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一乗谷城と朝倉氏について
一乗谷の朝倉氏のことで気になることがあります。 一乗谷には一乗谷城という山城が存在していましたよね? しかし、一乗谷城は一度も戦闘に使われないまま廃城になったとあります。 そこで、一乗谷城は一体何のために作られ、何をする場所として存在していたのですか? また、朝倉氏の当主が住んでいたとしたら、山の麓にある朝倉氏館は何のために存在していたのでしょうか? 分かる方がいらっしゃったら教えてください。
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一乗谷城は「詰めの城」と呼ばれる城で、一乗谷館のいわば避難所です。 一乗谷城は山の上に築かれた堅固な城で、守るには適していますが、住むにはとても不便な場所です。そのため、居住用の一乗谷館が築かれました。普段は一乗谷館に住んでいて、敵に攻められて窮地になったら一乗谷城に避難・徹底抗戦するようにできていました。 ただ実際問題として、詰めの城に避難している状況というのは、本拠をとられるような大敗北状態ですので、『しばらく耐えれば敵は撤退せざるを得なくなる (友軍・有効勢力が援軍に来てくれる)』ことが期待できないとなかなか厳しいのです。朝倉氏の場合も、当時のあまりの敗北っぷりに家臣団が分解して一乗谷城に避難するどころの話ではなくなり、一乗谷城は使われることなく滅んでいます。 このような「詰めの城」というのは他にも各地にありまして、武田氏の躑躅ヶ崎館にも要害山城という詰めの城があります。
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- oska
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>一乗谷には一乗谷城という山城が存在していましたよね? 存在しましたね。 多くの方が、麓の城戸で囲まれた範囲(朝倉居館跡一帯)を一乗谷城と勘違いしていますがね。 質問者さまもご存じの様に、背後の山に「一乗谷城(詰城)跡」が残っています。 大学生のころ、汗をかきながら登城しました。^^; 空堀・堀切り・土塁・曲輪など、中世戦国時代の山城が残っています。 >しかし、一乗谷城は一度も戦闘に使われないまま廃城になったとあります。 これも、多くの歴史書が詰城と麓の館跡を混在していますよね。 確実なのは、朝倉との戦いでは「詰城も、攻撃対象」になった事です。 詰城は、いざという場合の避難・籠城場所です。 平和な時は麓で生活し、風雲急を告げると一族郎党が詰城に籠ります。 攻撃側としても、詰城に逃げられると戦闘が長引くので「事前に攻撃」する場合もあります。 >一乗谷城は一体何のために作られ、何をする場所として存在していたのですか? 先に書いた通り、「詰城」です。 全国各地にある中世の城は、多くが山上にある「山城」です。 「攻めるに難しく、守るのに優しい」 ただ、水の確保が問題で「城を包囲されると、水の確保が出来なくなり落城」します。 水の確保が難しいのと領土の支配が困難なので、多くの領主は麓に館を築いて生活します。 ※誰も、山上で生活・勤務したくないのが本音でしよう。 ※備中高梁城も山上に天守などがありますが、平時に領主は麓の館で生活しています。 一乗谷の場合、館と山城と考えた方が分かり易いでしようね。 >山の麓にある朝倉氏館は何のために存在していたのでしょうか? 平時の生活・政治の場所です。 領主だけでなく、家来も毎日険しい山上に出勤する事は望みません。^^; 城が平地にある場合は、城と平時の居住地を分ける事はありません。 まぁ、中世では一般的な事です。 近世でも、平山城である松山城。山頂に城郭がありますが、藩主の館・政庁は麓にあります。
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回答ありがとうございました! とても参考になりました!
- ithi
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IKRSNT さん、こんばんは。 実は一乗谷は信長に攻められています。天正元年8月に柴田勝家に責め立てられて、火をつけられて、灰塵に帰しました。 一乗谷は山城ですから、生活と一般政務や儀式ははふもとの居館で行い、いざ戦闘となったら、山上の山城にこもるというようなパターンだったと思います。山上の山城ではとても手狭で優雅な生活はできないと思います。 まあ、最も、籠城するようではどうしようもないと思います。別の質問者様が詰めの城とおっしゃいましたが、まさに最後の砦のようなものだと思います。この問題については萩城が良く近世までその痕跡を残しています。 詳細は下記のURLを参照ください。 朝倉義景. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF 一乗谷城 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F%E9%81%BA%E8%B7%A1 萩城 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%9F%8E
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回答ありがとうございました!
- jkpawapuro
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抑止力というのはそこに防御力があることに意味があるのであって、戦闘に使わないのになぜ作るかというとそこに防御力を用意することによって攻め込ませないことが大事な役割です。 詰め城については既に十分な説明がなされていますが、これはなにも大名当人が立て篭もるだけのものではありません。大名が出兵するときその家族が無防備にならないように家族を詰め城に入れるといった利用法も詰め城の役割です。 一城谷城のケースは知りませんが、武田信虎が今川が攻めてきたときの防衛に出兵にしたとき、正室を詰め城に入れています。なぜそんな記録があるかというとちょうどその詰め城に入っているときに武田信玄が生まれたんですね。 おそらく他の一城谷をはじめとした他の詰め城でも、大名が出兵する時に家族を詰め城に入れ自分が離れる時の守りを固めたのではないかと想像します。
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回答ありがとうございました!
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回答ありがとうございました! 非常にわかりやすかったです!