- ベストアンサー
悪は 善のへそ曲がり・善の損傷行為である。
悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。 だから 悪は ない。存在しない。 善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。 またその傷つける行為のことである。 善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。 これを問います。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (6)
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
回答No.7
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
回答No.5
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
回答No.4
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
回答No.3
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
回答No.2
- tomoka_m
- ベストアンサー率9% (15/151)
回答No.1
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ 美しい女の人、イケメンを見て、 性的な気持ちをおこすのは、人間本性でしょう。 ・・・ 結婚している人の場合、 不倫や浮気はどうなるのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ じつは これは 【Q:婚外子は 差別されているのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8274657.html において 関連する主題として考えました。 結論として 次のように考えます。 ○ (不倫の問題) 1. 浮気をされる配偶者(またすでに子がいればその子たち)に対して 浮気をする夫または妻そしてそれぞれその相手は 裏切り行為をおこなうことになる。 2. おそらく《婚姻》は ふつうに生きることが善であるのと同じようにいわば《いのち》の動態として 生きる善であると考えられる。これを裏切ることになる。自分自身の心をも むろん 裏切る。 3. それゆえ いわゆる(新造語ですが)ヤマシサ反応が起きる。胸がさわぎ心はゆらぎ 顔は赤らみ舌はしどろもどろになってもつれる。良心もいたむ。 4. このヤマシサ反応なる感性が 心のやすらぎと善とをおしえている。 5. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 不倫したい、浮気したいという気持ちや、その行動を抑えることは、 人間の善性を歪めることではないのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その感情を 先の感性がしのぐ。 6. やめよと言われたら やめたくなくなるのが人情。というわけで 卓越せる感性をもさらにしのぎ行かんとする奥の手が 出て来る。 7. この感性に反旗をひるがえすのは じつは・じつに 理性である。 いわく: そんなことを言ったって エロースは 生きるチカラなり。これをないがしろにするのは 感性および理性の死を意味する。それに あやまちを犯すのが 人間スサノヲなりと と。(この場合は スサノヲ人間語を利用して論陣を張る)。 8. おそらく 不倫をやりたい人は 離婚してやればよいでしょう。われには別のいのちの動態があるのだ。よりよいわが善なる人生を目指すのだと。 9. ◇ 背徳行為、その信義則、 ☆ これは 基礎としての生活善にかかわっているものと思います。それとしてのヤマシサ反応は 第一次的な人間の感性であると。 10. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 婚姻という契約の不履行に対する罪悪感〔は〕 たぶんに後天的なもの、社会的なものでしょう。 人工的なものです。 自然に反している、と言ってもいい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは どうでしょう。 たとえば 婚姻は善なりというのは 一般的な原則です。その原則にのっとったという場合にも マチガイはあり得ると思われます。ひょっとすると このマチガイを侵したということに気づいたという場合が あるのかどうか? これが ひとつの論点なのでしょう。 つまり 《契約の不履行》とそれへの心の痛みといった観点は 《婚姻の善なること》に対して二次的な・手続き上の問題であり得るとは考えられます。 11. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、 《不倫・浮気》をすることが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか、 そうではなく、 《不倫・浮気》をしないことが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 婚姻をめぐってのわがイノチとしての善を 見直すことがあるか? こういう問いであると考えます。 12. 一般的には あやまちうる人間という条件が ひとつあるでしょうし 個別・具体的には おのおの当事者の主観に問題はあつまって行くものと考えます。 13. こたえは 一般論としては出ないということだと思います。(うまく逃げた)。 14. (8)は それだけを取り出すと 投げやりなかたちで発言しているようですので その点 いちおう注意してくださいとおことわりしなければならないかと思います。
補足
本居宣長は おそらく初恋の人と 再婚しています。 次の記念館の記事では 否定する様子ですが すでに婚姻の成ったものを離縁してまで 初恋の女と結ばれたかったのではないかと推測したいものがあります。 ▲ (宣長記念館の記事) ~~~~~~~~~~~~~~ http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/kekkon.html △〔最初の結婚すなわち村田ふみとの結婚は〕僅か3ヶ月での破局である 。 〔宣長から離縁している〕。 離婚の理由は不明。 〔初恋のひとである〕草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。・・・ △ 離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘〔の〕女(むすめ)・たみとの縁談話起こる。 たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。 宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 草深たみは はじめすでに嫁いでいたところ 夫が 宣長の村田ふみとの結納が成って程なくあとに亡くなっている。といった事情もあるようです。 この仮説を発表したのは 日本語学者の大野晋ですが(『日本語の世界』にややくわしい記事あり) 大野は妄想癖があるという批判的な見方もありますので その一例をも掲げておきます。 ▼ (田中久三のサイト:宣長の結婚) http://tanaka0903.net/?p=9372