自意識過剰で、偉そうにしているだけの退屈だめじじいです。 あなたの自意識過剰は、悪です。 あなたは、簡単な単語でいうと悪人。 自分が救われる最後の命綱が、親鸞=念仏であり、 全員が善のインチキ理論。(「すべてが善」なるいいぐさも、かりてきた盗品理論) 「みんな善だ。 おーっとう!てっきり わすれてたが、俺もみんなの仲間だじょ。 今まで気が付かなかったけど俺様も善なんだなあ。 すごい いいおしえだ!しんじてみそ!どうでもいいから、まず俺をお前に混ぜろ!」 どうでもいいけど俺は救われる。最悪キリスト教の保険が切れても、次がある。念仏で悪人成仏だからな!楽ちん楽ちん! 一応確認しておきますが、 善に悪を混ぜれば善ではない。 こんな簡単なこともわからないあなたは、悪です。 間違った戦直じじばばの教え=うそっぱちを布教しようとしているからです。 あなたのおしえは、ばからしいおしえであり、世の毒です。自分で自分の教え酔いしれている。(あなたは自分自身を大預言者であると勘違いしているようですし)底抜けの勘違いは、まさに罪あくです。 実際、あんたのゼンは、ぜんぜん(銭銭)か、膳でしょう? あなたが善行をしたところを見たことがありません。善行は人との関係で行われるものですが、あなたが人とかかわるとき、みてると、必ずもめ事がおこる。そして、もめごとを起こしているのは、常に、あなたです。あなたの傲慢で且つ悪に浸かった精神が、もめ事を起こしているのです。 人間関係は「もめ事」である!もめ事も俺の手にかかれば善である。俺から出るものはすべてが善であるからである。ぶっかけてやる!俺様をかいでみろ。 痴漢は消えろ! あんたが快感 きもちい いいってだけで、ほかのひとには反吐が出るほど「キモイ」。 ほんとうっとうしい「くさいだけのくそじじい」! このうっとうしさだけ見ても明確な悪です。 おいしいご飯に「なまたまねぎ」と「なっとう」じゃ! 膳に「くさいの」をまぜても食べられる!「スープのあく」だってたべられるからな。 ごはんはごはんじゃ!かわらない!ちょっとくさいだけだ。みとめろ。 認めないやつは落ちぶれている。 あにをまぜても「ゼン」だ! おいしいぐらいだ!俺様の悪臭をみとめろ! くさいっていうな!「たべられるんだ!」おまえもたべてみろ! 一日4パック納豆食って、その一つ一つに4分のひとたまの生玉ねぎを入れて食い散らかす・・・あくしゅうジジイ。 ---くせえんだよ!だれがたべるか!くそじじい!
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ あなたの主張をまとめると、 ☆ と言っているが 次のようなやり取りの意味するところを見ていない。判断材料から落ちてしまっている。: ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ ◆ しょせん、みんな遊びじゃないですか? ☆ ぢゃあ マジは おれだけか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この指摘が示す問題を別にしたまま: ★ どんな人が優しく理をたてて話しかけても、 ☆ という捉え方は 出来まい。 前提から 捉え直さねばならないような議論をしている。ってことだ。 ★ 「しっかりしろ。なっとらん」といちゃもんをつける。 ☆ ことは 事実に合っているが その認識内容から: ★ あなたにとっては、いちゃもんをつけるのが善である。 ☆ という判断をみちびくのは 《しっかりせよ。成ってないぢゃないか》と言われた相手のほうの意志表明を無視していることになるまいか? 相手の議論内容を批判し 相手の人間性について魂振りをしてやるといったこちらの側の意図について それが相手の側ではその相手自身の意図や意志とかみ合っていないのなら 双方のあいだのやり取りのウワベだけを取り上げて 第三者が理解をするのもましてや判断をもするということは いかがなものか。 (あ) 《念仏》は お呼びではない。信仰からは落ちて行くもの。 (い) 《キリスト教》という呼び名は 死語である。 (う) 善悪論と善人悪人論とは 根本的に違う。ひとを《善人や悪人》に分けることが マチガイ。そのように判定できるというおまえさまは いったいなにさまだい。 (え) 人は 自然本性なる善を基礎として 心のへそ曲がりを 止む無くにしろすすんでにしろ・多かれ少なかれ おこなって来た意志行為とともに自己形成して来ている存在である。悪をも引き受けている全体を成す人格としての存在である。 (お) あんたの善悪論は 浅すぎる。それぢゃ 魚が干上がってしまう。 (か) だからなのか わたしの命題が オシへのように見える。わけだ。オシへは 糞くらえだとつねに言っている文章のほうは 無視か。 (き) ★ (あなたは自分自身を大預言者であると勘違いしているようですし) ☆ ということは よほどわたしの理論に心酔してしまったのか。それにしては 何もわかっとらん。初めはあまりにもとうとい理論であるので 酔い痴れてしまったということか。その内酔い痴れから目を覚ますだろうか。 (く) ★ あなたが人とかかわるとき、みてると、必ずもめ事がおこる。そして、もめごとを起こしているのは、常に、あなたです。あなたの傲慢で且つ悪に浸かった精神が、もめ事を起こしているのです。 ☆ 剣を投げ入れるということの真似をしているって言ってるぢゃん。 また 魂振りの儀式でない儀式をおこなっている。魂が死んでいるのだから これをまづ振り起こさねばなるまい。 (け) 《傲慢で且つ悪に浸かった精神》をも こちとらはぜんぶわが精神の胃袋に飲み込み引き受けこれを消化してやり 心の状態のやわらいで行くありさまをその相手に見せてやらねばならない。わたしのからだ・わたしの文体が スクリーンになっている。ひとはこれを映画のごとくに見ている。 (こ) ★ 人間関係は「もめ事」である! ☆ チガウ。哲学は けんかである。 《もめ事》というのは わがスクリーンに繰り広げられるシーンとしての一つひとつの主題である。 (さ) 玉ねぎは 中くらいの大きさのものなら 一食に三分の一個を食べる。ネギもたっぷり。 鰹節やすりゴマを入れたときもあったが 多すぎるのでやめている。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
演技してやろう。 俺は悪人と言われ続けてきたがな、 それでも俺は死なない。 俺は俺だー。 生きている証拠品をこれでもかと卑しい人間様の前に並べている。 俺は生きている。 まさかここまで来て俺様を抹殺できまい。 私はまだ代弁しているだけだよ。 私の数々の哲学的成果はどうでもいい。 私に不満はない。 それよりも、かわいい悪魔たちが、君の先人にいかように扱われたかを知りたまえ。 聖霊としてあらわれる姿は、天使悪魔の区別なくポケモン。 かわいいわが子だ。 精霊信仰は西洋にもあるから、アマテラス治世を見て来た私が表現すると、アニミズムと解説するわけにはいけない。 精霊に該当する言葉はポケモンだ。 20兆円かき集めたのははた玩具店の下請けだよ。 私への報酬は、彼らの死の悟りで、極めて迷惑だがね。 私は、父母の去った老後を悠々自適に一人ぐらしだと楽しみにしていたが、嫁候補が現れたので、借金取り立てを捨てて、前向きに金を工面しなければならないが、哲学はいい線いっているし、娯楽性も高い。まあやってみるよ。古い仏教研究ノートは1冊書く位たまっている。
お礼
まあ そうなるのかな。 ところで 悪は存在するのかい? ご回答をありがとうございます。
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
ワーイ! OKウエイブのサルのお山のボス・ザルが顔を真っ赤にして、われを忘れ、感情的にカッカして、回答者を罵倒している! まんまとワナに引っ掛かった、楽しいなあ、嬉しいなあ、愉快だなあ。 そんなサルのお山のボスに執着しているんですかあ? ちょっとでも反論すると、サルのお山から蹴落とそうとする。 どんな汚い言葉をつかっでも、ボスの地位を脅かすものは許さない、という訳ですネ? わたしゃ、あなたに挑戦する積りなんて、これっばかしもありませんから、安心してください。 この際、いっちょう、からかってやるか、と思って、回答しただけですから。 あなたが、感情的に、思わず度を過ごして、カッカ、カッカするのを見て、ヤッターッと快哉を叫びましたョ。 あたしゃネ、ヤフーでもそうですが、みんなヒマつぶしで遊んでいるだけですから、その冗談をマジにとられると困惑します。 しょせん、みんな遊びじゃないですか? カッカして感情的になるようなもんじゃない。 よっぽど、私の回答があんたの神経を逆なでして、感情的にさせたことは狙い通りではありましたが、それに引っ掛かるあんたもあんたです。 そんな下らない回答に、いちいちカッカして感情的になっていたら、つまらないでしょ? 私だったら、笑って済ませるところですョ。 そうじゃありませんか? 日頃冷静なセンセイが取り乱すなんて、みっともないと思いませんか? こんな若造のいうことをマジに受け取るなんて、私には信じられません。 大人げないんじゃ、あーりませんか?
お礼
ぢゃあ エールを送って損したわけだ。返しやがれ。 しかし アラシは No.2にも来ているけれど ダマシは初めてだなぁ。 まんまと・・・。 しかし うまいこと へたくそな議論をしたもんだ。 ホンネなんぢゃあ。 蟻と見て手加減をする象ではないんだよなぁ。 ★ 日頃冷静なセンセイが取り乱すなんて、みっともないと思いませんか? ☆ それが 瞬間で湯を沸かすときほど 冷静沈着 理路整然になるんだよなぁ。 もともと ★ 大人げないんじゃ ☆ わい。こちとらは。 ★ しょせん、みんな遊びじゃないですか? ☆ ぢゃあ マジは おれだけか。
- JS3JS4JS5JS6JC1
- ベストアンサー率0% (0/22)
2.が間違い。辞書を読みましょう。 それ以降は読むに値しない落書きです。
補足
そうですか。それは あなたには あいにくでしたね。 二行ですが 質問者も あいにくでも 読まなけれならない。 お互いさま ですかね。 また どうぞ。 ただし 落書きだけぢゃ だめ。
お礼
ちょっと待った。カントが言ったなら 世界認識としての哲学知は そのままわれわれは受け取らねばならないのですか? うりがだい2013さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 冒頭の段落は そのように言っていますね。なぜ・どうして: ★ 善と悪の概念は経験に由来するものではなく、経験に先立ってある、先天的、ア・プリオリな概念。 ☆ というふうに決まるのですか? まづは あなたの推論を――たとえカントと同じものとしてでも――示して 自分の見解としてひとつの結論をみちびいて欲しい。どうでしょう。 概念として持たれている言葉であるのに: ★ 善と悪の概念は経験に由来するものではなく ☆ などと どうして判断することが出来るのですか? まづは 経験事象として捉えたものごとを言葉で表わしそこに概念を形成して そこからさらに具象を離れ抽象的な概念つまり観念として用いることはあっても そうだとしても 一般に日常生活にも用いる言葉≒概念が どうしてただちに《先験的・超越論的》だと言えるのでしょう? ★ たとえて言えば、ソクラテスのいう「善のイデア」とか、プラトンのいう「イデア」とか、もともと人間に「善のイデア」があるのと同じように ☆ ちょっと待った。大幅に待った! その《もともと》とは 先ほどの《先天的・先験的・超越論的・アプリオリである》ということですか? ――そんなバカな。 なぜなら 先験的なものごとを経験事象としてすでに用いている言葉で示そうとしたなら その示そうというときの哲学行為が経験的な認識や判断としてある(あった)はずです。 たとえそのものが 経験世界に先行するものごとだとしたとしても 経験世界のものごとを持って来てそれを表わす言葉として用いると決めた事件があったはず。 イデアは ヰデオという言葉と同じようなもので 《見られたもの》というくらいの意味の言葉でしょう。ヱーダ( Veda )やヰズダム( wise ; wis-dom )などの語に残るように《知恵》をも表わし得るとは見ておきます。 つまりは ふつうに生活の中で用いられる《善》という言葉が 先験的なものとしての《善なるイデア》に当てられたという事件が――想定上としてでも――あったはずです。 つまり ということは 《善》という言葉≒概念はすでに 日常用いられているからには その一定の意味内容がある。この意味内容とは 何か? という問いとその問い求めが先に来なくては 話が渋滞しますね。あるいは 一足飛びに月に到着となりますね。 ★ いいかえるとたいがいの概念というのは「二項対立」から出来上がっていて、行為そのものは善でも悪でもないけれども、その「二項対立」の概念を行為に適用して、行為を善なる行為と悪なる行為に区分している。 ☆ うりがだい2013さん わるいですが これは めちゃくちゃな議論であると判定を下して その説明に取り掛かります。 (あ) 《二項対立》つまり《対立》が どうして先験的なことなのか? ぎゃくでしょ? 経験事象としてのいざこざや諍いを捉えて そこから《対立》という概念をみちびき出し この言葉≒概念を 何を食ってあたまがそう成ったのか 先験的な世界へと移した。のでしょう。 (い) あなたは いまだに《ヒトというイデアが先にあって これが 経験世界に降りて来て 生物の一員として出来て来たんだ》と思っているのですか? (う) 少なくとも 《イデア》は 経験世界を超えた場としてわれわれ人間が想定するのですという最小限の断り書きを添えてください。 (え) ★ その「二項対立」の概念を行為に適用して、行為を善なる行為と悪なる行為に区分している。 ☆ ぢゃあ 初めに生活世界で使っていた善と悪の概念とは別様に 用いることとしたとでも言うのですか? (お) イデアを勝手に先行する勝義の世界だと決めつける《哲学》は: ★ 行為そのものは善でも悪でもないけれども ☆ と言えるのですか? 明らかに勝手な振る舞いでしょう。人びとの同意を得なければなりません。これを無視して決めつけるのは 善ではありません。《行為そのものが 善ではありません》。 ★ ちょうど、私たちが言語によって、世界を分割し、さまざまものが存在すると言っているのと同じように。 ☆ 言語論は ここでは控えますが 差異による関係の錯綜やその構造が シーニュとしての言葉だと言ったかと思えば 言葉は それによって《世界を分割》するのかい? それに 《言語によって さまざまなものが存在する》というのなら 善や悪という言葉によってその善あるいは悪がそれとして存在するということではないのかい? うりがだい氏よ しっかりしてくれたまえ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、助かることは良いことだという一般通念が念頭にあって、危機にあって助かることは良いことだと言っている。 要するに、良いことは良いことだ、という循環がある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 助かることは 良いことだという一人ひとりの経験があってそれらをまとめて捉えるなら それが一般に人びとの通念になった。さらにこれを捉えて 《よい》は 《良い・好い・善い・佳い》などの意味合いが含まれるからこれを一般化して(ゆるい感じで)《善》と呼ぶ。 こう言っています。《良いことは良いことだ、という循環がある》のは 当たり前。 しっかりしてくれよオ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから、6-1と、6-2で質問する前に、すでにあなたは答えを持っている。 答えを持っているけど、それを伏せて、他人に質問している。 あなたが答えを持っているのだから、他人に質問する必要はないと思いますが? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしその論理なら そういう回答を寄せることすら 必要はないとなりますまいか。 つまり 答えを持っていない場合にも 答えが与えられてもその答えを受け取らない・参考にしないと言うのと同じだからです。 ぎゃくに言えば すでに答えを持っていたとしても あたらしい別の答えに遭遇したらそのヨリ良き答えを受け容れることは じゅうぶん考えられます。それが 哲学のいとなみです。 あんたは 阿呆か。頼んますよ。 ★ 善だけ存在して悪が存在しなかったら、そもそも善も存在しない、「二項対立」の概念は一方がなかったら、もう一方もない。 ☆ かしこいと阿呆とが 二項対立だとしたら・そうだとしても 阿呆が存在しなくても かしこいは存在するよ。 よう うりがだいさんよ。あんた おちぶれたなぁ。多少の親しさを込めて エールを送ってやらねば。