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米西戦争

1898年に戦われたアメリカの剥き出しの帝国主義政策のための戦争という印象が強いですが、これによってアメリカはキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムなどの取るに足らない損害で大きな権益を得ました。この時のアメリカの戦略計画には調子に乗ってスペイン本国やらアフリカ植民地(モロッコやギニア湾など)に対する攻撃計画はなかったのですか?ヨーロッパ諸国の与論では弱い者いじめの感が強く反米、スペインに同情的でしたが・・

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  • fumkum
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回答No.4

こんにちは No3で回答したものですが、お礼文を拝読しました。ありがとうございます。 さて、スペインが権益失っても、講和しない場合とのことですが、講和しないということは、戦争を継続することと同義を意味します。戦争を継続すると、スペインにとってのデメリットが3点ほどあります。まず、戦費の問題です。過去の超大国スペインといえども当時は斜陽国で、産業革命に乗り遅れ、経済危機に陥り、国家財政は破綻寸前の状況で、とても長期の戦費支出に耐えられる状況にはありませんでした。二点目は国内が共和制の成立と王政復古の間で割れ、政治的な安定が得られる状況ではなく、戦争の長期化は政治的な危機に直結する可能性があったことです。後一点は最も重要ですが、戦争の長期化は列強の介入を呼び、更なる領土の割譲・買収を強いられる可能性が高いということです。そうなるとそれが国内の経済・政治にはねかえり、国家存続の危機に結びつく可能性が出てくることです。 この時代に戦争や紛争を長引かせるとどうなるかの事例が2つあります。コンゴ植民地獲得紛争と三国干渉です。 アフリカのコンゴの領有をめぐり、1880年ごろからベルギーとポルトガルが争いだします。ポルトガルが沿岸部からコンゴ川の流域を支配していたところにベルギーが割り込みをかけ、コンゴ川流域の内陸部に進出し始めます。ポルトガルにイギリスがつき、これに反発するフランスがベルギーを応援する形になりますが、イギリス、フランス共にあわよくば被支援国を出し抜いて、自分たちもおこぼれに与ろうと虎視眈々と狙っており、フランスは現地調査を実施するなどの行動に出ています。イギリスも1890年になりますが、*ポルトガル領ザンビア・ジンバブエ(ローデシア)を奪います。これは、日清戦争の後の三国干渉と同じで、清国の味方のような形で日本の遼東半島領有に干渉したロシアが、干渉に成功し、遼東半島が清国に還付された後、遼東半島の先端の旅順・大連を租借したと同じような構図です。 コンゴの領有をめぐっては、1884年に第二次ベルリン会議〔ベルリン会議(アフリカ分割)〕が開かれました。本来の議題は当然コンゴの植民地に関することですが、ドイツのビスマルクはコンゴ領有に関連するとして、当事国のベルギーとポルトガル、関係国のイギリス、フランス以外に、アメリカ(リベリア権益)・イタリア・オランダ・オーストリア・スエーデン・スペイン・デンマーク・トルコ・ロシア、そしてドイツの都合14カ国を招き、国際会議となります。コンゴ領有問題だけでなく、アフリカ分割・領有の原則を決めた場ともなり、この会議は第二次ベルリン会議ではなく、「ベルリン会議(アフリカ分割)」と呼ばれることが一般的になります。 この会議の結果は、コンゴ領有に関しては、主要部分(特に内陸のコンゴ盆地)をベルギー(正確には国王個人)が領有し、沿岸部の一部がポルトガルの領有になります。アフリカ分割・領有の原則は、最初に占領した国が優先権(先占権)を持ち、この先占権には沿岸部を占領した国は、内陸部(後背地)の領有を認められるとされ、コンゴに当てはめればポルトガルに先占権があるとも考えられる内容でもあったのです。結局のところポルトガルは大国の思惑に翻弄される形で終わり、コンゴ川の流域を失います。 ポルトガルのように戦争状態でなくても、大国の思惑によっては植民地を失いかねない世界情勢ですし、ましてスペインは新興国のアメリカに海陸軍共完膚なきまでに敗れている状況で、完全に足元を見られています。ここでぐずぐずしていると、ドイツだけでなくハゲタカが集まりかねない状態であるといえます。この時代は弱肉強食の典型的な時代で、強国のエゴがまかりと通った時代とも言えます。大義名分については、日本の政界の格言に、「大義名分は事の後から、トラックに乗ってついてくる」ということがあります。占領や実効支配という既成事実を作ってしまえば、それが大義名分になる時代で、現地人だけでなく、時には当事者(弱国)の感慨なども一顧だにされない時代ともいえます。 *ポルトガル領ザンビア・ジンバブエ(ローデシア)を奪います=イギリスは後の3C政策の元になるケープタウンとカイロを結ぶアフリカ南北縦断支配を目論み、ポルトガルの植民地を奪います。1898年にはアルジェリアから紅海沿岸のジブチまでのアフリカ東西横断領有を目論むフランスと、スーダンのファショダで衝突します。 以上、参考まで。

  • fumkum
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回答No.3

こんにちは 迂遠な話になりますが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、ミクロネシアの島々を南洋諸島という名称で、日本が国際連盟の委任統治した時期があります。この南洋諸島の元は*ドイツ領ニューギニアの一部で、そのまた元はスペインがミクロネシアに持っていた植民地でした。このスペイン領ミクロネシアは、米西戦争に関連してドイツに売却され、*ドイツの東洋にある植民地の一部となります。 ここにドイツが顔を出しますが、ドイツだけでなくヨーロッパ列強の思惑が、米西戦争を取り巻いていました。米西戦争直前のヨーロッパの状況は、ドイツ・ロシア・フランスの帝国主義的進出と、それに脅威を感じるイギリスとの相克の一面がありました。一方のイギリスはアメリカとの協調を考え、キューバやフィリピンがアメリカに帰属することに好意を持ちます。逆に、ドイツ・フランス・オーストリアなどはモンロー主義によるアメリカの外交姿勢に反発を持つという構図も存在しました。 特にドイツは、1884年にニューギニアの北東部、ニューアイルランド諸島、ニューブリテン諸島及びソロモン諸島北部(後に協議によりイギリス領)を手に入れ、1885年にスペインの名目植民地で、実効支配されていなかったマーシャル諸島を占領・保護領とし、1897年には山東省でドイツ人宣教師が殺害されたことを受けて出兵し、翌1898年には青島を含む膠州湾を中国より租借します。さらに、ドイツはスペインが領有するフィリピンや、ラテンアメリカにも触手を伸ばそうとしていたとされ、*アメリカが両方面に進出することにドイツは警戒心と恐れを持っていました。 このような中、アメリカ、スペインの関係が悪化すると、ドイツは1898年4月6日に、他の国も誘って、アメリカとスペイン関係の平和的収拾の為との名目で、共同提案をマッキンリー大統領に提出し、アメリカに圧力を加えます。同年4月25日の開戦後にも暗躍し、スペインにフィリピン、カロリン諸島、パラオ、マリアナ諸島の買収を提案しています。5月1日のマニラ湾開戦後には、ドイツのディーデイヒス提督率いるドイツ艦隊がマニラ湾に入り、スペイン側と交歓します。ただし、アメリカ側の反発でフィリピンの買収は断念し、後の南洋諸島の買収について交渉し、翌1899年に買収します。火事場泥棒的な動きをしたわけです。 このようにドイツなどのヨーロッパ列強も、スペインの海外植民地に関心を持ち、米西戦争に介入しようとしました。スペイン本国やらアフリカ植民地にまで手を伸ばすようであれば、ヨーロッパ列強の更なる介入を招くことは必定でした。 翻って、アメリカ国内を見ると、米西戦争に至るまでには、フランスが手を引いた後のパナマ運河建設の要望、大海軍建設(太平洋への本格的進出)の要求、モンロー主義の拡大解釈との相互関連が指摘され、イエロージャーナリズムの扇動が開戦に至らせたとも言われています。 この内、モンロー主義は外交的孤立主義と解釈されることもありますが、実際は地域(南北アメリカ)覇権主義に近いものでした。南北アメリカの非植民地化、南北アメリカへの非干渉、ヨーロッパへの非干渉の原則によっています。つまり、南北アメリカはアメリカの裏庭であり、アメリカが影響力を持つから、他国、特にヨーロッパ諸国は手を出すな、そのかわり我々もヨーロッパには干渉しないということです。ですから、アメリカは、最初からヨーロッパにまで進出する考えを持っていなかったことになります。 *ドイツ領ニューギニアの一部=ドイツ領ニューギニアは、ニューギニアの北東部、ニューアイルランド諸島、ニューブリテン諸島(後ビスマルク諸島)のようなニューギニア周辺の殖民地の他に、1899年にスペインより買収したカロリン諸島、パラオ諸島、グアムを除くマリアナ諸島及び、1885年にドイツが占領したスペインの名目植民地(実効支配されていない)であったマーシャル諸島などでした。この内、日本の委任統治領は、スペイン植民地に起源を持つ地域でした。 *ドイツの東洋にある植民地=ドイツ領ニューギニアだけではなく、中国の青島を含む膠州湾(こうしゅうわん)一帯も包含されます。その後、山東省全域にドイツの影響力が及ぶようになります。なお、第一次世界大戦で日本はイギリスの要請を受け、連合国側にたってドイツ領の青島を含む膠州湾を攻略します。 *アメリカが両方面に進出=1893年のハワイの王制打倒のクーデターは、背後でアメリカが糸を引いており、アメリカの太平洋への本格的進出の一歩でした。1898年にはハワイの併合を宣言し、準州とします。 以上、参考まで。

nobunaga1560
質問者

お礼

コメント有難う。 そうでした。合衆国には金科玉条のモンロー主義(孤立主義)がありましたね。スペイン本国やアフリカ州への攻撃はドクトリンを覆す行為なんですね。ではもしスペイン本国政府が米州や太平洋上のすべての権益を失った後も講和を拒んだ場合、合衆国は戦争の大義を失うのでしょうか?

  • ithi
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回答No.2

nobunaga1560 さん、こんばんは。 どちらかといえば、スペイン政府もアメリカ政府もやりたがらなかった戦争でした。ただ、アメリカの民衆がキューバなどのスペイン植民地の住民に同情して独立を手助けしようと思って起こした戦争です。口実はねつ造らしいですが、当時のアメリカの戦力ではスペイン本土に対して攻撃を仕掛けるような能力はないと思います。 米海軍が台頭するのは20世紀、特に第一次世界大戦後のことです。 詳細は下記のURLを参照ください。 米西戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%A5%BF%E6%88%A6%E4%BA%89 アメリカ海軍 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%B5%B7%E8%BB%8D

  • jkpawapuro
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回答No.1

戦力は策源地の二乗に反比例するといいます。 遠くアフリカに乗り出して相手の勢力家で列強と戦い植民地を奪い合うのは愚策です。どこの国も自分の庭だから勝てるのです、列強同士で遠く遠征して相手のテリトリーで戦いを挑めばだいたい負けます。 この時代は世界のまだ列強の支配下に入って無い土地を奪い合う時期で、アフリカ・アメリカ大陸、南アジア、東南アジア、とヨーロッパから近いところから徐々に進んだ植民地化で、最後に残った東アジア、日本と中国を列強が奪い合いにいく時代です。列強同士が争うのは中国の植民地分割が済んでからの時代になります。 そんなきわどい中日本は近代化に成功し日露戦争でかろうじて列強の一角に滑り込むわけですが、満州権益の獲得、中国市場への進出がアメリカとの中国市場での経済摩擦を生み、やがて太平洋戦争へと突入してきます。

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