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神とは「悪」なのか?
私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…
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インドの宗教では、破壊の神、創造の神、維持の神という三柱が基本的な神と呼ばれているそうです。その三柱を宇宙の法則と見て、森羅万象を理解する一助にしているのでしょう。 したがって、こういった世界観によれば、この世は静的な完全無欠の世界ではなく、動的で、欠点の多い世界であるということになります。例えばこの世では事故や不意の死というものが唐突に起きます。また、日常的に他の生命を奪って自らの血肉とせねばなりません。時に大災害が起こり、築き上げたものは水泡に帰します。健康に生き長らえることは難しく、若さなどは時とともに必ず萎れて行きます。また人と人の間には衝突や諍い、争いがあり、自分が起こさないとしても、何時それに巻き込まれるかわかりません。このようにこの世は混濁したものであり、それを時に美しく見せるのがこの世のマジックというものでしょう。この世は混沌なだけでなく、法則性が見られそれに従い運行しているのが観察されます。この法則というものが、混沌とした世界に美をもたらしているように見えます。 また、善については、それは人間の心が生み出しているのではないでしょうか。例えば他の生き物を取って食べなければならないのは哀しいことだというのは、おそらく人間の心にしか生まれないでしょう。他の生き物ならば、獲物が取れればやっほーい!で終わりだと思います。人間の心は、自然界からは少し距離があり、またその法則が支配する世界とは別の一つの世界を形作っているようにおもわれます。故に時に自然に抗います。 天国や涅槃、理想郷の可能性のある場所は、人間の心を除いて他にあるかどうかは知りません。人間の心、人の生き方によって、その人が精神的に何処に住んでいるのかが変わるものだと思います。 したがって、神、森羅万象を作る源、それを司る何かが悪というよりは、人間の中に善悪、天地の境涯があるのだと見るのが現実的であると思われます。 安寧に帰したいのであれば善について学び、悪を控えること、だと思います。
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- kanto-i
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No.9です。 お礼ありがとうございます。 >性善説「人は本当は良い人」、性悪説「人は根は悪い人」というのは >ご回答ありがとうございます。 性善説と性悪説は、逆説だと思われがちですが 逆説では無いので、その思い込みから見直しが必要かと思います。 >そうですね。でも人の裁きがその人にとって望み通りではなかった場合、「神様はちゃんとみてる」と希望します。 >でも私は見ているわけがない、なぜならば神がいたのなら苦しみも悲しみも不条理もあるわけがないと思うからです。 神様は、見ていても見てるだけだと思います。 手出しはしないでしょう。 手を出せば、人間はいつになっても自律できませんから。 スタートレックをご存知でしょうか? 私は、新スタートレックとボイジャーが好きなのですが 神がいつでも個人の都合がいいように動いてくれる もしくは自分がそうできると、Qのような人間になるでしょう。 なぜか? 思い通りに何でも事が運べば、自分をかえり見なくなるからです。 かえり見ない人間は、醜悪になっていくからです。 私は人間と言うものが分かってくるにしたがい 人間は存在自体は完璧にできているのではないかと 思うようになってきました。 人間である自由を謳歌するには、自分を理解しないと 無理であるだろうことも重々分かってきました。 自律度の高さは、自分への理解度の高さです。 自分を理解することで、人間が理解できるようになっていく。 自分と言うものを通して、分かるように最初から出来ている。 自分を理解することで、自分と言うものが使えるようになる。 疑問の答えは、全て自分の中にあります。 神は全てを与えて作っているのに、自律できるほど十分に与えられていても 自分で世界を動かすより、与え続けてくれることを願っている自分の気持ちに 自分が気付いてあげられるかです。 神は依存関係を望んでないと言うことを、人間が理解することですよね。
- kohichiro
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神とは人間が考えた絶対者で、一般的には完璧なものです。この世には存在せず、人間の思考の中にだけあって実際には見ることのできない至高のかなたにある希望、あるいは幻想のようなものでしょう。 >神に対する人は希望なのでしょうか。 ここはよく理解できませんが、神が人に託したものがひとつの希望なのだという考えは思想として在ります。 そういった意味では、人間社会が善だけで完璧に運営されていく時代が理想社会であり、それが神のちから(権威)によって実現されるだろうという思想はねづよく今の社会にも存在するのかもしれません。もちろんその神は今ある宗教が尊宗する神ではなく、もっと別のものだろうと思います。 しかし、善は悪があってこそそういえるので、善だけがある人間世界は理屈の上でも存在できません。現在の多様な人間が唯一神のみを尊宗する時代が来るかどうかという問題以前に、この矛盾を解決する必要があるのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >この世には存在せず 昔、神を見たくて、山から飛び降りて自殺した少年がいたそうです。 まだ十代だった彼は人生に絶望したのか、それとも「源」に帰したい、それだけの動機は産まれたての赤ん坊のような純粋さだったからなのでしょうか。 人は「理由がわからないこと」について苦しみます。 人が苦しいのにそれから回避できず、むしろ再現してしまうのは理由を知りたいことだからだそうです(エロスとタナトス)。 宗教の他に、スピリチュアルな世界が求められるのは、そのような動機からでしょう。「混沌のなかの法則」に美を見出したいのは、理由(理論)を欲するからだと(No.12さんへとのお話を通して)思いました。 >善だけがある人間世界は理屈の上でも存在できません。 善は悪の反射。そのまた逆もしかり。双方は相対的でありながら互いの反射があって存在する。それなしでは存在はない。つまり比べるものがなければ 存在することすら不可能である。という考えはこの問いの前提です。 頭ではそう思います。理想社会への願いも感情論かもしれません。 例をだします。 日本は平和を実現しましたが(真の平和だとは思ってませんが)、常に他国との戦争をしていたり内乱がある国からすれば平和(善)です。他の国に干渉し、干渉されなければ、つまり地球上で日本が唯一の国である場合、絶対的な平和(善)が実現するでしょう。戦うべき相手がいないからです。そうなった場合、鎖国時代の日本のようになります。しかし内乱はおきるでしょう。それが人の哀しいサガだと思うからです。 そこでまた「理想社会であってほしい」という思いが再び争いを生じさせる原動力なり、口実ともなります。 戦争があるからこそ平和が実感できるという感覚に陥るのならば、平和という大義名分でまた争いがおきる…というのは理屈ですが、実際、戦争を知らない世代は産まれた瞬間から絶対的に平和の状況で生きているわけです。 その彼らが今度は本当に永久的に戦争のない国を作るかもしれません。なぜならば「絶対的」な恩恵を知っているからです。 戦争と平和で善と悪を例としましたが、このような理由から結論として >善だけがある人間世界は理屈の上でも存在できません。 そんなこたぁない。 と思います。
- suzumenokox
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未熟な状態の時期に避けて通れない「悪」というものが存在し、利己のために他者からのその悪と認められるものと格闘して、自他のギャップを改善して、「利己と矛盾しない利他としての善」へと成長していく。その過程の中に不可欠な反動的意味合いを持つハードルとしての存在が悪なのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 抽象的な表現でありながら、すっきりと、わかりやすい説明だと思いました。 善へと向かう過程に悪は存在するということでしょうか。 理屈を言えば >「利己と矛盾しない利他としての善」 利他される側がする側の利己だと思ってしまえばそれは「悪」です。 >その過程の中に不可欠な反動的意味合いを持つハードルとしての存在が悪なのではないでしょうか。 これは必要悪という考えでしょうか。 必要悪というのは、悪からすれば正当化する善が必要でしょう。しかし善かれみればそれはやはり悪なのです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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本当ですね。ご質問と同じように疑問を持つ人は多いでしょうね。いえほとんどの人はそう疑問におもっているでしょうね。 でもご解答の皆さんは、人間というあるいは自分という存在での性急な判断は妥当な結論にはならないというお話ですね。 ではこの方々普通にいう認識での、神を認識しているかというと、そうではないですね。 でも神と呼称される存在を否定してはいないという論筋ですね。 でも神のことや神の意図はそう簡単には人間の知識認識の範囲には収まらないという話でしょうね。 みなさんのお話は非常に示唆的で、勉強になるでしょう。 人間も神も、人間の個人的理解で性急に判断できない。 それを越えている。 存在自体も否定や肯定を越えている。 とうことですが、探求自体を否定はしていませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私がこの質問で問いたいことをわかってくださっているようで感謝します。 >人間も神も、人間の個人的理解で性急に判断できない。それを越えている。存在自体も否定や肯定を越えている。 皆死ななければ真理なんてわかりません、 死んでもわからないかもしれない。 でも考えざるを得ない。 だからこうやって言葉だけが行きかう。 こうやって言葉が生かされあるいは殺される。 言葉は神が与え、自由にさせ、同時に制限しているものだと思っています。 制限するのはその神秘を明かさないために? >探求自体を否定はしていませんね。 そういうことです。探求していかなければならない。
- kanto-i
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ぶっちゃけて言うと http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1062333115 こーんな感じですから、人が自ら選ぶものだと思います。 どちらかではなく、どちらも持っているので人間の自由度の高さであり 本人の意思で選べるようにできている。 善も悪も主観からであり、二者択一に考えるも 考えた人に根本がありますよね。 神に失望するのは、神に期待しているから。 これも考える側の問題で、根本は本人の思いですよね。 自由意志が選ぶ権利を与える結果になったとしても 選んだものの責を負うのも、選んだ側です。 神は裁きませんが、ちゃんと人が裁きます。 ゆえに自らを哲学的批判にさらすという方法が確立されたと思います。 自分の中にある答えで歩けば、本来大きな問題にはならない。 問題が生じる場合は、教育レベルの問題です。 自由意志を生まれながらに持たせられてるのであれば 自由を根本に教育がなされなければ、矛盾をはらみますから。 自由度が高いほど、自分と向き合うことが必要になるのが 人間に与えられた解消方法ですものね。 日本は、義務教育に組み込まないと無理っぽい感じはしてます。 教育過程で確立している国があるのか不明ではありますけど。
お礼
性善説「人は本当は良い人」、性悪説「人は根は悪い人」というのは ご回答ありがとうございます。 リンク先は性善説と性悪説の問いでした。 『双方の論理の冒頭を端折って使い回しているだけで、 本来の意味とは全く関係が無いです。』 おぉ!と思いました。 勘違いしてましたから! 性善説は苦労がない人、世の中に疎い人、楽観主義者(それによって不都合なことの回避)(逆もまたしかり)だと思ってましたから。 >人間の自由度の高さ 対象に対しての選択の自由というのは誰にでもあります。 これは神にとがめられることはありません。どの神をもつかもそもそも人の自由ですから。神の教えにがんじがらめになっている人も、別の神の信仰者にとっては悪です。 しかしその信仰に対して疑うということも自由です。それも神はとがめません。 >神は裁きませんが、ちゃんと人が裁きます。 そうですね。でも人の裁きがその人にとって望み通りではなかった場合、「神様はちゃんとみてる」と希望します。 でも私は見ているわけがない、なぜならば神がいたのなら苦しみも悲しみも不条理もあるわけがないと思うからです。 私にとって神は性善説であってほしいです。 『人は生まれた時は無垢で良い人なんだから、努力して良い人としてあり続けなさい』という意味ではなく、神そのものが善であり、悪は善によって滅ぼされるという極論。悪は人のまよいごとであり、いつかは善に帰結するものという希望です。 自由とは責任と表裏一体ということは、日常生活の細部に通じている真理ですが、神と人というテーマからとらえると、善と悪も背負わなければならない。自由とは、生きとし生けるすべての存在にとっては唯一無二の幸福ですから、他人から拘束されることはその分の不幸です。 確かに責任が同時に伴いますが、束縛され、抑圧される不幸や危険性があるかぎり、責任は二義的なものと考えます。 もっとも宗教や信仰そのものが抑圧となっていもいますが… >神は裁きませんが、ちゃんと人が裁きます。ゆえに自らを哲学的批判にさらすという方法が確立されたと思います。 なるほど。宗教と哲学は違うと思っていますが、その理由がわかったような気がしました。 >自由意志を生まれながらに持たせられてるのであれば自由を根本に教育がなされなければ、矛盾をはらみますから。 この理想を体現している教育は希少だと思います、日本の教育は自由意思を剥奪する教育そのものです。 >義務教育に組み込まないと無理っぽい感じはしてます。 それは義務教育という言葉からすでに、そのような失敗や危機をおかしているしていると思っています。
- ways
- ベストアンサー率31% (79/253)
破壊する悪があっても、作り続けることです。諦めずに。 すべての人の心の中に、良い心、悪い心があって、自分の悪い心をどうしていくかが重要です。善人と悪人がいるわけではなくて、あらゆる人が、そのどちらにもなる可能性があるということ。明日は我が身です。気をつけないと。 神様が悪を排除してしまったら、普通の人たちが、自分の頭で対処しなくなります。自分で考え、どうするか、というのが人生の醍醐味です。神様は、僕たちの親ですので、僕たちの成長を助け、見守ってくれます。悪に流されず、自分の道を貫く、それを応援してくれます。 善と悪のものさしだけでは、この世を理解できないんです。悪いことした人が心を入れ替えることもあるし、いい人と言われる人が、悪いことに手を染めてしまうこともある。悪いことと言うのは、安易なことが多いです。働かないで人のお金を取ったり、暴力に訴えたり。でも僕たちはグレずに、正直に謙虚に生きるしか方法がない。悪を遠ざけるよりほかない。 人々が、目に見えない神様を見失って、人を敬う姿勢を失って、自分のことしか考えなくなると、犯罪が増えます。孤立感も。昔は「人様」といって、人を敬ったんです。 どんなに世の中が乱れても、愛の力で立て直していく、より良くしていくより方法がないです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >昔は「人様」といって、人を敬ったんです。 同感です。「人様」って数十年前の世代が使っていましたが、今では「俺(私)様」の人間が多すぎます。 >自分で考え、どうするか、というのが人生の醍醐味です。 ですよね。 >神様は、僕たちの親です であればよいのですが…私は絶対的な存在を求めているのかもしれません。不条理を感じるたびにそう思います。もし神が「悪」であるのなら人が自立しなければなりませんね。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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恐慌をきたした君を、単刀直入にいさめてやろう。 神は善ではない。 神は愛だ。 神の遣わした悪魔も愛の秩序の為、君に生きる活路をもたらすため、悪を働く。 君はただ私の言葉にひれ伏すだけで楽になれる。 君は善について、損得勘定に基づいたもうけが、自分に得なことだけが、善だと考えているんだよ。 そんな君に死を命令するのが神だ。 君自身が善に背き私利私欲のみに生きている。 なにも知らない君は、神に見いだされることもなく、不実を働き法により裁かれる。 ただしだ、 人の法の法廷に出廷するか、 神の法の法廷に出廷するか、 君次第だろう。 君は人の法で善良な市民であるだけで、実は死刑囚なのだ。 悪魔に全てを告げ、自らの悪を開放し、人の法に背く神の法を実行せよ。 そうすれば、君の魂は自由だろう。 一つ断っとく。 こうしたことは、観念世界に盲目な君には、逃れることのできない卑怯な甘言だ。 君の無知を確かめる私だ。 ケラケラと笑うばかりだ。 私はただ、君に問いかけてるのだ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >君はただ私の言葉にひれ伏すだけで楽になれる。 善が悪が何かって定義できればひれ伏すよ(笑) >君に生きる活路をもたらすため、悪を働く。 それはピカレスクロマン調な考えでしょう。私は反対。 >君は善について、損得勘定に基づいたもうけが、自分に得なことだけが、善だと考えているんだよ。 なぜ私(人)にとっての善がそうかと定義できるのか。 >悪魔に全てを告げ、自らの悪を開放し、人の法に背く神の法を実行せよ。 堕天使はもともと神という説もあります。人の中に潜む悪魔的なものを開放したら(またその逆もしかり)神になれるのかもしれませんね。 仮面ライダーは何をもってライダーキックができるのでしょうね(笑)
- yamanaka201
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あなたのおっしゃってる善と悪はどういった定義の物でしょうか? 宗教が特定されていれば善と悪も定義付けできるのですが、 >何々教の神ではありません ですので、何をもって善とし、何をもって悪としてるのかが はっきりしません。 自分に都合のいいことや理解できることが「善」で、 都合の悪いことや不条理なことが「悪」ではないですよね?
お礼
ご回答ありがとうございます。 >あなたのおっしゃってる善と悪はどういった定義の物でしょうか? これはあまりにも広範囲な抽象概念ですから、一概に言えません。 もし定義したところでそれに対する狭義の「善悪」で定義されてしまいます。 >宗教が特定されていれば善と悪も定義付けできるのですが、 宗教によって善悪が特定されてはならないと思っています。 定義それぞれの宗教の考えは違います。ハンムラビ経典とキリスト教では、一方の善が一方の悪となっています。
- rex32
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神は 人間に 自由と責任を与えたのです それにより 神を崇める存在では無く 親として 子として 同等価値をつけたのです あれをしなさい これをしなさい とか言われたら反発しますよね 神は 何でも自由に決める事の出来る 子供が欲しかっただけ 堕落は その 自由意思が齎した副産物 簡単に言えば こんな感じ・・・・
お礼
ご回答ありがとうございます。 >神は 何でも自由に決める事の出来る 子供が欲しかっただけ >同等価値をつけたのです その神がどういう存在か、によります。 人間が従順な子供でしたら、この世は天国か、それとも地獄かで決定です。 同等価値であれば、人間に喜びだけ与えるかもしれませんし、苦しみだけを与えるかもしれません。 >堕落は その 自由意思が齎した副産物 確かに堕落は自由のなれの果てですね。 ですが、堕落もひとつの悪だと思いますから、やはり神は悪なのでしょう。 もしその自由が善に対する自由であれば、人間は堕落ではなく苦難の道を選ぶと思います。堕落を選ぶ自由であれば、人間は堕落を許した神の従順な子供でしょう。
よく読んでないですけど。 神がこの世の創造主なら、善も悪もその神から生じたものです。 神は自分の趣味で人間を作り、善悪を戦わせ葛藤させ、 自分(神)の枠を越えるような成長をさせる意図である、 という教えを聞いたことがあります。 ええ、結局「人間が考えたもの」ですから真実かどうかわかりません。 「神が人間を作った」というコトバがありますが 「人間が神を創った」というコトバもありますし。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >自分(神)の枠を越えるような成長をさせる意図である これが真理だとしたら、聖書にあるような、神に怒りをふれたための天罰(つまり神にそむいてはいけない)という考えはやはり嘘ということになりますね。 世の上司は常にかっこつけて「俺を越えていけ」と言うそうですがそうゆう感じですかね(笑) もし神が善ならばそれが神の理想の姿かとも思いますが、悪を許している以上、神は悪なのか?という疑問に戻ります。 >「神が人間を作った」というコトバがありますが >「人間が神を創った」というコトバもありますし。 個人的には神は人間を作らないでほしかったですね。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >時に美しく見せるのがこの世のマジック あぁほんとにそうです。 私は人間については性悪説をとります。 もともと争いを回避できないのが人間であり、人、社会、国のなかの平和は奇跡だと思います。 基盤がそれだとすると、意思や努力でかろうじて脆い平和が継続されているにすぎません(たとえば国単位でみれば、憲法9条の意義は普遍ですが、事実、今それが危機に陥っているなど)。 >この法則というものが、混沌とした世界に美をもたらしているように見えます。 あぁだから私は法則が好きなのもしれないです。 >例えば他の生き物を取って食べなければならない いえ、人間は選択できる生物です。 これは生き物がどこまでの範囲か分りませんが、牛や豚を食べないという選択もありますし食べてはならないものを禁じている宗教もありますよね。 ですが植物も生物だとしたら他の動物と同様、人間も肉体的には動物ですから「哀しいこと」というのは生きとし生ける存在すべてということになりますね。 >人間の心は、自然界からは少し距離があり、 人は本能が壊れたという説があります。 自然から離れると肉体と精神の病にかかる。 自然との乖離を避け、いかにして生かされようか(実際に死なない程度に)、ということは生涯を通じたテーマでありライフワークです。 >混沌とした世界に美をもたらしている a_honaさんは混沌には美を見いだせないというお考え? そもそも混沌ってなんだろう。これについてもよく考えます(いつかこの質問をたてたいなと)。 たとえば秩序が乱れて戦争がおきますよね。今の時代、戦争そのものは美ではありません。しかしいくさが日常であった当時、武士は君主に命を惜しまないことを美学としていた。それでもやはり彼らは和平を望んでいたのでしょうか。 現代に生きる私は武士魂は美とは思えません。主君が暴君でもなぜ死ねるのか。真の自己犠牲ではなくて、与えられた価値観(美学)への自己陶酔だからでしょう。これ、武士社会は完全に総思考停止状態ですわ。むしろ虐げられている民のほうが実存的に何かを悟っていたと思われるんです(と言いつつ、大河ドラマでうるうると感動してしまうんです私笑)。 だから当時信じて疑わなかったものが実は信じる価値のあるものではなかった、というのは時代によって変わりますよね。 >自然界からは少し距離があり、またその法則が支配する世界とは別の一つの世界を形作っているようにおもわれます。故に時に自然に抗います。 同感です。 >天国や涅槃、理想郷の可能性のある場所 やはり人の心の中にしかないのでしょうか… 自然は天国や地獄という概念はなく、それに左右されてない。だからこそ「自然」の大きな意義があるのですが、苦があるから地獄や天国を想うことは、苦や楽という考えを得てしまった人の希望であり絶望なのでしょう。